保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

千年の都・京都に潜む「京都異界散策」桓武天皇の都

2022-11-24 09:02:08 | スピリチュアル

学生の頃からミステリーチェイサーを自認する私が、
京都の不思議・ミステリ―の視点から調査し、案内をする
シリーズ「京都の異界散策」

794年、京都に新たな都・平安京を造営した桓武天皇は、
遷都計画の途上で数々の天然災害や疫病,飢饉に見舞われ、
母や側近など愛する人々を次々に失います。

これら幾多の不幸や災難の原因は自らで罰した弟「早良親王」の怨霊のなせる祟りだと
思い込むようになり、その祟りをとても恐れていた云われています。

天皇は都を設計する際、風水思想の四方の神「四神」に頼り、東は青龍・西は白虎・南は朱雀・北は玄武と
それぞれに「守り神」を配置し中心に「大将軍」に守護させ、鬼や怨霊の通り道である鬼門に社を建立し
霊的結界を張り巡らせたのです。
いま風にいうと「霊的防御システム」といったところでしょうか?

その中心として内裏の西北(乾)の天門に創建されたのが
今も京都市上京区一条通りに残る「大将軍八神社」です。

時代が進み室町時代。
幕府の統治能力は著しく低下し、守護神の社と定めた御霊や玄武の船岡山など神の領域として
都に張り巡らせた結界は破られ、桓武の都は戦乱により火の海と化したのです。これが「応仁の乱」です。

長きに渡り封じ込まれ、くすぶりながら身を潜めていた怨霊たちは、戦乱という人々の狂気を
千載一遇の好機と見定め、弱まった霊的防除システムを解いて、都になだれ込み跋扈し出し、
桓武天皇が築いた都は焼失してしまったとは考えられないでしょうか?

京都には魑魅魍魎が跋扈する異界だからこそ、今でも各所で「祭」が執り行われています。

京都で起こる様々な事象、それは単なる偶然ではなく「怨霊」のなせる仕業ではないか?
その荒ぶる祟りを鎮めることを京都の町衆の深層心理の中に確かに息づいているように感じます。

一見、雅やかで賑やかな京都ですが、今も秘かに身を潜め、混乱に乗じて再び跋扈する機会を
探っているとしたら・・・内憂外患でなんとも不安感がぬぐえない時代です。

京都の異界に立ち込める暗雲を払い清め、桓武天皇が願い望んだ「平安」を築きたいものです。

#怨霊#結界#風水#桓武天皇#京都#大将軍八神社#四神相応#早良親王#崇道天皇#京都の夏

お盆特別企画最終稿、保津川で私の足を引っ張った‘もの’の正体とは?

2011-08-16 19:34:51 | スピリチュアル
京都ではもうすぐ「五山の送り火」が行われます。

お盆にお帰りいただいた「お精霊さん(おしょうらいさん)」と呼ぶ
ご先祖様の御霊を再び冥府へお送りする行事です。

お盆も今日で終わりということで、この保津川お盆特別企画も、
送り火とともにいよいよ今日が最終稿となります。

最後ということで、今日は私が保津川で実際に体験した
ことをお話ししたいと思います。

保津川下りの船頭の仕事で花形といわれる「さおさし」別名「さしこ」。

舟の舳先で迫りくる岩壁を一本の細い竹竿でかわしていく姿はまさに「匠の技」です。

私たち船頭にとってこの「竹竿」は命ともいわれ、とても大事な仕事道具です。

でも、まだ慣れない新人の頃は、そんな命ともいわれる大事な竿を、
川へ流してしまうことがよくあります。

そして、その日も舟の操船中に何気げなく川底に差した竿が
川の中に沈んでいる岩と岩の間に噛み、抜けなったのです。
こんな場合、竿を持つ手を素早く手前に起こし、抜き取るのですが、
その時はよほど強く噛んだのか?抜き取ることが出来ませんでした。
このままでは体ごと引っ張られ川へ落ちてしまう。 
仕方なく竿から手を離し、川へ刺さり突っ立つ状態で
竿を置いていくことになりました。

その日、2回目の操船中に同じ場所を通った時、竿の姿はなく、
少し下流の川岸に流れ着いているのがわかりました。

日ごろ、師匠の船頭からは「竿は船頭のいのち、粗末にしてはならない」と
強く教えられていましたし、事実、竿は貴重な仕事道具。
流してしまえば、どんなに時間が遅くても変わりの竿を作り、
用意しないと明日の仕事に間に合いません。

私は操船終了後、流れた竿を取りに行くことに決めました。
今ではひとり行く事はせず、最低二人で行くように言われていますが、
新人時代で付き添いをお願いする人はいません。
ひとりで車を運転して川沿いの山道を走りました。
竿が流れついた場所と思われる崖の上の道に車を停め、
その崖を下り、川岸へ向かいました。

