保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津川の源流に「日本一」の三本杉

2017-12-06 08:54:52 | 保津川下りものがたり
保津川(桂川)の源流にあたる京都市左京区花背の大悲山に立つ「峰定寺の神木・三本杉」
が、なんと「日本一高い木」だということが判明しました!

これは林野庁がドローンを飛ばして測量し判ったもので、高さ62.3mあったとのこと。

それまで日本一だといわれていた愛知県新城市のカサスギ(59.6m)を
2.7mも上回ったと発表されました。

それだけではなく、三本杉のうち、2本目も60.7mあり、
一位と二位をこの大悲山の三本杉が
独占するかたちとなりました。

以前、保津川の源流を求めて、大悲山の奥地に足を踏み入れた時、
その巨大さな三本杉に度肝をぬかれた衝撃を思い出します。

細い小川となった源流の横に、「白鷹龍王」と掘られた石碑があり、
石段を数段登ると巨大な三本の杉を束ねる台根がむき出しなっている。

太古の大地から沸き起こる息吹きを感じる恐るべし杉です。
「古くより修験者の修行場として知られる大悲山ある秘境の寺・峰定寺。
その神木して崇められる三本杉。

保津川の源流ツアーを企画して、秘境の地へ「日本一」の杉を見にいきたいですね!

<了以伝> 商売への関心と従兄・栄可の存在

2017-12-05 11:17:54 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
ふるさと・嵯峨の地を開拓した古代の豪族・秦氏。
その秦氏に幼き頃よりリスペクトしていた了以は
「自分も秦氏のように、この川の流れを制して、世の発展に尽くしたい。」
という夢を持っていた。
医家の名門である吉田家の二男に生まれながらも、
生来、自然の野山を駆けることの方が好きだった了以は、父宗桂のような医学や学問よりも、
もう一つの家業であった土倉(金融業)や酒屋など商いに興味を持っていた。
また、家に集う公家や学者などの来客の話や格式やしきたりを
重んじる家風にも関心がなかった。

その点、吉田宗家の従兄・栄可の家は土倉に比重を置いた家柄だったので、馴染みやすく
子供の頃より、栄可の家に遊びに行くことが多かった。
「栄可兄の家には、うちのような陰気さや堅苦しさもない。大きな声が飛びかう賑やかさや
活気、これこそ、わしの性に合う。商いの醍醐味は学問では味わえない。」

父・宗桂も「この子は医師に治まるような気性ではない。商いに精進させよう」
と思っていたので栄可に家に通うことに対してのお咎めはなかった。
それに医師の宗桂に商いのノウハウを伝えるほどの経験もなかった。
「甥っ子栄可は兄・与左衛門亡き後、若くして家督を継いで、我が父の宗忠が広げた商いを
さらに発展させるほどの商売上手だ。やんちゃな了以を育てられるのは栄可しかいない」
という確信も持っていたのだ。

了以と栄可の祖父・宗忠は、近江の国より嵯峨の地へ本拠を移した
吉田家の中興の祖ともいえる人物で、医家の名門だった吉田家に土倉や酒屋という
商家の道を開き、巨大な富を築き、一族を支える大黒柱的な
存在だった。栄可の父・与左衛門は宗忠より早く亡くなっており、
栄可が祖母宗忠の死により事業を引き継いだのは僅か12歳の時だった。
祖父の後ろ立てがあり、やってこれた商売である。
その大きな支えが無くなったことは、一族の動揺を招きかねない。
「若い栄可にこの大所帯を切り盛りできるだろうか?宗忠は手広く商売を広げている。
とても12歳の子供がまかなえるものではない。」などの不安や心配の声が多く聞かれた。
この一族に流れる雰囲気は、幼い頃の了以にも敏感に察することができるほどだった。

このような一族の心配をよそに、栄可はメキメキと商売の才覚を見せ、
祖父譲りの頭角を表していったのだ。
「栄可の兄は凄いな~私も彼のようにバリバリと商いがしたい!」
と強く刺激を受けるのであった。

