保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

角倉了以翁没400周年記念企画「了以伝」其の弐 「了以の少年時代」

2013-05-27 12:15:48 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「保津峡開削は、わしの子供の頃からの夢だった」

保津川の開削を決意した了以は周囲の者にそう語ったという。

了以にとって保津川開削は悲願だった。

当時、保津峡は何人たりとも寄せ付けない自然の要害で知られ、開削工事の発想はあっても
実際に工事を実行するなど、常人の考え及ぶものではなかった。

しかし、了以はそんな保津川の開削に夢を描き、実行に移していく

この強い信念は、彼が育った「嵯峨嵐山」という地に起因するところが大きい。

了以が少年時代を過ごした嵯峨嵐山は、目前に奥深い丹波山地の水を集め流れ込む保津川(大堰川)、
東に広沢池、西に愛宕山麓を臨む幽邃の地で、平安初期から都人の行楽・隠居の地として
社寺旧跡の多い閑寂な土地柄だった。
その反面、古くは帰化人の秦氏が堰をつくり、洪水を防ぐとともに荒地にかんがい用水を引き込み、
緑地と水田を発達させた渡来の技術が施された先進的な地でもあった。

この秦氏の堰造りという大工事と排水路整備は伝説となり、嵐山の人々の心に深く浸透し、
誰もがその話を聞いて育った。
また、川上流の丹波国も昔、一大湖水で、松尾の神様が鍬で山を切り、岩を砕いて
湖水を山城国に流し国を誕生させたという伝説話も浸透していた。
この伝説により生まれた川が保津川である。

了以もおそらくこれらの伝説を聞いて育ち、丹波とその国へつながる保津川に、
強い好奇心と冒険心を涵養して育っていたのだろう。

了以には他に、侶庵、宗恂という兄弟がいた。
他の兄弟たちが父・宗桂の血統を受け継ぎ、医術や学問に興味を持って育ったのとは逆に、
了以少年は学者肌な家風にあわず、家を飛び出しては野や山,川など外遊びを好んだ。
名医との誉れ高い父とその父を慕い訪れる人々も格式ばった公家や知識人にも馴染めず、
堅苦しい作法も性にあわないと感じていた。

ある日、了以は遊びに出たまま、夕刻になっても帰らなかった。
家人たちは一家総出で探しまわる。
「神隠しにあったのでは?」「もしかしたら、愛宕山の天狗にさらわれたのでは?」と
口々に話すものだから、騒動は益々大きくなっていった。

すると決まって、嵯峨鳥居元の愛宕一の鳥居からひょっこり姿を現したり、
小倉山の山中から下山してきたところを発見されるのが常だった。

「どこに行っていたのか?」と問いただす家人たちに了以は「それがまったく覚えていないや~」
「どこか山の中をさまよっていた様な気がする」などという曖昧な返事を繰り返すばかり。
そして翌日は、ぼんやり気が抜けたような表情で、何もせずにゴロゴロしていた。
その様を見た家人は「やっぱり、あいつは神隠しにあったのだ、いや、天狗にさらわれた」
という話に、信ぴょう性を持たせるに十分な不思議で奇怪な雰囲気を醸し出していたという。

ぼ~っとっ天井を眺めながら昨日のことを思い出していた。

その日、家の前を流れる保津川(大堰川)の上流から、なんともまぶしい光が射す風景に気がついた。

「この光を辿り、深い山々に囲まれた川岸を上って行けば、どんな世界が広がっているか?」
好奇心が胸に沸きあがる。

とはいえ、保津川岸は人が歩ける道などなく、断崖絶壁の足場もないような危険な
岩場を進んでいかねばならなかった。

当時、保津峡は「大人でも遡れない」「行くと命がないほどの危険なところ」と
大人でも恐る場所だった。
大人たちがそういえばそういうほど「行ってみたい!」
「丹波の国を見てみたい!」という気持ちに駆り立てられた。

了以少年は、その日から保津峡冒険への挑戦を始めた。

途中、前途を遮られれ、引き返す時も多く、また支流の清滝川を遡ることもあった。
愛宕一の鳥居脇で見つかった時などはおそらく、保津峡をさかのぼり、
途中で合流する清滝川をさかのぼり、愛宕修験の水垢離場であった神秘の里・清滝に入ったのだろう。

このように嵯峨嵐山という、神秘性を持つ地域や雄大な自然環境が、子供心の冒険心と挑戦心を育み、
先人の伝説と相まって、後に「この川を制してみたい!」という激しい衝動と信念を涵養し
保津川開削という一大事業を成功へと導く、動機の精神的基盤となっていたといえる。

角倉了以翁没400周年記念企画「了以伝」其の一

2013-05-10 16:51:38 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に活躍した豪商・角倉了以。
その技術力と財力、そしてスケールの大きなビジネスセンスは、
当時活躍していた他の豪商の中でも際立つ存在である。

だが、了以の活躍が世に注目され出すのは、彼が50歳になってからという晩年である。

では、それまでの了以はどのような生活、また人生を歩んでいたのかは、あまり知られていない。
了以はどこに生まれ、どんな環境で育ったのか?

