保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

終局の時、リアルな夢できづくこと。

2024-04-01 08:11:45 | 船頭の目・・・雑感・雑記
昨日、私は死んだ。夢の中で。
とてもリアルな夢で、その時の情景や自分が死の淵で考えていることが
はっきりわかる夢だった。

記憶があるうちに文字にして記録しておこうと思う。

床に伏して終焉の時を迎える姿、家族が枕元にいるのがわかった。
まるで映像をみているようだった。
その時の自分の心境や考えていること意識できた。
その時、頭に浮かんで言葉は

「なんと楽しき人生だったことだろう。」

「これまで出会った人々、得たもの、出来事など全てに恵まれていた。悔いはない。」

という心境だった。

もちろん「みんなと別れるの辛いな~できることならもう少し生きていたい~」
という気持ちも頭を過っていたのも確か。

私たちって、生まれてきた限りは必ず死ぬもの。
そして、それはいつ来るかわからない。

終焉の時を迎えた時、人は「人生」を考えるものだ。

そして、その時はじめて気づくことがある。

「社会での成功なんてどうでもいいこと」

そんなことより、この世に生を受け人間という種に生まれ、
肉体と知恵を持って生まれてきたことは、
成功以上の奇跡であり幸運なことで、
すでにすべての人が成功しているといえる。

だから、人生の中で経済的に豊かであるとか、文化的に優れているとか、
スポーツで活躍するなどという社会的な成功といわれるものは、
本当は人生で一番大事なことではない。

だけど、せっかく人間として生を受け、この国に生きているのだから、
興味を持つことにチャレンジすることや活動したいという気持ちは当たり前で、
「こうなりたい」という欲を持って仕事を頑張ったり、
スポーツ・芸術・文化活動へチャレンジしているだけのこと。

それが上手くいかなくてもかまわない。
まして上手くいかないことが不幸などではないし、人生で最も大事なことではない。
チャレンジしていること自体がもうすでに成功である。

生まれてきたことが奇跡なので、成功とはすでにもう手にしている。

楽しきかな、我が人生。

また再会できる時を信じて、しばしお別れということで。

国民を想う・・・民のかまどの心はあるか?

2021-08-12 12:44:58 | 船頭の目・・・雑感・雑記
まあ、あまりネガティブなことを考えると「運気」が逃げていくと信じる私ですが、
なにやら、またまた緊急事態宣言が発令されそうな雰囲気ですね。

コロナ禍が起こり1年半が経った今も、繰り返される緊急事態宣言。
これまでに何か打つ手はなかったのだろうか・・・なんともやるせない思いで一杯です。

そして、この緊急事態宣言が発令されることで、どれだけの人々の生活が、人生が変わるのか・・・

想像するだけで只々、悲しくなります・・・・

古墳時代という遠い昔のことです。

第16代天皇だった仁徳天皇は、高台に登って集落を見渡すと、
人家の「かまど」から炊煙が立ち上っていないことに気づかれます。

皆、貧しくて御飯が食べられないのか・・・

そこで天皇は租税を免除し、民の生活が豊かになるまでは、お食事も着るものも倹約され、
さらに雨漏りしている宮殿の屋根の葺き替えさえもなされませんでした。

天皇のお姿に心打たれた民は熱意を持って努力して働き、次第に豊かさを回復していきました。

この仁徳天皇の御心は、国家の指導者たる者は「かくあらねばならない」という規範を示され、
日本人の精神性の中に息づき、後世まで語り継がれていくのです。

さて、令和の世です。現在の指導層に「民のかまど」の精神は継承されているのでしょうか?

祖国を護ってきた先人たちも令和の世を、天界から憂いながら見守り続けておられると感じるのです。

球磨川から届いた新聞記事 川とともに生きるとは?

2020-08-16 10:17:20 | 船頭の目・・・雑感・雑記
球磨川下りを運営する(株)シークルーズの瀬崎社長から、
水害に見舞われた人吉市を取材した地元新聞の記事を紹介いただきました。

先月、九州熊本県を襲った記録的な豪雨は、人吉市を始め流域集落へ壊滅的な被害を与えました。

しかし、記者の取材に地元の人々から出た言葉は

「球磨川は悪くない。自分たちが油断していた」

と、多くの恩恵を与え続けてくれた球磨川への愛情であり、
自然とともに暮らした長い歴史の中で培われた川への謙虚さでした。

この心情は、毎年のように保津川の洪水と向き合っている私にとって、
全く共感するもであり、感動しながら読ませて貰いました。 

自然と、川といきる者は決して自然を恨んだり、恐れたりしない。
それ以上に受けている恩恵を忘れることはないのです。

気候変動が予感される自然状況の現在だからこそ、
多くの人たちに気づいてほしい、自然への考え方であり、関わり方です。

そのことに気づいた記者さんも素晴らしい感性に持ち主です。

保津川の高瀬舟を球磨川下りさんへお譲りしたご縁から、
昨年、人吉市にご招待いただき、人吉の素晴らしい自然と川、美しい街並みと
温泉に魅了されました。
そして球磨川下りの船頭さんたちや温泉の女将さん、
観光協会の方々、松岡市長、金子代議士など
地元の素敵な方々と交流する機会をいただき、
一気に人吉ファンとなった私。

