保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津峡は川のジオパーク!地球創造の風景が今、ここに!!

2013-11-21 23:32:46 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津峡は川のジオパークです!
この美しい渓谷が形成されたのは、古生代石炭紀から中生代ジュラ紀にかけて
進行したプレート運動によって築かれたといわれています。

古生代やジュラ紀っていつ頃なのでしょう?
専門家によると3億5920年~2億5,100年位らしいのです。

海底火山活動により流れ出た溶岩や微生物など微粒珪質遺骸が集積してできた生物岩で
層状チャートの形状を現しているのが特徴です。

保津川下りの名所の一つ、書物岩(清滝川との合流点)は古赤道海域に生息していた
放散虫という微生物の遺骸が厚く堆積してできた岩壁が隆起したものです。

岩肌をハンマーなどで強く打てば「カン、カン」という金属音が鳴り、
火の粉があがるので昔から「火打石」として重宝されたものです。

深い海底で堆積され層状チャートを形成した地面は、大陸の地殻変動により動かされ
流れ運ばれ、隆起したものだといわれています。地上に隆起した後は
川となり流れ出した水により永年の時をかけ浸食され、今の保津峡谷が形成されたのです。

まさに、地球創造の風景が今、ここにある!
そんな大自然のいとなみや歴史ロマンに、直に触れることができる川下り、それが保津川下りです。

紅葉など四季の花々の美しい風景だけでない魅力。

保津峡はまさに天然自然が築いた『川のジオパーク』なのです。

保津川最大級の「綱はじき」があった「烏帽子岩」

2009-06-17 15:14:58 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津峡の入口といわれる「宮下の瀬(みやのした)からしばらく流れていくと、
左岸側に三角の形をした大きな岩が見えてきます。

この岩を私たちは「烏帽子岩(えぼしいわ)と呼んでいます。

「烏帽子」とは平安時代の貴人が礼服着装の際に被った帽子ことで、鎌倉時代以降
武家の「元服の儀式」で新成人の証として男子が着用していました。

岩の形がとんがった三角形で、この「烏帽子」に似ていることから
その様に呼ばれるようになったといわれています。

また、この烏帽子岩は、保津川の水運を語る上でとても重要な岩のひとつでもあります。

保津川の川舟は昭和23年頃まで、下った舟を終点の嵐山から出発点の保津の浜まで(約16km間)を麻の縄を使用し、
下り終えた船頭がもう一度、川岸を曳っぱり帰っていきました。
途中、大きな岩や石の横を通過する際には、曳き綱が引っ掛からないように
「綱はじき」とよばれる竹つくりの工作物が岩に沿う様に施されていたのでした。

その「綱はじき」のなかでも、最も大きな工作が施されていたのがこの「烏帽子岩」で、
一尺もある長い竹を使用しなと岩まで届かなかったともいわれています。

これは今年の1月、木造船を使用し60年ぶりに「保津川の曳き舟」を再現した時の写真です。
岩の裏に施されているのが「綱はじき」です。
この綱はじきは、川側に面する岩に‘しなり’をつけた竹が仕掛けてあり、
曳くごとに綱が上へ滑るように工夫がなされ、岩の頂上を綱が越える様に
作ってあります。
しかし、当時は曳き手となる船頭が走る「綱道」がもっと高い所に
作られていたことがわかり、写真で再現されている川側へのしなりはなく、
形状が少し異なったものであったと思われますが・・・

曳き舟にはひとり船頭が残り乗船しながら、綱の絡みやたるみを竿で直す役目をします。
舟の舳先に上り、竿で綱を叩いたり、弾かしたりしながら曳き手の船頭たちを助けます。

