保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

陰謀の鐘・方広寺

2005-02-28 23:09:26 | シリーズ・京都を歩く
昨日の書いた京都の大仏が建つていた方広寺は
大仏だけの話で終りにするには少し勿体ない
お寺なのです。

実はこのお寺で、秀吉の死後に日本の歴史を動かした
大きな事件が起こったのです。

その事件とは?

三回目の大仏さんが完成した慶長19年(1614)の
大仏落慶供養の時に起こりました。

大仏さん完成からさかのぼること7ヶ月前、
方広寺の梵鐘も出来上がっていました。

秀吉の子、秀頼はこの梵鐘の表面に
「国家安康・君子豊楽」と刻みました。

これを見た徳川家康は、烈火のごとく激怒したのです。
家康の怒りの理由は「国家安康・・」という文字に
ありました。
家康は「家康という名前の間に安をワザと入れ、
引き離して、亡き者にしようと願っている証拠!」と
言いがかりを付け、落慶法要すら中止にしてしまった。

何と、無茶な言いがかりにも感じるが、
関が原の合戦で勝利して以来、虎視眈々と天下を
狙っていた家康にとって日本一の金持ち大名・豊臣家の
存在は目障りであった事は想像に難くないでしょう。
何か口実があれば、豊臣に喧嘩を売り、葬っておきたかった
に違いありません。
家康がこの梵鐘の銘文を見たときの
小躍りして喜んだ姿が目に浮かぶようです。

そもそも、この大仏さんも建立自体、豊臣の
私財を削減さす狙いから、家康本人が秀頼と淀君に
再建を進めたといわれています。

家康の老獪な陰謀に、時勢を読むのが甘いぼんぼんの
秀頼では太刀打ち出来なかったのでしょう。

この事件を境に、慶長19年(1614)10月に「大坂冬の陣」
翌年5月には「大坂夏の陣」が起こり、秀吉一代で築いた
豊臣家は滅亡してしまうのです。

豊臣家の滅亡により、徳川幕府の基盤は磐石のものとなり
その後、約300年近くも日本国を統治していくことになるのです。

日本の歴史おも動かした、この梵鐘は今も方広寺の
境内に残っています。

*写真が方広寺の梵鐘です。





京都に大仏さんがあった?

2005-02-27 18:20:44 | シリーズ・京都を歩く
皆さん‘大仏さん’と聞いて思い浮かぶのは
奈良の大仏さんに鎌倉の大仏さんの二つだと
思います。

しかし、京都に奈良の大仏さんを凌ぐ巨大な
大仏さんがあったのをご存知でしょうか?

‘あった’ということは、今はないということですが、
この大仏さん、何と造建以来、四度再建され、五度崩壊した
という悲劇の大仏さんなのです。

大仏さんが建っていたのは東山七条手前を北に入った
豊国神社横の方広寺(こうほうじ)です。
周辺には京都国立博物館や三十三間堂があります。

隣に豊国神社があることでわかるように、大仏さんは
天正14年(1586)に豊臣秀吉の命により着工され
文禄2年(1593)に完成しました。

この大仏さん、高さが19mで(奈良の大仏16m)
大仏殿の規模も高さ50m、前面82m、側面57mと
巨大なもので、奈良・東大寺の大仏殿を凌ぐ大きさ
だったといわれています。

本体は鋳造(ちゅうぞう…金属を溶かして鋳型に流し込んで造る)
ではなく、木造で造られ、漆を塗り金箔が殿内に輝くという
権力を顕示することを好む秀吉らしい大仏殿でした。

しかし3年後に関西を襲った慶長大地震で崩壊し
2年後に秀吉もこの世を去りました。

慶長7年(1602)に秀吉の子、秀頼によって大仏鋳造が
行われるも、完成真近に出火し焼失しました。

慶長16年(1611)には徳川家康の進めにより、
鋳造大仏は再建されましたが、またしても
寛文大地震(1662)で大仏、大仏殿ともに
倒壊してしまいました。

余談ですが、秀吉亡き後、天下を狙っていた
徳川家康が何故?豊臣家に大仏の再建を進めたか
は、秀吉の悲願である大仏建立に対する豊臣家の
思い入れに付け込み、財力を削減させる狙いがあったとも・・・