栄可も年が15歳も離れる従弟の了以に目を掛けていた。
「こいつにはわしに通ずる祖父宗忠の血を受け継いでいる。
可愛げはないが外交的な性格、未開の自然や野山を駆け巡る好奇心、
野放図なようで物事へ熱中し、予想外の発想をする。そして、医家特有の数字への強さ。
どれを取っても商人向きだ。末が楽しみな若者よ」と
巨商の目はその才覚を見抜いていたのだ。
栄可は自らの娘を了以へ嫁がすことにした。
これには自分の商いの片腕として了以を欲したことが動機だといえる。
いずれ土倉に専念させる気だった父宗桂からの反対はなかった。
なにより、幼馴染の了以もと栄可の娘からの異存はなかった。
了以17歳。本格的な商いの道の入口に立つ。


<了以伝> 若き了以がリスペクトした桂川の開拓者・秦河勝

2017-12-04 09:02:54 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
京都嵯峨の地で生を受けた了以は、幼きより桂川の流れをまじかに見て育った。
京の都でも一番の広さと流れを有するこの川は、嵯峨の大地を潤し、
上流部の丹波より良質な木材資源を筏流しで運び、都に恵みを届けてくれる
「親なる川」であった。
了以はこの川を眺めるたびに、ある人物を思い浮かべこうつぶやいた。
「いまの嵯峨の繁栄はこの桂川の水の恵みによるもの。我々は彼らぼ功績を忘れてはならない。」
彼らとは?「秦河勝率いる秦一族」だ。
秦氏は7世紀前半、山背国葛野(かどの)郡を本拠を活躍した渡来系豪族で、
奈良時代、聖徳太子に見出され、大和~山城の地で勢力を持っていた秦一族の族長的な人物。
「秦氏が造築したこの「葛野大堰」この堰を彼らが造らなければ、嵯峨の地はおろか、京の都すら出来てはいないだろう」

了以は幼い頃より父からよく聞かされた秦氏の活躍に、強く意識していった。
「この河勝率いる秦一族は桂川(大堰川~保津川)の流れを制し、
「京都」という新都プロジェクトの基盤となる土木・建築技術を保持していた。
地域の開拓は空想だけではできない。その計画を実行する為には確かな技術力が不可欠だ。
それを保持していたからこそ、秦氏は桓武帝をお導きし、新都を造営できたのだ。」

嵯峨はもとは「葛野郡」と呼ばれ、元々は川の氾濫原であり居住地としは敵しない
湿地帯だったが、流域は堆積物による肥沃な土壌が形成され水稲栽培をするには
願ってもない条件を満していた。
「その大地の潜在力を見抜いた河勝らの慧眼、おそるべし!、
暴れ川の桂川を自然の流れに任せていては
農耕どころか、人も安心して住めない。この流れを堰き止める大きな堰を建築し、
その水を送水することで稲作作用の灌漑用水を整備すれば、豊かな田畑に生まれ変わらせた」
その視点はまさに経済発展という視点だ。
「しかし、大雨が降れば桂川は、洪水となり、そのたびに流域は水没するうえ
、堆積土砂で流路すら安定しない。
その破壊的な悪条件が利用できるとは誰も思わないだろう。
秦氏はそこを逆手に取る「逆転の発想」で、農耕地化という突拍子ない発想に挑戦した。」
ではなぜ、このような発想が生まれたのか?
「それは秦氏が知識という武器を持っていたからだ。
高度な土木治水技術ももちろんだが、地域を潤わせるという公の精神が
根底に流れているからこそ、大きなリスクを覚悟してでも、
桂川の流れに果敢にも挑み、葛野大堰(一ノ井堰として今も機能している!)
を見事に完成させたのだ。」
「わしは、秦氏の「志」に強く惹かれるし、できることなら、
我もそのように「志」に生きたいのだ」

暴れ川を制し、堰築造事業を成功させたことで、
葛野郡は京都盆地で最も豊かな米作地帯へ開拓され、
嵯峨集落機能の基盤を確率した。
その事業には我が身、一族の繁栄だけを見ていたのではなく、地域、集落の発展という
大きな視野に立った思いがなければ、できるものではない。