曳き手は先頭を走る「先綱」から約40数mの間隔をとり「中綱」「後綱」の
順番で一列に並び「舟を曳き、走った」といわれています。

このように舟に乗り竿を操る船頭と綱を曳き陸を走る船頭たちが、息と力を
合わせて協力しながら上流へ帰っていくのが保津川の曳き舟でした。

そして、曳き綱と曳き手が一直線上の角度を確保し、抵抗感なくスムーズに
曳き上げる為に施された工作物がこの烏帽子岩にみられたような「綱はじき」
だったのです。

保津川ではこの「烏帽子岩」をはじめ合計12ヶ所の「綱はじき」があったと
記録に残っております。


曳き舟作業が姿を消した今では、烏帽子岩は「おじゃる丸が被っている帽子」や
「神社の神主さんの帽子」のような岩として観光客に解説されるだけの岩に
なりました。

千年の都・京都を支えた保津川水運の歴史を語る上で欠かすことが出来ない
重要な岩であった「烏帽子岩」も、一つの大きな仕事・役割を終え、静かに
保津川の流れと観光船の運行を見守りながら、今もこの川岸に佇んでいるのです。



朝霧が演出する保津川の幻想空間!

2007-11-24 19:09:27 | シリーズ・保津川を下ろう!
深秋の保津川には渓谷一帯を覆う朝霧が出現する日があります。

今日の保津川がその日でした。
亀岡にある保津川乗船場周辺は、白い雲海に包まれた様な
幻想的な空間が広がります。

こんな日は数m先すら見えない深い霧の中を船が流れていくのです。

朝霧が演出した幻想空間の中を流れる船は、まるで異次元世界の
入口にも見える渓谷へすい込まれていく様で不思議な感覚を
おぼえます。

この濃い朝霧は、盆地である亀岡の地形に深い関係があり、
深夜に盆地の底の温度が放射冷却により一気に下がり、
地表温度が保津川の水温よりも低くなる事で起こる蒸発現象です。
この蒸発した水蒸気が低温の大気に冷やされ水滴に変わり
深い霧が発生するというシステムだそうです。


峡谷の入口も深い霧で覆われ、前方にうっすら見える
山や岩も、本当に実在するものなのか?
それすら分からなくなるような感覚になる風景が目の前に。

出航から30分ほど船は、この濃い霧の中を進んで行くと
急に肌をさす冷たい風が川面を勢いよく滑ってくるのです。
「ぶるぶる~」体が寒さで震え出す頃、その風に乗って
霧は勢いよく上昇し始め、霧の隙間から透き通るような
真っ青な空が顔を覗かし始めるのです。。
夢の様な‘桃源郷’の世界からから現実の世界へ、
私の眠りを覚ますかの様な澄み切った空の‘蒼’に
目をやられます!

この時の‘霧の灰色’と‘空の青色’のコントラストは
寒さを我慢しても一見の価値あり!

霧を吸い込み、青空を導き出す、まさに渓谷が呼吸している様で、
その音が船にまで聞こえてきそうな気がします。

霧が晴れた山を朝の強い日光が照らします。霧の水滴に
濡らされた紅葉の葉が、朝日を浴びて眩く輝き、
その紅さを一段と際立たせます。


霧が晴れ、お日さまの出現で峡谷の空はすっかり晴れ渡り
峡谷内一帯の気温も急上昇!あまりにも極端に一変した風景に

「さっきまでの霧に覆われた幻想空間は幻?」
と真剣に感じてしまう程の保津川下りで味わう朝霧。

晴天になる日の朝8時~10時までの船なら
この様な保津峡谷の幻想体験をすることができます。

霧が晴れるまではかなり寒く感じられますが、
大自然の素晴らしさを発見できることうけあいです。

‘紅葉と幻想霧の競演’が演出する渓谷美を
堪能できるのも秋の保津川下りの魅力の一つだと思います。

保津峡の入口、宮の下の瀬から・・・

2007-10-11 22:22:05 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下りの醍醐味はなんといっても、渓谷部に
入ってからの急流です。