寛文7年(1667)に木造金箔漆造りの大仏が再建されるも
3年後寛文10年に落雷により炎上焼失。

その後天保14年(1843)に尾張の信者の手で木彫の大仏さんが
再興されましたが、この大仏さんも昭和48年(1973)に
またしても火災により炎上、焼失してしまいました。

その後大仏さんは再興されていません。

こうしてみる限り、本当に悲劇で薄幸な運命を
辿った京都の大仏さん。

京都の大仏さまは、当時の権力の全てを握った秀吉が
旧平安京・大内裏跡地に造営した聚楽第と並び
栄華の象徴といわれています。

しかし日本一巨大な京の大仏さんが辿った運命は、
その施主・豊臣秀吉が辞世の句として残した有名なうた
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
に表されるように、一時の栄華もいかにはかないもので
あることを教えてくれている様な気がしてならない
はっちんなのでした。

*写真は大仏殿跡地です。今は大きな石垣だけが
 当時の大仏殿の巨大さを物語っているようです。
 
*交通は市バス博物館三十三間堂前から徒歩5分/
〈豊国神社〉時間:宝物館のみ午前9時~午後4時30分/
 宝物館入観料:一般300円・大高200円・中小100円/
 お問合わせ 先:℡(075)561-3802
〈方広寺〉時間:本殿のみ午前9時~午後4時/
 本堂拝観料:一般200円・中学以下100円/
 お問合わせ先:℡(075)561-1720



吹雪く保津川

2005-02-26 19:47:11 | 船頭
今日は本当に寒い一日でしたね。

最近、春の気配を感じさせる程の
暖かい日が続いていたので、今日の
寒の戻りは、一層寒く感じました。

身体も雪交じりの強い風に晒され
骨の髄まで冷え切ってしまいました。

こんな日の外仕事はキツイですね。
足のつま先も凍えて、感覚もなくなる始末。

今日は船の仕事ではなく、一日中外で
作業をしていました。

今、こうして書いている時も少し寒気がするようです。

今日はもう寝た方がいいようです。
この辺で上がらしてもらいたいと思います。

船頭の道具

2005-02-25 15:57:48 | 船頭
保津川下りの船を流すには、操縦する為の道具が必要になります。

この道具を作ることも、保津川の船頭の大事な仕事の一つです。

船本体は専用の乗船所で船大工さんが造ってくれますが、
竹棹と櫂紐、舵緒という船頭が担当する各ポジションの
道具は全て船頭各自で揃えます。

その代表格が真竹で作る竹棹です。

船頭といえば船の舳先で棹を差す「棹差し」のイメージが
すぐに浮かぶくらい象徴的なポジション。
その棹差しの仕事道具が竹で作られる「棹」です。

全長約3.5m前後の竹棹は、自分にあった
長さや強さ、重さを計り、自前で用意します。

用意する為には、まず自分で竹藪を探し、その持ち主に
交渉、了解を頂いたら藪の中を自分に合う竹を探します。

これが中々大変です。広い竹藪であっても、自分に合う
竹棹はそうあるものではないのです。自分の手に握れる
程の細いくて、曲がっていない竹は真竹といえども
中々ないのです。

藪から切って帰った竹は、家で立てて約一年程、
水気を切り乾燥させます。

緑色の竹が黄土色に変われば乾燥は完了です。
その乾燥した竹を持ち、重さを量ります。
持って軽い棹は、船を操縦する竹棹といては
不適用ですので、捨てなくてはなりません。
そこで残った棹だけが仕事に使える棹です。

残る棹は本当に僅かです。大体、10本乾かして
仕事に使えるのは1~2本です。
残り8本は消去です。

残った竹棹は、曲がった節の部分を火であぶって
伸ばし真っ直ぐにし、先をくり貫き、サヤゴという
木を差し込みます。
これは急流の岩場に差し込んで、棹先が割れるのを
防ぐ為のもので、サヤゴの木を細く加工して
棹先に差し込みます。サヤゴは粘り気があり
すべりにくい木で、長さは約45cmで竹の外には15cm程
出し、竹の中にはその倍の30cm以上がはめ込まれています。

先の竹とサヤゴの接続部にはドンガメという金属の
輪をはめ込み固定し、岩に当たっても割れなくしている
のです。

新人の頃はこの作業をするのが大変でした。
町育ちのはっちんにとっては、なた鎌や棹くりの刃物
などを持ったこともなかったから、不細工な形の竹棹が
完成し、先輩達に笑われたものです。