一日も早い復興をお祈りするとともに、復興した暁には、
必ずまた訪れなければならない「約束の地」だと感じているのです。

洪水で荒れた川を‘人の手’で復旧する川・保津川で息づく精神

2018-11-16 08:11:44 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今年は洪水の年だった・・・で終わるのか?と思っていたら、
なんと!渇水状態まで起こるとは・・・

自然の中で生業をすることは、かくも厳しいものなのか!

水位の減少にともない、船頭隊は身を切るような秋風が吹く中、
冷たい川の中へ飛び込み、運航上、邪魔になる流石や土砂を取り除く作業に
連日、取り組んでいる。

時には足場を確保するのも困難な急流部で、時には山のように盛り上がった土砂が
溜まる瀬で、船頭たちは体力が続く限り、川という巨大な自然と対峙する。

自然と共生する・・・という美しい言葉がある。私も好きな言葉だ。

だが、自然はけして、人間との共生などという、対等な関係を許してはいない。

人間は自然の一部なのだ。自然という大きな存在の中で「生かして貰っている」に過ぎない存在だと自覚する。

雨はまだ降らない・・・

我々は、人間力でできる限りの事しか出来ないが、1200年間も継承してきた、
川の水運と生きてきた「先人の知恵」と「伝統の技術」を駆使して、
生き抜く道を切り開いていくしかない。

巨大で急流の川を、人力で復旧している川は、世界広しといえども、ここにしかない。

自然に生かされ、人が生業をすることとは?

その答えは、ここ‘保津川’に今も息づいている。

経験したことのない自然災害に知る逆境観

2018-10-29 08:41:55 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今年の夏は、これまで川で生きてきて経験したことない自然災害に見舞われました。

7月の記録的な西日本豪雨にはじまり、超猛暑日が続き、台風のラッシュへ!

20号、21号、24号が近畿に上陸し、その合間にも記録的短時間豪雨が降るなど、
年間降雨量を超える雨が夏期だけ降りました。

川で生業をする我々船頭にとって、台風や豪雨は河川に洪水を生み出し、長期に渡り引かない水量で
仕事ができない日が続く事を意味しています。

今年は7月に約1ヶ月、更に8月から10月までの約2ヶ月、計3か月も仕事ができない日が続きました。
こうなると、会社自体に収入が入らず、出来高払いの船頭にも給料を払えないのです。
数億もの収益が見込めず、苦しい運営の中、一日も早く営業再開を目指して復旧作業の毎日。
やっと目途が立ったと希望が出てきた矢先、次の台風がやってきてすべての希望を押し流していきました。
復旧作業をしては潰され、また作り直したら潰されるの繰り返しです。
もう、修行をしている様な精神状態です。心身ともに疲弊していく日々が2ヶ月も続きました。

この逆境に見舞われ、追い詰められる日々、ドン底の心理状態で洪水の川を眺めながら思考を巡らせ瞑想していました。

ドン底にある人間には、普段では浮かばない思考が生まれるものです。ドン底にいる人間は強いのです。
ある日、はっと気づきました。
ドン底の心理状態の中で自分の心は死んでいた。死んだ心で浮かぶことは、
「なぜ、こんな目にあうのだろう?あんなに好調に走っていたのに・・・」
「こんなことになり、これから、どうなってしまうのか・・・」とため息をつきながら、
思い悩んでばかりいる自分に気付いたのです。
つまり、過去にとらわれ悔しがり、未来の不安に苛まれる心。この心が原因で心身ともに疲弊していったのです。
「これではダメだ!この逆境をどのように解釈するか?その心持ち次第で、今後の展開は変わってくる。」
「それには過去は過ぎ去ったこと、未来は未定のこと、現実にあるのは‘今’このときしかない!」
「あるのは永遠に続く今だけだ!今を生きろ!今を精一杯生きろ!」と心が叫び出したのです!
心の奥底から叫び声は、未熟な自分に何かを掴ませようとされる‘天の声’だ!

この瞬間、自分はこの逆境に意味を持たせたのです。

そう、心を定めた瞬間、まわりの景気が一変しはじめます。
そしてさらに、思考を深める実践の日々が始まりました。
それは人間としての成長への日々の始りだったのです。

逆境から学んだこと。次回はその思考と行動の旅路を書き綴っていきたいです。



宗教懇話会で講演。人が後世に残すものとは?