稀代の実業家・角倉了以が誕生までの土壌と足跡を追いたいと思う。

角倉了以は天文22年(1554年)に京都の嵯峨に生まれる。
世は室町幕府末期で、各地で群雄割拠する殺伐した時代。
日本はまさに中世の終焉から近世が始まろうとする頃。

了以の本姓は吉田で、幼名を与七といい、光好とも称したが後に剃髪して了以と名乗た。

父吉田宗桂は室町幕府お抱えの有名な医師で、母は中村姓であること以外わかっていない。
宗桂は遣明団の一員として明に渡り、当時、最先端の医療知識を持つ医術者であったが、
その一方で土倉(金融業や質業、倉庫業など)も営んでいた。
宗桂には了以のほかに侶庵と宗恂という兄弟がいた。
系図では了以を長男と記するものもあるが、宗桂43歳の子である了以が長男である可能性は低く、次男説も強い。

了以長男説は、後に角倉の家督継ぎ、有名になった了以を中心に家系図作られたものと思われる。

吉田一族は近江国愛知郡日枝村の吉田の庄出身で、祖先は宇多源氏・佐々木家で、
源平合戦で活躍した佐々木定綱、盛綱の6番目の弟六郎厳秀が当地に住み着いて、
吉田性を名乗るようになったといわれる。

室町時代に入り、厳秀から9代目にあたる徳春が、足利義満に仕えるため、
吉田庄を離れ、京都へ移り住んだ。
そのころから医術者として迎られ、しばらくして嵯峨に居を構えた。
嵯峨吉田家のおこりは、この徳春から始まってといわれている。

では、角倉という土倉の事業はいつからはじめられたのか?

土倉業は、了以の祖父宗忠の父宗臨が興したとされ、宗臨の頃に「角倉」の屋号が記録に残っている。

角倉の商いは土倉だけではなく、酒造、帯、医薬などのあらゆる分野の品物を扱っていた。
吉田の一族の者は大なり小なり、この土倉をそれぞれが興し、一族協力体制のもと、商いの幅を広げてきた。

一族での経営は、当時、混乱する世情を背景に公家や武士への貸付額が増えていくリスクを一族で分け合う、
極めて合理的な思考に基づいている。

吉田家の土倉集団を角倉という屋号で呼び、本拠を大覚寺境内で営んだ。

この土倉角倉を大きく発展させたのが祖父宗忠で、その繁栄は孫の栄可へと引き継がれる。

了以が、歳の離れた従兄弟である栄可のもとに預けられたのが14歳の時。
さらに栄可の娘・君と結婚し、了以は名実ともに栄可の片腕として
角倉土倉事業を手伝い、商売のノウハウを身につけていくことになる。



角倉了以没400年記念企画「了以伝」序章

2013-05-10 09:32:04 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業

時は慶長19年、京都・鴨川の水を引き、洛中の二条から伏見までの舟運疎通工事を完成したその男は、
完成祝いにわく幕府の役人や工事関係者、見物に来た京都の町衆を見渡しながら、静かにつぶやいた。

「すぐにこの運河を誰が造ったなどは忘れてしまうやろう。それでいい。」
「この運河で便利になり潤う人々が増えれば、それで充分、本望や。」 

あれから約400年、その男の言葉通り、彼の功績を知り、語る京都人は少ない。

この男とは?・・・角倉了以。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に活躍した豪商だ。
そして、我々保津川下りの創設者・初代社長ともいえる存在なのだ。

先日、フランスで発売された世界的に権威があるといわれる観光ガイドブック・ミシュラングリーンガイドにも
「一つ☆」で掲載されるなど、観光川下りとして世界的に有名な保津川下りだが、
この舟運を開いたのも角倉了以であることを知る人も少ない。

近世の江戸初期に、私財と投じて丹波と京都嵯峨、また二条と伏見の産業水路を開削し、
京都~大坂間の水運流通路を開き、京都はもとより関西経済や文化の発展に大きく貢献したはずの
角倉了以の功績は、日本近代史の片隅に押しやられ、正当に評価されているとは言い難い。

だが、了以の事業を検証する研究者の見方は大きく異なる。
元東京大学の五味文彦教授は「中世から近世にかけて商業のシステムをつくりあげた人物」だといい、
大阪大学の山崎正和教授に至っては「日本の企業家精神をきづいた、いわば日本近代化の元祖」
とまで言わしめているほどだ。
それはただの商人像ではなく、また優れた技術者像だけではない。

実業家として近代的経営の思想からシステムまでつくりあげた人物として高い評価を示している。


了以から続く角倉一族が近世日本の発展に与えた影響はけして小さくない。

歴史の片隅に追いやれ、語られることなく忘れ去られようとする了以の功績を、
今一度、掘り起こし検証、研究することで、その価値を正当に、
現代日本へ問いかけることは、了以の遺産で生きる
我々保津川下りに従事する者の使命だと感じる。

これまで続けてきた「江戸近世における角倉一族の文化力と技術力の研究」をもとに
角倉了以、そして息子素庵から続く一族の功績をこれから明らかにしていきたい。