今でもそれほど上手くは出来ていませんが、仕事には
支障のない程度にはなっていると自分では思っています。

手の器用な人の竹棹はまさに芸術品の様な仕上がりに
なっていますよ。
もし、船に乗られ、舳先に並べてある竹棹を見たら
こうして作られているのだ、と思い出してくださいね。

ここでチョッとお願い!もし、このブログをご覧の方で、
真竹の竹藪をお持ちの方がおられたら、是非切らせて
いただきたいです。京阪神なら取りに行きます。
ヨロシクお願いします。

その他の道具についてはまた次の機会に・・・

*写真は竹棹とサヤゴ、丸い輪が梶緒です。

船頭の通勤みち

2005-02-24 21:00:59 | シリーズ・保津川を下ろう!
前回に紹介した昔の船着場「下浜」の裏山沿いには
昔から保津の船頭衆が住む集落があります。

昔の船頭はこの裏山を下って、仕事場の着船場に
通っていたそうです。

この裏山には今も船頭達が通っていた細い路が
残っております。

地形が急な傾斜地になっていることから、曲がりくねった
階段状の坂道が続きます。
その中間地点に差し掛かると、路横に古い小さな祠が見えてきます。

この祠を保津の人達は「水神さま」と呼んでおります。

代々保津の船頭は、この路を通って出勤、家路にと
毎日往復する際、必ず「水神」さまに手を合わせて
いたそうです。

出勤の時は一日の運航の「安全」を祈願し、
帰り道には「安全運航できたことへの「感謝」の
気持ちで御参りしていたのです。

門構えも鳥居も何もない小さな祠しかない「水神」さまですが
保津の船頭の守り神として、強い精神的な支えなっていたのでしょう?

その路を歩いてみると、当時の船頭衆が棹を肩に
担げながら通勤する姿、その途中で「水神」さまに
手を合わし御参りする姿が目に浮かんできます。

代々先人の船頭さんの支えとなり、守られてきた「水神」さまには
はっちんの所属する第三支部が毎年、愛宕講の日(1月23日)の朝から
お供え物を持って御参りする慣わしになっており、当時の船頭の
思いを偲んでおります。

*写真の小さな祠が「水神」さまです。その横にある
 小さな路が昔の船頭が仕事に通う時、使っていた
 路です。現在は行き交う人の姿も稀となっている
 ようで、寂しい限りです。
 


高倉健さんが中国映画に初登場!はっちんは感動です。

2005-02-23 22:39:49 | 映画・芸能界
待ちに待った日本映画の重鎮・高倉健さんの新作の
全貌が昨日明らかになりました。

しかも今回はHERO」「LOVERS」でハリウッドを震撼さした
アジア映画の巨匠チャン・イーモウ監督が、メガホンを
握るというのだから、もうはっちんにはこたえられません。

映画名は「千里走単騎(原題)」という中国映画。

22日に東京・成城の東宝スタジオで行われた制作会見には
イーモウ監督と高倉健さんのツーショットが実現!

イーモウ監督は、文化大革命後に始まった外国映画の開放政策を受け
その第1作として中国で78年に公開された、高倉健さん主演の
「君よ憤怒の河を渉れ」(76)に感銘を受けたそうで、
「高倉さんは私のアイドルでした」と語るほどの健さんファン!
「いつか高倉さんと映画を撮りたい」と熱望されたことで実現したもの。

イーモウ監督は会見中も「まだ夢の中にいるようです」と顔をほころばせていました。

 一方、イーモウ監督のラブコールに応えた高倉健さんも、
「とても楽しく仕事をさせてもらってます。美しい映画ができると思います」と
、204本目の出演作に対する自信を語ってられていたので
とっても楽しみです!

今回の「千里走単騎」では高倉健さんが「病気で倒れた民俗学者の息子の代わりに
、京劇の撮影のため中国に渡る父親」という役で健さんの
原点に立ち返るような作品になるそうです。

テーマはズバリ、父と子の心の交流。息子役には中井貴一さんが、
その妻役には寺島しのぶの起用も決定しており、
日本で「演技派」として定評ある役者が顔を揃えることになり
映画ファンにはよだれが出そうな作品なのです!

なお、中国本土での撮影は既に終了しているらしく、日本パートを
「鉄道屋」で健さんとタッグを組んだ降旗監督が担当、
2月末にはクランクアップ予定だそうです。

この作品は05年末にまず中国で公開され、06年に日本公開予定です。

はっちんには来年まで待てな~い!