2018-04-16 12:30:25 | 船頭の目・・・雑感・雑記
新聞記者はなぜ、船頭になったのか?

400年続く伝統の操船技術を継承する為に費やした厳しい修行の日々。

これまでほとんど語る事がなかった我が人生を振り返り、残りの命をいかに使うべきか?

自らを鼓舞するために語りました。

人は必ず死ぬ。人生は一度きり。死はいつやって来るかわからない。
だとしたら、かけがえのない命、一体何に使うのか?

そして人が本当に後世に残すものは何なのか?

貴重な時間をいただいた「かめおか宗教懇話会」と、
かけがえのない1時間半という時間を、
私の講演に下さった会場の皆様に心より感謝申し上げます。

保津峡千年物語

2018-03-28 10:18:35 | 船頭の目・・・雑感・雑記
<保津峡千年物語>
2億5千万年前、浮遊微生物の化石が海底で積み重なった層が隆起して生まれた保津峡。

延暦3年(784)長岡京造営時から筏による木材輸送が始まり、平安京遷都造営事業により水運事業が活発になる。

412年前、慶長11年(1606)に角倉了以翁により舟運が開かれ、農産物や薪炭などの丹波産物が京の都へ供給される。

明治32年(1899)に京都鉄道(現嵯峨野観光鉄道)が開通し、京都~丹波=丹後間の人・もの・情報の流通や交流が盛んとなる。

そして現在、全世界の人々が年間約150万人もの人が訪れる峡谷となっている。

「船が下り、鉄道が走る」京の峡谷・保津峡には全時代に渡り、

人間の夢と希望、信念、そして最先端の知恵により自然に挑んだ歴史物語が息づいている。


今、執筆を進めている「了以伝」や「こんな会社の物語・保津川下り」と合わせ、

この「保津峡千年物語」も書き綴っていきたい。

先人たちの英知と精神を壮大な歴史スペクタクルとして描きたい。

さて、何年かかるかわからないが、必ず書き上げたい。

角倉了以翁と田辺朔郎氏 ~もうひとつの京都物語~

2016-04-03 12:37:14 | 船頭の目・・・雑感・雑記
1000年の古都として日本人に愛される都市・京都。しかし、その長い歴史の間には、幾度も衰退の危機に直面することがありました。
近世江戸幕府が開かれた時や明治維新後の東京遷都時もそうでした。この危機を救ったのは河川整備でした。
そしてそこには2人の志高き人物の活躍がありました。その2人とは角倉了以と田辺朔郎です。

では、この二人にどのような共通点があるのか?田辺朔郎・・・東京工部大学校(後の東京帝国大学工学部)を卒業したばかりの 24 才の技師。

明治政府による東京遷都で、朝廷という精神的支柱すら失い、京都は政治的・経済的に苦境のどん底にありました。
古都の復興と発展のためには抜本的な基盤整備の断行が緊急の課題でありました。その主事業計画こそが、京都と大津(滋賀)の境で
難所といわれた逢坂山と日ノ岡間を 隧道で貫通させて近江との舟運を開くという琵琶湖疏水計画でした。

当時の京都府知事・北垣国道は、朔郎の卒論「びわ湖疏水工事計画」に惚れ込み、工事全体の責任技師として抜擢したのです。
しかし、土木工事費予算として125 万円を要する疏水工事。当時の京都府の年間予算額でも 50~60 万円程度で、
国家全体の 土木工事費予算が約 100 万円と いう時代です。まさに桁外れの大プロジェクトです。
指導的立場にあった外国人技師たちも「今の日本の技術力では無理だ」といわれ、
かの福沢諭吉も『京都の風光明媚な景観を壊すだけで、害有って益無し。』と酷評しました。

しかし、知事は「京都復興」という不退転の決意で、この若き技師の朔郎に賭けたのです。

近世・江戸初期、政治の中心が江戸に、経済の中心が大坂へ移り衰退の一途を辿る都京都を復興させるため、
一族や地域住民の反対を押し切り、保津川と高瀬川開削に挑み、救った角倉了以。
その子素庵とともに夢見ていた計画こそ、まさにこの琵琶湖疎水計画だったのです。

世紀の大事業といわれた琵琶湖疎水計画は明治 23 年 4 月 9 日の開通式に天皇・皇后両陛下の臨席を賜り完成します。

そして疎水は舟運だけでなく、その後近代化に欠かすことができない主エネルギーとなる「電気」を水力で発電する事業を
可能にするともに市民の生活用水の確保にも役割を果たし、近代の生活基盤整備の確立へとつながっていきます。

まさに了以が保津川から丹波の木材資源を舟で運ぶことで、都の人々の火力エネルギーを供給し、
都の物価安定に貢献したことともオーバーラップする事業です。
そして、朔朗が完成させた琵琶湖疎水は100 年以上経った今も京都の人々の生活基盤を支える施設として重要な役割を果たしています。

朔郎は後年京都で没しますが、その時の戒名に「水力院釈了以大居士」と付けてほしいと希望したのです。

生涯抱いた角倉了以への強い憧れを感じずにはいられません。

角倉了以の志を知り、その思いを受け継いだ田辺朔郎氏。


思想という‘志’は時代を超えて人を潤し、地域を潤し、受けつがれるものだということがわかります。

人はその生涯で、何を残すか?