その保津峡の入口にあたるのが「宮下の瀬(みやのした)です。
左岸側に保津川の氏神さまを祀る請田神社があり、そのすぐ
下を流れる瀬なのでこの様に呼ばれています。

保津川で最初の急流になるこの宮下の瀬は、船頭や筏師の
腕を試す場であり、またその日の川の流れや水量などの
状態を図る最初の瀬であるので、昔の船頭や筏師は
計りヶ瀬や試しの瀬、一の瀬などと呼ばれることもあった
操船者にとっては重要な瀬です。

保津川下りのお客さんにとっても、今では保津川下りの
醍醐味を予感させる初めての場所になり、歓声をあげられる
場所なのです。

この瀬のすぐ下流の左岸側には「ろくろ坂」と呼ばれる
坂道が残っており、開削当時ここから「ろくろ」と
呼ばれる開削用の工具を川へ降ろした場所と云われています。

宮下の瀬から続く急流からは、川は一面広く、周囲には
切り立った岩もない、見渡しのいい場所になってまいますが、
江戸時代末期までは、ぼたもち岩や屏風岩とよばれる巨岩が
あり、操船の難所と呼ばれていたところなのです。

これらの岩は洪水時に川の水を抱え、逆流し川のはん濫原因に
なり、上流の民家や田畑に甚大な被害を及ぼしていたことから
人工的に削砕し、崩すことでスムーズで穏やかな流れを
確保し、水害の減少に活かされました。

岩幅が約4m近くあったいわれる巨岩・屏風岩の跡は、
今も残っており、川のど真ん中にあり、川を二分して
いたといわれる屏風岩の巨大さを感じることができます。

屏風岩を粉砕しているところは、江戸時代天保年間に
亀山藩士・矢部朴斎が絵に書いて残しています。
その絵には屏風岩の上で猛火を焚き、岩がもろくなった
ところをたがねやげんので打ち込み崩していく場面が
描かれています。

今は正面に愛宕山まで見渡せる、爽快感溢れる箇所
である宮下の瀬から下流部は、船頭など川を操船する
者のその日の腕試し、調子を図る場所でもあり
亀岡の長い水害との因縁ある場所でもあったのです。



ヌートリアと猿のコラボで大盛り上がり!!

2006-01-09 15:14:49 | シリーズ・保津川を下ろう!
今日の保津川は寒さも和らぎ、今年初めての快晴に恵まれました。

朝、10時に某他府県からお越しになったおば様グループさん
13名を乗せ、出航したはっちん号。
大体、おば様グループのお客さんはにぎやかに盛り上げて
下さるので、はっちんも大好きなお客層です。
調子にのり、ついついバカトークも炸裂したり。