下りてみると、竿は手を伸ばせば届くと思っていた「川岸」
ではなく、どう見ても2mは向こうの川に浮かんでいました。

これでは川へ入り、泳いでとるしか方法はありません。

時間は午後5時過ぎ、辺りは徐々にですが、薄暗くなってきていました。
水面もだんだん濃い緑色へと変色しているようにも感じました。
川の流れる音だけが聞こえ、人影ひとつない山深い渓谷のど真ん中。
目の前を小さな円を描きながら漂流する竹竿だけが、静かに秩序立った
川の風景にアクセントを付けている、そんな空間です。

靴のつま先が水辺に浸かりそうな川岸で、竿を見つめながら考えました。

私は泳ぎには自信があります。小学生の頃、伝統ある水術を教える
京都の踏水会で学び、琵琶湖遠泳も経験しています。
竿は川へ入ればすぐ手の届く場所にある。私は少し迷いましたが、
「思い切って入れば、ものの数分でかたが付くこと」。
私は意を決して服と靴を脱ぎ、川へ飛び込むことにしました。

川へ飛び込み、目の前に浮かぶ竿に手を伸ばそうとしたその時です!

急に足元にもの凄い圧がかかったと思った瞬間、
体が川底へ引きずられていくのを感じました。

「ヤバい!」恐怖感が体と脳裏全体を襲いました。

「なんなんだ、これは!」そばの岩にしがみ付きましたが、
再び足元が岩の裏へ引きづり込まれていくのを感じました。

どうやら岩の底の部分が丸く内に凹んでおり、そこへ足が吸い込まれていくのです。
そう、水圧のようなもので体が川底へ引きずり込まれる、そんな感じです。

私は水中で足をまっすぐ揃えて伸ばし、背筋を使い大きく後ろへ蹴り、
その瞬間、岩をつかんでいる手に渾身の力を込め、懸垂の要領で
身体を持ち上げ、岩の上へ這い上がりました。

「ふう~助かった・・・」本当にそう実感できました。

竿はその岩から手の届くところへ舞い込んできてていたので
掴むことができ確保できました。
確保した竿を、川底へ突き刺し、ちょうど走り高跳びの要領で
岩から川岸へ跳び移りました。
とりあえず脱いだ服で体をふき、素早く着衣して、山道に止めてある
車へ向かい崖を上がりました。
車に着いた頃には、かなり日が陰っていたように思います。

帰りの車の中で「もし、あのまま川底へ引きずり込まれたいたら、今ごろは・・・」
と思うと背筋に鋭い悪寒が走り、背中を冷たい汗が伝うのがわかりました。

このように「川には魔物が棲んでいます」上から眺めていると
何気ない穏やかな流れだと思っていても、川の中は複雑な流れが絡み合っています。
思いもよらない変則的な水圧もかかってきます。
川に入るときは、十分注意してほしいと思います。

この話にも後日談があります。

それから10年近くが経ったある日、このブログに載せる川の風景写真を
撮ろうと、舟の舳先でデジカメを構えていると、水面をなにか大きな物体
が流れていくを発見しました。
「なんだろう?」とカメラ越しに見ていると、
それがモノではなく・・・・ということが、すぐにわかりました。

なぜか?今でもわからないのですが、私は思わずカメラのシャッターを
切っていたのです。
そして、その場所とは、竿を拾いにいったあの川岸だったのです・・・

水圧だと思っていた、あの水の力は、別の何かだったのでしょうか?
川は魔物です。

そして、その写真は、今も私のPCのデーターの中に保存されています。

お盆特別企画 第三弾 ある渓谷を走る鉄道で起こった出来事・・・

2011-08-15 20:59:09 | スピリチュアル
時は明治後期・・・日本各地では鉄道線路が敷設されはじめ、、
日本近代産業発展の象徴と呼ばれ推進されました。

鉄道網は、山々や田畑を破壊しながら張り巡らされ、集落形態や
機能にも大きな影響を与えていくことになりました。

そして、それはこれまで地に封印され縛られていた因縁をも掘り起こす
ことになったのです。

呪縛から解き放たれた無数の念は、今もこの世を彷徨い続けている・・・


これはある山深い谷に敷かれた鉄道の話。

当時の近代技術の粋を尽くし、日本鉄道史にも残る鉄道線路が
深い谷山を削るように敷設されました。

谷合を流れる川を横断する巨大な鉄橋も、当時では最高レベルの
設計と施工方法で近代技術絢爛なる構造物でした。

さて、ここから本題です。

この鉄道完成に多大な力を注いだある偉人がいました。

その偉人、あろうことか、後年、自分が敷いたこの鉄道の脱線事故で
皮肉にもその生涯を終えることになったのです。
しかも、その象徴的構造物である鉄橋から川へ落下したことが
直接の死因というから何ともやり切れない。