高倉健さんの海外作というと、リドリー・スコット監督の
「ブラック・レイン」やフレッド・スケピシ監督の
「ミスター・ベースボール」があり
いずれも圧倒的な存在感を出されておられました。

「ブラック・レイン」では完全に主演のマイケル・ダグラスを喰っていたし、
今は亡き鬼気迫る松田優作との競演もよかった。

今回の「千里走単騎」では趣がガラリと異なりますが、
きっと重厚な存在感を見せつけてくれるはず!
この様な心に染み込む人情ものは、高倉健さんの
真骨頂!きっと本領が発揮されることでしょう。


日本映画の重鎮・我らが高倉健さんと中国映画の巨匠・チャン・イーモン
監督がタッグを組んだこの作品は、これからのアジア映画の
の進むべき道を示す一作になることは間違いがないでしょう。

はっちんは今、猛烈に感動しております。




北野天満宮の梅花祭

2005-02-22 22:16:18 | シリーズ・京都を歩く
学問の神様で有名な京都・上京区の北野天満宮では25日、
恒例の梅花祭が開催されます。

この祭りは、祭神・菅原道真公の祥月命日に行われる祭典で、
「 東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
主(あるじ)なしとて春を忘るな 」
の銘歌を詠まれるほど、道真公が梅の花を
愛されたことから、鳥羽天皇(1109)が2月25日に
開催したもので、約900年もの古い歴史を持っています。


北野天満宮には約2万坪の境内に50種約2,000本(門内・梅苑各1,000本づつ)
の縁の梅が植えてあり、早咲きの梅は例年12月中旬頃
からつぽみがふくらみ始めます。
咲くのは例年、正月明けで冬至梅・照水梅・寒紅梅等が
咲き始め境内一円を梅の香りで包み込みます。

また、境内では「梅苑」も同時開催されており
紅梅・白梅などが咲いている庭園の散策が出来ます。

「梅苑」内には、天正17年(1589)に豊臣秀吉公が
京洛の区域の境界と水防の為、京都の四囲に築造した
御土居(国指定史蹟)の一部が残っており
梅苑内で同時公開されています。

北野天満宮は言わずと知れた学問の神様、菅原道真公の
御霊を鎮めるために天暦元年(947)に創建された神社で、
全国にある天満宮、天神の中心社でもあります。

平安の昔、右大臣大将の任にあった道真公が、
左大臣藤原時平と醍醐天皇の陰謀にはまり
九州福岡の大宰府に左遷され、失意の最後を
告げる事件がありました。

その死後五年、道真公の左遷に関係したものが
次々と亡くなる出来事がおこりまた、大干ばつに
見舞われた京都を対策を練っていた清涼殿に
稲妻は落ち、二名が死亡、その3ヶ月後に
とうとう醍醐天皇にまでおよび崩御するという出来事
が起こったのです。

当時の京の人達は道真公の呪い、祟りと噂し始め
この怨霊を鎮める為に北野に天満宮を創建したのです。

こう考えると天満宮は呪い深い悪霊を鎮める
神社で、受験生が御参りしたら、意地悪されそうな
気がするのですが、どうでしょうか?

「通りゃんせ~通りゃんせ~」という童謡を
ご存知の方も多いと思いますが、これも
天神さんの参拝の様子を歌ったものですが
聞くほどに不気味な内容が隠されている歌
だといわれています。

ちなみに北野天満宮の保留音はこの「通りゃんせ」
です。

(1)【梅花祭神事】午前10時(於本殿)
★祭典を奉仕する神職等は、冠に菜の花を
 つけ奉仕(菜種が宥(なだめる)に通じる)
★皇后陛下の御代拝(宮内庁京都事務所の所長)

(2)【野点】午前10時より午後3時まで
  (於絵馬所・上七軒歌舞会協賛)
★天正15年(1587)豊臣秀吉公が当宮境内で北野大茶湯を
 催した故事に因んで上七軒総出(芸妓15名・女将15名)の奉仕により、
 御祭神菅原道真公1050年大萬燈祭あたる昭和27年から
 毎年「梅花祭野点大茶湯」を開催する。
★境内の梅も見頃となり、馥郁たる雰囲気の中
 多くの参拝観梅者で賑わう。

(3)【献書・献花】京都文教女子中学校・高等学校(於本殿前西廻廊)

 ■野点拝服:有料1,500円
(拝服券・宝物殿拝観券・撤饌引換券=三連券)
 1月25日より拝服券頒布・先着3,000枚限り

 ■厄除玄来:1袋100円

 ■梅苑公開:有料

原田龍二主演「近江聖人・中江藤樹」を観ました!