綾小路きみまろばりの自虐ネタ炸裂で盛り上がっている
そんな時、水面に珍しい川の動物が顔をみせてくれました。

「なにあれ?なんか川にいる!魚?」と騒ぎ出すお客さんたち。

その動物は水面に丸い頭を出し、こちらチラリ。
そうこの動物こそ保津川のアイドル・ヌートリアです。

全長50~70cmほどの小さな動物ですが、ビーバ風の出っ歯顔
けして速くないのに、懸命泳ぐ姿がなんとも見ていて愛くるしい
川の人気者です。

ヌートリアは保津川の船にも慣れっこで、船が真横を流れていっても
決して逃げることはなく、身近でじっくり観察できるのもグッドです。

「わぁー泳いでる~ こっち向いた!!」とヌートリアの一挙手ごとに
反応しテンションが上がるお客さんたち。

この騒ぎにはさすがのヌートリアも恐れをなしたのか?
珍しく潜水を開始、潜って姿を消してしました。

さすが保津川のアイドル、ヌートリア人気は凄いです。

しばらくすると今度は猿のお目見えです。


温かい陽気に誘われたのか、たくさんの猿が川縁に下りて来たようです。

「わあーさる、さる、さる!!!」と今度も大はしゃぎのお客さん。
「見て、見て、木の枝にの登って実を食べてるわー!!」
テンション最高潮です。

この騒ぎに今度は猿たちが食べる手を止めて、こちらを
不思議そうにじっ~と見つめ出しました。

しばらくしてこの騒がしい船が横切ると川沿いのサルたちは
一斉に山の斜面を猛ダッシュで駆け登り出したのです。

大体、保津川のサルも人には慣れているので、船が通っても
逃げ出す事は少なく、逆にえさでも貰えないかと寄って来ます。

それが今日は、一斉ダッシュです。

よほど、身の危険を感じたのでしょう!

保津川の人気者ヌートリアとサルも恐れをなした
おば様パワーの凄さを改めて思い知らされた川下りでした。

でも・・・キライじゃないぜ!by はっちん

幻想空間・朝霧の保津川下り

2005-11-14 19:22:37 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川の秋の風物詩といえば朝に出現する深い霧です。

乗船場辺り一体は白い雲海に包まれ幻想的な空間が広がります。

こんな日に、船に乗ってもらうと、数m先すら見えない
この幻想空間の中へ吸い込まれ、異次元の世界へいざなわれて
行くような不思議な感覚が味わえるのです。




この現象は以前にも書いたように、盆地である
亀岡の地形が原因となっています。

盆地の底の温度が、放射冷却により一気に下がりだし、
地表の温度より低くなり、この冷却温度が保津川水温
よりも低くなる事で、蒸発現象が起こります。

この蒸発した水蒸気も冷やされ、水滴に変わり
深い霧が発生するというシステムです。


峡谷の入り口も深い霧で覆われています。
深い谷と深い霧、幻想空間へと船は吸い込まれて行きます。
遠くにうっすら浮ぶ山も、本当に実在のものなのか?
それすら分からなくなるような風景。

ここは保津川なのか?現実感も薄れる風景なのです。


しばらく幻を見ているような錯覚に見舞われながら船を進めると、
身を切るような冷たい風が水面を勢いよく滑ってゆきます。
この風こそ、私達を幻想空間から現実の空間へと導く川風なのです。

風に乗り霧は勢いよく上昇し始めます。
すると!視界に透き通るような真っ青な空が姿を見せます!
まさに夢・眠りから覚めたような爽やかな‘青’です!
霧の上がる時に見える、青と灰色のコンストラストは圧巻で
何度見ても素晴らしい!

自然が生きていると感じる‘息吹’を確かに感じる瞬間です。



上昇する霧の隙間から暖かい日光が差し込みます。

霧が晴れるごとに水面が明るく照らされ、その太陽の光に
反射して山々が水面に映し出されます。
これが‘水鏡’です。

ぽかぽかしたお日様に照らされて、霧が出ていた頃の
寒さがうそのように、辺りは暖かくなってきます。

太陽の出現で峡谷の空は晴天です。
あまりにも極端に一変した風景に、確かにさっきまで
見ていた霧空間自体が、幻だったのでは?
変な錯覚に見舞われる秋の保津川下りなのです。

こんな体験ができる1時間40分の船旅。

是非、一度ご覧になっていただきたい幻想空間・保津川下りです。

晴れた日の朝、9時~10時までの船なら
この様な幻想体験ができます。
その代わり、太陽が顔を覗かせるまでは
相当寒いので、暖かい格好やカイロなどの
防寒対策をしっかりしてお乗りくださいね。

それと乗られる前には必ず‘トイレ’をお済ましに
なってからご乗船いただくことお願い致します。

大自然の素晴らしさをまたひとつ発見できますよ~

秋の保津川下りは‘紅葉と幻想の霧の競演’で、
お越しいただく皆様の目を楽しませてくれることでしょう。

シリーズ・保津川を下ろう!請田神社

2005-06-19 22:46:38 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下り・乗船所を出発して約15分、亀岡盆地をのんびり下っていくと
両側を大きな山々が囲む保津峡の入口が見えてきます。