事故後、懸命の捜索が行なわれましたが、どういう訳か?
彼の遺骸だけは見つかりませんでした。

結局「捜索は打ち切られ『行方不明者』として処理された。」
と、一部の文献には記載されています。

がしかし、本当は見つかっていたといわれています。
事実、死体の引き揚げに協力したという地元の男性の証言も
調書に記録されているといいますから、遺骸は見つかったのですね。

では、なぜ「死体は見つからなかった」という話がまことしやか
伝えられてきたのか?

実はこの死体発見が不可解な事情により見つかったということが
大きく影響しているともいわれ、また見つかった場所にも問題が
あるというのです。

この話によると、この鉄道線路の敷設工事中、路線計画ルートと
なる山裾の急傾斜地に小さな祠が発見されていました。
参道すらない山すそに建つ小さな祠は、もう長い年月、誰も参った
形跡すらない粗末なものであったため、線路敷設は計画通り進められ、
祠も移動させられたといいます。
その時、その祠の下から無数の白蛇が出てきたという証言もあります。

この祠の神様は「大山祗神(おおやまづみのかみ)」という日本を代表する
「山の神様」です。岩壁には「不動明王像」も彫られています。

偉人の遺族や関係者は「なんとか亡骸が見つかりますように」と京都市内の神社で
祈祷をしてもらったところ、神主は「これは大山祗神様の怒りだ」と告げました。
そこで、鉄道敷設で蔑ろになっていた「祠」をきれいに整備し直し、
参拝され、これまでのことを懺悔したところ、、不思議にも偉人の亡骸は
すぐに発見されたというのです。
それも、その祠の直下を流れる川縁に舞い込む様に沈んでいたと!


あれから約100年の歳月が流れました。

それ以降もこの鉄道では度々不思議な事が起こったといいます。

そして、私も昨年、この列車に乗車した時、はっきりと目撃しました!
こんなことを証言すると「おかしな奴」と思われるかもしれませんが、
見えたものは「見えた」と言うしかなく・・・

車窓から眼下の川を眺めていた時、対岸の石積みの上に
しゃがみ込み、こちらを見上げていた女の子の姿が・・・

その子はしばらく不思議そうに、そう「不思議そうに」こちらを眺めていて
私と目が合ったのです!そして・・・笑った・・・そう、確かに笑ったのです。


はっきり言いましょう。 夜、ここには無数の霊体の存在を感じます。

その場を通った時、冷たい風が私の頬を触れていくのを感じました。
これは、ただの思い過ごしなのでしょうか?


日本中の鉄道線路には、この様な話がいっぱいあります。

先日も北陸のある路線で、線路上に老婆が歩いているのを運転手が発見し、
急停車したが、間に合わず、接触事故を起したといいいます。
「やってしまった!」慌てた運転手が電車から飛び降り、
電車の下部を覗き込んだが、不思議なことに老婆の影も形もなかったいう。
これは翌日の新聞記事に掲載された実話です。

これと似た話は枚挙に暇がないほど、日本各地の線路であります。
一部、作り話や誇張される向きもないではないが、自然を無秩序に
破壊し、生きている生物や木など植物を虐殺したことは事実。

古来より自然信仰を尊ぶこの国の人々が、富国強兵路線を目指す余り
「人が中心」の西洋合理主義を輸入し近代化を果たしたことで、
「国の大地と地縛的な霊魂」が何らかのメッセージを
我々に伝えようとしているのでしょうか?

そこでは今も、多くの霊魂が彷徨っていると感じています。

お盆特別企画 第二弾! 伝承・二つの「うばがぶち」 どこだ・・・

2011-08-14 20:29:21 | スピリチュアル
保津川下りの舟に乗り込み乗船場を出発して、右岸の堤防沿いの浅瀬を行くと
しばらくすると堤防が分離され、古い「石積の護岸」横の早瀬から広い渕に
でてきます。この深く流れも緩やかなこの淵を「うばがぶち」と呼び、
ここが、昔からこわ~い伝説がある渕なのです。

この淵の右岸側を「姥ヶ渕」、左岸側を「乳母ヶ渕」。
どちらも「うばがぶち」と読みますが、それぞれ違うお話です。

先ず右岸の「姥ヶ渕」
各地方で語られる「姥ヶ火の鬼婆伝説」に似ていますが、
保津川ではもう少しリアルで空恐ろしい話なのであります。

昔この亀岡がまだ丹波国・亀山と呼ばれていた頃、夜中、この渕に
大きさ約一尺(約30センチメートル)の火の玉が現れるの「見た!」
という村人からの目撃証言が多く寄せられたといいます。