その基盤の上に「長岡京」造営はもちろん「平安京」遷都があったことは間違いがない。
了以にとっては「同郷の誇り」であり「人生の目標」となる存在としてリスペクトしていた。

「嵯峨嵐山の地が景勝地として雅な風情を醸し出しているのも、
また葛野大堰の築造で川の水位が上がり、川溜まりができたことで、
都人が鵜飼や舟遊びに興じることができるのも秦氏の遺産によるものだ。」

「太古より現在まで、国の根本を支えているのは「経済」だ。
川の流れを制して大地を開拓し、豊かさを生み出すことで、
庶民は安定して暮らしていく事ができる。
政治はその上に、仕組みを作っているに過ぎない。
経済の視点抜きに、国を富ますことはできない。
経済の創造は人々を潤し、集落地域を潤し、そして末代に至るまで時代をつなぎ潤わせる。
その中から雅な文化、庶民の営みも生まれていくものだ」

「わしは秦氏のように、時代の先を読む知性と確かな技術、
その基盤を支える財力を生む経済に生きたい」
名門の医家で育った了以だが、その心には医学の道でなく、
実業という経済の道が確かに見えていた。
目の前に見える桂川の流れを見つめながら、了以の若き血潮が燃えてくるのを感じていた。

角倉了以という実業家とその精神を問いかけたい!

2017-12-02 09:03:14 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
近世の京都。日本の近代商業システムをつくりあげたと言われる実業家が生まれた。
その名は角倉了以。

時代の最先端の知識と技術で、経済構造の先を読み、当時では先進的なグローバル感覚と価値観に基づき、ビジネスを展開した、日本が誇るべき実業家だ。しかし!
その人物を紹介した史料は乏しく、故林屋辰三郎先生の著作以外にほどんどないのが現状だ。

「なぜ、歴史の表舞台に紹介されないのか?」
これは「角倉一族」の研究が進めれた国際日本文化研究センターの研究会でもよく議論に挙がっていた。
「彼は事業家だから史料は残ってない」とか「角倉家は幕末に幕臣になっていたから、新政府の歴史では省かれた」
また「江戸期の火災で史料が消滅している」などの学問的見地から意見が出された。
だが、宗家である「嵯峨の吉田家」は足利将軍の主治医を任された医家の名門であり、
祖父や父は三条家や山科家などの公卿や文化人の書き物に、その名が頻繁に記されている。
その力の源は土倉や酒屋などで培った財力だ。
それを引継ぎ、さらに日本規模の財力までに発展させた了以の史料は、もっと存在していいはずだ。

まさに、何か意図的に記録が消されたように了以の史料は少ないのだ。

一説には了以自らが「我が業績を称えることなかれ」と子孫に戒めたともいわれる。

河川開削により舟運が開通し、流域の各地域が経済発展をしても了以は
「この水運を誰が開いたなど、忘れられていい。ただ、それで便宜する人々が増えれば充分。」
と言っていたとも伝えられている。

了以ほどの人物の偉業が世に知られていないのか?その事実に迫るなど、私にはおこがましいことであり、
了以の本意ではないかもしれない。でも、これからも「了以」を追いかけることは止められそうにない。

了以をはじめとする角倉一族の実像とその企業家精神の価値を、現代の日本人、また世界の人々に問いかけていきたい。

この気持ちの発露が「了以伝」を書こう思う、最も大きな動機なのだ。

「了以伝」の執筆構想。近世における角倉一族の功績とは?

2017-12-02 08:56:35 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「了以伝」を執筆したいと思います。
近世日本にあって経済、技術、医学、文化、芸術、思想など様々な分野で
革新を起こした功績がありながら、あまりにも無名な存在に甘んじている角倉了以。

息子・素庵とともに築いた近代日本のルネサンスへの道を現代社会に問いかけてみたい!

日本の近代化の基礎は近世の産業・文化・技術が土台にあってこそ、成し得たこと!

京都の国際日本文化研究センターで進められた研究成果をもとに、
物語仕立てで、了以と角倉一族の実像に迫ってみたいと構想を練っています。

乞うご期待を!