伝統を受け継ぐ私たちもこのことをしっかり心に修めて、歩んでいかねばなりません。

先人たちの情熱と偉業により守り続けられた古都・京都。

その奥深さこそが世界中から訪れる人々の心をとらえて離さない魅力の一つだと感じるのです。

保津川の木造船は今・・・

2016-01-18 14:19:23 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今から10年前。保津川が開削されて400年目の年でした。

ざまざまな記念事業が実施される中、今は見ることができなくなった
保津川伝統の木造船建造計画が行われました。

保津川の木造船最後の船大工さんや宮大工さんの協力のもと、その木造船は完成しました。

川になじむ重量感とこだまするように響く櫂の音。FRP船では味わうことができない乗り心地でした。

木造船建造は、船の制作過程はもちろん操船方法や感覚の違いを知る機会となり、
60年前に無くした曳舟の技術を蘇らせることに成功しました。

しかし、その後、木造船の目立った用途もなく、遊船の造船場の舟置き場から動くことはなくなりました。

保津川下りの船は川面を流れてこそ、その魅力を発揮するもの。

その活躍の場を得ることなく、朽ち果てていく木造船。

風化が進み、もう二度と保津川の急流を流れることはないでしょう。

でも、その姿を永遠にとどめる為に展示保管できる環境があれば・・・
と当たっているのですが、今のところは見つかっていません。

水運として京都を支えた保津の木造船です。


最後の船大工さんの作でもあり、何とか残していきたいものです。


写真は10年前、完成を記念して保津川を下った時のもの。

過去と現在がつながる場所・亀山公園の角倉了以像

2014-06-17 09:29:29 | 船頭の目・・・雑感・雑記
嵐山・亀山公園に建つ角倉了以像。
江戸時代初期に保津川(大堰川)や高瀬川に舟運を整備し、
近世の京都経済を救った恩人として建立されている。

私がこの像を眺める時、保津川下りの創設者の像だけではない、
私の過去と現在との不思議な因縁めいたつながりを感じずにはいられない。

実はこの像は二代目である。
初代は大正元年に建立されたが、第二次大戦時に金属提供に協力して取り壊され、
長く座台だけが放置されていた。

それを再建した人たちを私はよく知っている。

再建を思いつかれ、はたらきかけたのは元京都市会議員の小西恭二郎さんという
京都高瀬川が流れる立誠学区の方だった。ある日、夢に神様が出てこられ
『角倉了以像を再建し大堰川の舟運の功績を後世に伝えよ!』というお告げあったという。

そして、その為の資金提供をしたのが山段芳春氏だった。
山段芳春氏・・・この名を聞いて‘ピン!’ときた人がいたら、かなりの京都通だろう。
氏については以前このブログで詳しく書いたことがあるので、そちらを参照していただきたいが、
一時代、京都で大きな影響を持ち、様々な分野で手腕を振るった人物だ。
氏は、年老いて足元もおぼつかない小西老が、何度も通い再建資金の協力を懇願する姿に
感動し、再建計画を引き受けた。
まず、自らが主催する京都自治経済協議会の会員企業から寄付を集めると同時に
当時、名物市会議員であった木俣秋水氏に声を掛け、政界への協力を依頼した。
この木俣秋水氏こそ、学生時代、書生的にジャーナリズム論や政治学を指導してもらい、
前職である新聞記者になるきっかけをつくって下さり、師と仰いだ方であった。

山段氏と木俣師。

若き多感な時期に、私が邂逅した人物二人の尽力により
亀山公園の角倉了以像は昭和63年5月28日、再建され今日に至っている。

私が新聞記者を辞め、20年が経とうとしている。

私は今、角倉了以が興し、唯一現存している事業・保津川下りで働いている。
そして、その立場でこの亀山公園の角倉了以像を眺めている。

像の横に建つ石碑に刻まれた名を眺めていると当時のエピソードが
スライドショーの様によみがえる。

この亀山公園の角倉了以像は、了以を軸に、自分の「過去」と「現代」が
一つの線でつながる、大切な場所でもあるのだ。