その渓谷入口左岸上に保津川の氏神であり守り神でもある
‘請田神社’が見えてきます。

「請田神社・保津の火祭り」という大きな看板が
JR山陰線からも見る事が出来る、古刹感漂う神社。

実はこの神社ほど保津川の成り立ちに重要な関わりがある
神社は無いといってもいいでしょう。

和銅二年(709)、時の丹波国守・朝臣狛呂(あそんこままろ)が
創建したと伝わる古い社には、祭神として保津峡の開削を請け負われた
‘大山咋命’(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)
のニ柱が祀られています。

京都の歴史に少しでも興味のある方ならもう、お気付きだと思います。
この二柱の神様は保津峡の下流少し下ったところにある
酒の神様で有名な‘松尾大社’と同じ神様をお祀りしているのです。

亀岡に伝わる太古の神話によると、今の亀岡盆地が昔、巨大な湖だった頃、
この国を治めていた出雲の神・大国主命(オオクニヌシ)が
湖水を山背の国(やましろ・今の京都)に流すことで、
ここに肥沃な田地を創造することを計画。
国の東南部にある明神岳の頂に多くの神々を集められ、
保津峡を切り開く相談がもたれたそうです。

その時、開削一切の費用を請け負われたと云われるのが、
この社の祭神・大山咋命だったのです。
開削一切を‘請けた’→‘請田’になったとも、また湖水が流れた後、
田地が浮き出た様を見て‘浮いた’→‘請田’になったとも伝えられています。


これは神話だけの話では無く、亀岡盆地は100万年前、
巨大な湖であった事は現代地質学でも証明されています。

湖水の水が今の保津川から山背に流れたことでこの地に田地が
開けたというのはどうやら事実のようです。

実際の話はこうです。
太古の湖は、上流から流れてきた巨大な流木などが引っかかり
出口を塞いだ形で出来たもので、自然の井堰と化していました。

これを昔の統治者が、火を放って、巨大な堰を焼き払い、
湖水を山背に流した事業が、神話として伝わっと云われています。

この丹波の湖を切り開く方法として用いられた‘松明’は
今の保津の祭り「保津の火祭り」として残り、
毎年10月20日に豪快な炎を舞い上げています。

請田神社が鎮座する保津峡の入口を、保津川の船で
下られる際は是非「このあたりに巨大な流木の堰があった」
ということを想像しながら下って下さい。

太古が身近に感じることが出来き、一段と趣き深い船旅になることでしょう。

長い歴史と神話を今に演出している保津川渓谷の自然は
触れる者を太古に誘い、歴史的好奇心をくすぐります。

まさにロマンの世界が展開している、それが保津川なのです。


シリーズ・保津川を下ろう!山本浜

2005-06-13 17:37:45 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下りの乗船場から出発して15分ほどすると、
いよいよ前方に保津川渓谷の入口が見えてきます。

この保津峡の入口右岸側、川岸が平坦に整備された
ところが‘山本浜’と呼ばれる場所です。

‘浜’という呼び名が付いていることでも分かる様に
ここには昔、保津川下りの前身である遊船の船着場が
造ってあった所なのです。

この‘山本’という名前は、保津峡入口・右岸すぐ横の山裾に
ある小さな集落の地名で、太古の昔、保津峡を切り開いたと
伝えられる‘大山咋命(おおやまくいのかみ)’を祭神とする
桑田神社がある、古くから保津川に縁深い集落の名前を
取った浜なのです。