2005-02-21 01:29:14 | 原田龍二さん
今日、心洗われる素晴らしい映画と出会いました。

江戸時代初期に身分の隔てなく学問の素晴らしさを
民衆に伝え広めた学者で、聖人と慕われた「中江藤樹」
の生涯を描いた作品でした。

理想に生き、志を貫いた主人公「中江藤樹」役を
水戸黄門の助さんこと原田龍二さんが熱演!

実直で熱き志を持つ原田さんのお人柄と主人公が
重なり充分感情移入できる作品に仕上がっており、
原田さんの澄んだ眼差しがストーリーを盛り上げ
はっちんは不覚にも感動の涙を禁じ得ませんでした。


中江藤樹は京都の隣、滋賀県の出身で、はっちんも
学生の頃に歴史の本で名前は少し知ってはいましたが、
その生涯を詳しくは知りませんでした。

今回、この映画を観て「何故、この様な素晴らしい人物が
歴史の表舞台から埋もれていたのか?」と不思議になりました。

徳川幕府が強いた「士農工商」の身分階級社会は、
その後続く、徳川300年の安泰を支えてきた制度でしたが
そんな時代のど真ん中で、人の尊厳と何者のも
囚われない自由な精神をもった中江。
その精神を形成し支えたのは古い聖人が残した
学問にありました。
そして本当の学問とは知識ではなく、この社会に実践してこそ
価値のあるものだということを知っていた人でもありました。

橋がなく流れそうな親子を見て中江は自らの手で
橋を架けようとしますが、それは最初、無謀で無駄な
ことに見えました。がしかし、自らが進んで実践して
いる姿に村人の心は動かされ、一人二人と増えて行き、
最後は多くの村人の手によって立派な橋が完成します。

このワンシーンを観たとき思いました。

「他の為に行う実践の姿が人々の心に橋を架けた」と!

理想を掲げ、志を曲げず進むことは、最初は誰からも不可能に
見えても、希望を捨てずその道を実践して歩んで行けば、
最後には人の心を動かすのだということを
この作品は証明していたと思います。

この熱情と誇り高き使命感こそ、
はっちんの大好きな‘ロマン’を感じます。

「人は誰でも生まれながらにして美しい心(良知)を持っていて、
その心を汚さずに鏡のように綺麗にしておくことが大切だ」
という。中江が残した言葉‘致良知’(良知に致る)が
心に響きます。

人は生まれながらにして、美しい心と自我に囚われる心
の両方を持ち合わしていますが、
鏡は美しく磨いておけば、美しい有りのままの
姿を映し、曇っておればぼやけてけっして美しいものは
映せないでしょう。
心の鏡も同じで、他を思いやる心などの美しい感性で
いつも磨いておれば、必ず素晴らしい風景を
みる事が出来ると感じます。

「美しい心という人間の最良の部分を引き出す為に
学問があり、知識の習得があります。
学問の前には身分階級の隔てが無い」
と説く中江の教えは、現代の偏差値至上主義、
競争原理の学問に慣れきっている私達に
「何故学ぶのか?」という」根本を問われている
ような気がしてなりません。

時代が変動し経済や政治が移り変わっても
最後の残るのは教育だと言われております。
これからの教育はどうあるべきか?
を考えさせられる素晴らしい作品であった
とはっちんは思った次第です。


中江藤樹作品HPこちらから!









「保津川下りの船頭さん」HPを更新!

