古来日本には同じ分野を極めるにも‘流派’という
技術の創造と伝承方法が存在します。
剣道や空手道など武道はもちろんのこと茶道や華道に至るまで
およそ‘道’と呼ばれる日本人の精神文化的な側面には、
必ず独自の技術継承過程で流派を生み受け継がれています。
約400年という歴史を有する川下り業である
私達の「保津川下り」でも‘流派’なるものが生まれ、
今もなお存在しています。
川船を流すことが出来ない自然の要害・保津川を
角倉了以が開削して通航できるようにしたのが
慶長11年(1606)のこと。
当時筏師はいたものの、川船を流す技術を有する船頭という人種は
保津川には存在していませんでした。
そこで了以は瀬戸内海「村上水軍」の流れをくむ船乗りたちを
京都嵯峨に呼び寄せ、保津川での操船技術を開発させたのが
保津川下りの操船技術の始まりです。
生み出された操船技術は、川沿いの集落である保津や山本
または上流地域に住む村人に教えられ、ほぼ変わることなく
今に伝えられています。
今私がいる保津川遊船企業組合もその地域性を残しながら
「4つの支部」に分担され運営されています。
しかし、実はこの「4つの支部」に操船技術に関する『流派』なるものが
存在し微妙に異なる技術が伝承されていることはあまり知られていません。
たとえば私が所属する3支部と2支部とでは船を流れに乗せていく
「瀬(流れがある所)の取り方が違うし、山本支部とは流す型は
ほぼ同じですが、舳先から棹を差し降りてくる時の「歩幅」が
異なります。私達は4~5歩で降りてくるのですが、山本支部は
7歩半という小股で降りてくるのが基本です。
「小股の方が船を長く蹴ることになり進み具合がいい」と
いうのが山本支部の主張。それに反し私達3支部は
「力強く勢いを付けて降りてくる方が進み具合はいい」
と譲りません。
自らの主張を絶対として譲らず後世に継承していく。
まさにこれこそ「流派」なるものの定義にほかなりません。
また3支部は「抜き棹」という舳先で止まって間髪入れず
棹を差す型を多用しますが、2支部は止まらず「下り棹」と
いう常に走りながら差す方法を多用します。
底岩が並ぶ狭い場所では下り棹は船への抵抗が
掛かり過ぎるというのが我々の主張ですが、後者は「棹の角度次第」
とこれまた正反対を主張するというわけです。
また、それぞれが使用する棹にも違いがあります。
1支部の持つ棹は長くて太いのに比べ、2支部の持つ棹は
それより一回りは細いものを使用します。
船の進路を決める舵を巻く緒も同様で、山本支部は極端に狭いし、
2支部は遊びがたくさんある広巻きです。
同じ川の同じ箇所を通る保津川下りでも、
これだけ操船技術に違いが存在するのです!
それぞれの主張には「なるほど理に適っている」と思われるところ
も多く発見でき、学ぶべきところも多いのですが、やはり、
最初に指導を受けた支部技術が基本となるのも事実。
また各自ともに自らの流派の正当性は譲れないところとも思います。
この流派なるものがどうして創始されてきたのか、詳しい背景
については明確には不明ですが、私は、それぞれの地域性や
歴史的な要因が大きく影響しているのではないかと考えています。
山本、3支部は純粋に船屋として創始されたのに比べ、
2支部は筏師転職組や今の航路に入っていない流れが異なる上流から
船を流した地域出身の者が中心となって創られた支部、
1支部は荷船としての重量の効率性や採算性、または
船の操船速度を重視したのか?
強い力を棹に掛けても折れず、更に他の支部の棹では
深くて届かない川底にも差せる利点のある長い棹を
使用していたのではないかと見ています。
これはあくまでも私の自説であり、裏づけも含めもっと深く
検証していく必要がありますが、今後の「保津川下り研究」に
面白い視点を与えてくれる分野だと思い、
今後のライフワークにしたいとも考えているところです。
私の自説はともかく、保津川下りに「流派」」と
いうものが存在しているのは事実。
「流派」という異なる操船技術を生み出しながら、
川の職人技として伝承されてきた「保津川船頭の操船技術」。
古来日本の伝統文化と呼ばれるものの、成り立ちと継承過程で
例外なく創始されてきた「流派」。
これを日本の伝統文化の一面を表すものと定義するなら
「保津川下り及び船頭」もまたまぎれもない日本の伝統文化と
呼ぶに値する存在であろうと確信する次第であります。
ますます、技術の研鑚に精進していかねばと、
意を強くするはっちんなのであります。