この山本浜には大正時代「山本浜嵐峡遊船株式会社」という
観光船の会社が存在し、この浜から、遊船が出航して
いました。

この会社は、今の保津川下りの乗船場がある‘保津浜’から
出航していた遊船の会社とは全く別の組織で、山本の集落の
人々が独自で立ち上げた会社だったのです。

つまり、大正から第二次大戦後の昭和23年まで、
保津川下りの会社は2社、存在していたのです。

この保津峡の入口にある山本浜は、京都から行くと洛西と丹波の境、
老ノ坂峠を西へ越え、そのまま山裾伝いを下ったら一直線上に
位置するアクセスのよさから、京都の観光客に大変人気が
あったと聞いております。
しかも、この‘山本浜’は渓谷の入口にあるので、
船を出航させるとすぐに急流が楽しめることから
外国人観光客にとても人気があり、当時では珍しく
国際色豊かな賑わいをみせていた‘浜’だったのです。

昔の浜は、川岸まで石段がつけてあり、その下から
船が出られる様に整備されていたそうです。

今では、遊船が出ていた当時の面影は全く残ってなく、
京都府の桂川河川改修計画により、
護岸を平坦に広く整備した段差のある
川岸に改修されています。
休日にはラフティングの出発点に使用されたり、
家族連れや若者グループがバーベキューを楽しむ
憩いの浜として、姿を変えているようです。

周りにはトロッコ列車の亀岡駅やJR山陰線・馬堀駅が
あり、今では浜のすぐ近くにたくさんの住宅地も
できています。

この浜には私はっちんもいくつかの思い出があります。

幼かった頃、父に「船を見に行こうか!」と誘われ
よく、この浜の先端部で、下っていく保津川下りの
船を見に行きました。
この時のイメージが、私の船頭になった動機のひとつ
でもあるのです。

はっちんが遊船に入った当時も、まだ原風景が残っており
その‘山本浜’から、今度は我が妻に連れられて幼い頃の
息子が「おとうたん~」と叫びながら、手を振っていた
いたのもこの‘浜’でした。

そういえばTVの「人生の楽園」の撮影で、
夫婦のツーショットインタビューを撮ったのも
この‘山本浜’だったな~
番組のオープニングのシーンで、二人で語らいながら
歩いたりもしました。

本当にこの‘山本浜’は、人生で忘れることの出来ない、
色々な思い出が詰った‘浜’なのです。。

*写真は対岸から見た‘山本浜’。後方にトロッコ列車の
 駅も見えます。



シリーズ・保津川を下ろう!下内膳堤

2005-04-27 15:53:31 | シリーズ・保津川を下ろう!
深い渓谷を縫うように流れて行く保津川は
大雨が降れば度々水害に見舞われる暴れ川でもありました。

周辺農家の方は洪水の度に、農地に水が流れ込み
多大な被害をこうむっていたのです。

特に保津川と支川が合流する河口付近の侵食被害は
ひどく、周辺の田畑に多大な被害が出ていました。

今回紹介する年谷川河口周辺も、本流である保津川が
細くなる渓谷入り口に近いことから侵食被害多発地帯でした。

この河口侵食を防止する為に、江戸時代に造られたのが
「下内膳堤」です。

「下内膳堤」という名は、当時の亀岡(江戸時代は亀山藩といった)
の領主であった岡部内膳守長盛の名前に因んで名付けられたもので、
同じ目的で上流に造られている「上内膳堤」に対して下流に
造ってあることから「下」と付けられているのです。

名領主として庶民に親しまれた長盛は、藩の重要事業
として侵食防止の堤防工事を計画、被害の酷い
河口付近二箇所を事業区域と定め計画を進めました。

堤防は河口の下流に造る方が効果がある為、
河口下流に川幅を広げ大きな水溜の湾を造り、
50間の石積みによる石堤により湾を囲む
形の堤防を建設しました。

長年、周辺農民の悩みであった侵食被害を防ぐ為の
事業に着手した藩主・岡部長盛は名領主と人々に慕われ、
「岡部長盛公、亀山を知り給い時、田地のわずらいをいとい給ひ、
川中に二つの堤を築出させ水勢を避け、その仁愛の深き事いちじるし」
という文献が残っています。