2005-02-20 22:58:54 | 船頭
毎日の様にブログは更新している私はっちんですが
自分のHPは去年末からまったく手が触れられて
いないのにお気付きの方もおられるのでしょう。

去年末に起こったパソコンクラッシュ事件以来、
ホームページビルダーとの接続が上手くいかず
触れなかったのです。

本来、アナログ人間のはっちんです。

説明書を見てもなぜか上手くいきません。

そんなはっちんに今日、救世主さまが現れたのです。

その方ははっちんのHPのトップページを作って下さった
デジタルデザイン「aQuary」の森下さんです。

aQuaryさんは今流行の京都の町屋をリフォームした
一室に事務所を構えておられ、京都の行政機関やNPOから
町の商店さんまで、幅広い分野のお仕事をされて
おられる方なのです。

二時間にも及ぶレクチャーの甲斐あって
なんとか充実したページになったと
自分では満足しています。

覚え悪く忘れっぽいアナログはっちんの
細かい注文にも的確にお答えいただき
ありがとうございました。

このブログの「京都情報」と「京都を歩く」
「保津川を下ろう」のバックナンバーは
HPの「京都・亀岡案内」の
ページでも開ける様になりました。

これからは「リンク」のページも充実させたい
と思っておりますので「はっちんのページに貼りたい!」
と希望される方はお気軽にご連絡下さい。
自分でいうのもなんですが、京都の人気観光の一つ
保津川下り関係のHPなので、毎日結構な数の
アクセスがありますよ~

よかったら新しいHPをご覧下さい。
このブログのブックマークから開けます。

aQuaryさんのHPはこちらです!

晴明神社の占い

2005-02-19 21:14:14 | スピリチュアル
皆さんは占いや心霊現象とかを信じますか?

昨今は、スピリチュアルなとかや大殺界おばさん
などがマスメディアで人気があるようですね。
テクノロジーが発達しても、人の神秘への
興味は変わらないものだなと思います。

京都で占いといえば、最近ブームの「安部晴明」
を思い浮かべる人は多いではないでしょうか?

夢枕獏さんの漫画で一躍人気に火がついた陰陽師・安部晴明。
その晴明を祀るのが堀川今出川を南に下がったところに
ある「晴明神社」です。

最近はあまりにも有名になり観光客がたくさん訪れる
ことから、堀川通の商店街も‘晴明神社参道商店街’と
名乗るほどの盛況ぶりなのです。

この晴明神社、全国的に有名になる前から京都の町衆
の間ではすでに知られた存在でした。
神社名を‘せいめい’と読むことから姓名判断・
名付けの神様として京の町衆からは
‘せいめいさん’と親しく呼ばれています。

占いや心霊に関心の深い私はっちんも‘晴明さん’は
その霊感力に一目も二目も置いているのです。

晴明さんでは本殿横の綺麗なおもり所の中で
毎日、神主さんが占いによる人生相談を開いておられます。

「よく当たる!」という近所の評判を聞きつけて
はっちんが初めて晴明さんを訪れたのが今から15年前。
それからはよく遊びにいっております。

晴明さんでは人生相談を受ける手続きは一切なし。
勝手におもり所に上がり、待合室で順番を待つ人の
最後列に座り、順番を待ちます。

初めて見てもらった時の話です。
「さあ、話そうか」と顔を上げて神主さんの目を見た瞬間でした。
その鋭い眼孔に見据えられ背筋に悪寒が走った様な衝撃がありました。

断っておきますが、私はっちんは今でも占いや心霊物
には眉唾者も多く、にわかには信じてはいません。
しかし、あの人と会った時は確かに体中の五感がフルに
動き出した感覚があったのです。

そして相談への判断結果は見事に的中したと
だけ申しておきましょう。

またある友人が「結婚するので相性を見て欲しい」と
いうので、晴明さんに連れて行ってあげた時のこと。
生年月日と名前を話した後、相手の人の写真を
見せて占ってもらいました。
「じっ~と」写真を睨むこと約一分。
にわかに神主さんの目が見開くと同時に
「この人は男がおるで!やめなはれ」と
仰ったのです。
この言葉に二人とも絶句!
「そんな事はない!」と否定する友人。
「その様に見えたのだが・・・」と神主さん。

帰りはどの様な言葉を掛けていいかわからず困りました。

そしてその結果は・・・ご想像にお任せします。

最近は陰陽師ブームのお陰で、入り口や境内地も
広く立派になった晴明さん。若い女性の観光客の
姿も多く、華やかになりました。

今でも神主さんは毎日、人生相談をされておられます。
この前訪れた時は少しお年を召されたようでしたが
相変わらずお元気でご活躍のようでした。

京都に来られ、もし時間が許されるなら是非、
晴明さんに占ってもらってはいかがでしょうか?

京都で運命の切り替えが出来るかも?しれませんよ。

*占いは日曜日はお休みです。
 通常の待ち時間は2時間はみていて下さい。