岡部内膳守長盛は慶長14年(1609)に下総国山崎から入封して
亀山藩を成立させました。長盛は徳川家康のもと、数々の戦に参加して
多くの手柄をたてた勇猛な将で、家康の信頼も厚く、京の都の隣国
亀山の領主に任命されたのです。築城途中だあった五層の天守閣・亀山城を
完成させているなど、多くの事業をのこしています。

長盛はその後13年間領主を務め、丹波国福知山に
移封して行きました。

先人達の悲願であり思いがこもった「下内膳堤」は、
今、石堤の姿も無く、その面影も薄くなっていますが、
周辺の人達が魚釣り場など憩いの場として
今も親しまれている場所なのです。

*写真は上から見た「下内膳堤」です。写真の左側の
 膨らんだ所が堤跡です。去年はコウノトリのお気に入り
 場所にもなって多くの方が鑑賞に訪れてました。

シリーズ・保津川を下ろう!年谷川河口周辺

2005-04-20 12:05:31 | シリーズ・保津川を下ろう!
源氏ホタルが多く生息する「蛍ヶ淵」を下りしばらくすると、
右岸側から小さな支流が流れ込むのが見えてきます。

この小さな川を「年谷川」といます。

両岸を田んぼに挟まれ、小さな段差から流れ落ち、
本流・保津川に注がれるその姿は、古き日本の小川を
思いおこさせ、ちょっと懐かしさ漂う風景なのです。

しかし、この年谷川河口周辺ほど、昔の状態を留めてなく
風景が激しく移り換わった場所も少なくありません。

その変化は特に河口反対側の左岸側に顕著にみられます。

古い文献によると、河口の少し上流に「地蔵渕」という
激流が混じり合い激しい渦を巻く渕があり、江戸末期の
天保5年までこの渕の上に地蔵堂があったとあります。

しかし、断崖絶壁にあったこの地蔵堂は、天保5年の
洪水の時、濁流が渕に流れ込み崩れ落ちてしまったそうです。
そのお堂の本尊である地蔵菩薩は養源寺というお寺に移された
そうですが、地蔵菩薩像の台座には、この渕の激流を表す
波しぶきの跡が今も刻まれています。

また、地蔵渕の少し上流の崖にあった墓地も
この流れによって崩れ落ち、今はなくなっています。
今でもその時崩れ落ちた墓石が川底に埋っているのです。


この年谷川河口付近も大きく様変わりしているようです。

安土時代に亀山(今は亀岡)を収めていた明智光秀が
亀山城の東端を示す為、年谷川の堤防(今の国道9号線~河口まで)
に黒松を植えました。その数は千本ともいわれ‘千本松’として
城下の庶民に親しまれたそうです。

さすがは当時の武将の中でも文化に精通した知将で知られた明智光秀。
やることが粋で雅び感漂う風流な演出をしていたものですね。

江戸時代の俳人軽森野楊(かるもりや・よう)は
この‘千本松’が丹波の深い霧み包まれて浮かぶ姿を見て
天の橋立に因み「野橋立」と命名してその風情を紹介したそうです。

この千本松も、昭和26年に亀岡を襲った大洪水により
流されてしまい、今はもうその風景を残していません。

河口付近も、今は落差が小さくのどかに流れ込んでますが、
昔は大変落差が大きかったらしく、地蔵堂など対岸から
見ると‘滝’に見えたという記述が残っています。


この様に一見、古き原風景を残している様に見える
年谷川河口付近ですが、激しい自然の力により大きく
その姿を変化させながら今日に至っています。

そう考えると私達が毎日見ている今のこの風景も、
けっして永遠のもではなく、いつかはその姿を
大きく変える時がやってくるのでしょう。

明智光秀も好んで眺めたであろうこの風景を、
今はっちんも毎日眺めながら、改めて自然の力の
偉大さとロマンを感じずにはいられないのです。

*写真は今の年谷川河口の風景です。