夜の保津川、灯りひとつない暗い渕に火の玉が飛び回る。
この光景を想像しただけでも「夜の保津川」を知る私としては、
もう十分怖いと感じますが、正体はどうやらある老女の亡霊だというのです。

古い伝承書『古今百物語評判』によれば、かつて亀山(現・京都府亀岡市)の
近くに住む老女が、子供に奉公先を斡旋するといって、親から金を受け取り、
その子供を保津川に流していたというのです。やがて天罰が下ったのか、
老女は洪水に遭って溺死したといいます。それ以来、保津川には怪火が
現れるようになり、人はこれをその老婆の霊で、姥ヶ火と呼び恐れたといいます。
そして、その姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に
死んでしまったというから、なんとも怖い話ではありませんか?

さて、左岸側の「乳母ヶ渕」です。
こちらは、丹波亀山城藩主の青山某というお殿様の嫡男の乳母をされていた女性が、
その若君を川で遊ばせていたところ、間違って溺れさせてしまい、命を落とすと
いう事故が起こりました。
その乳母は若君を死なせてしまった責任を感じ、この渕で投身したといいます。
この悲話は亀山の村々に伝承されいつしか「乳母ヶ渕」と呼ばれる様になった
のです。

この渕で目撃される火の玉は、鬼婆の霊だけでなく、この悲劇の乳母の
無念の灯火でもあったのかもしれませんね。

そして近年、この渕である事件が・・・これはちょっと言えませんが、
それはとても悲惨で恐ろしい出来事でした。

怖い伝説が伝承されるミステリースポット「うばがぶち」
さて、お越し下さる皆様、その渕はどこなのか?おわかりになるでしょうか・・・

お盆特別企画、保津川にまつわる「不思議はなし」

2011-08-13 17:44:56 | スピリチュアル
日本は今日からお盆休暇に突入ですね!

保津川下りも昨日の混雑予報が的中して、なんと106隻の船が保津峡を
流れて行くという大盛況、この夏一番の大入りを発令いたしました。

さて、話は変わって、お盆といえば「お精霊」がお帰りになる日々。
そこで今日は、保津峡にまつわる「不思議はなし」を一つご紹介したいと思います。

保津川が流れる亀岡の農村に貧しい母娘がいました。
父親は長い闘病生活の上、亡くなり、その医療費等で借金を抱え
農家の日雇い仕事で細々と暮らす日々。

しかし、娘は近隣の村々にもきこえて美女で、求婚を求める男性が
あとを絶ちません。
ある日、大地主の息子が求婚を願いにやってきた。
母娘が借りていた医療代も肩代わりし、母親のために家を建てて老後の
暮らしも保障するという好条件を出してきた。

心が動いた母娘はこの申し出を受け入れ、婚約をした。

母親は娘に婚礼衣装で恥をかかせてはいけないと、京都市内中の
古着屋を回り、値ごろで見栄えのいい振袖を手に入れた。
長襦袢は自らの手で縫ってやった。

そして婚礼の日、花嫁衣裳の娘は運悪く道中激しい雷雨にあう。
何とか乾かせて挙式は終えたものの、お色直しで振袖を脱ごうとすると
縫い目がピリピリと音をたてて裂け、純白の長襦袢には振袖の染が
べっとり染みついていた。
母親は「劣悪品」をつかまされたのであった。
地主の親族たちは驚き、口々に話だし、あからさまな軽蔑のまなざし
を向けたことだろう。

新郎にも大恥をかかせる結果となった。

十日後、赤いしごきでつなぎ合った母娘の遺骸が嵐山の橋のたもとに
上がった。振袖は、亀岡近くの保津川の岩にたたんで置かれていた。
その上には「狐の嫁入り」と書いた紙が二足の女下駄で押えてあったという。

この話は後日談がある。
母娘の供養のためにと、村人がこの振袖を屏風に仕立ててもらおうと
上御霊神社近くの表具屋へ持ち込んだが、その二人はほどなく死に、
あと一人は行方不明となったという。

そして、京都の人に聞くと、上御霊神社の近くにはそんな「表具屋」は
存在しないというのだ・・・


保津川の激しい流れが岩を噛む姿を眺めていると、赤いしごきでつなぎ合いながら
入水した貧しい哀れな母娘が、そこから立ち現れてきそうな気がする・・・かも・・・


これのお話は劇作家の田中澄江さん作「雨にぬれた振袖」から。


この話に限らず、保津川の歴史の中には、このような不思議な話や
哀しい話がたくさんあります。

次回も続けて「保津川の不思議はなし」について紹介したいと思います。

怪奇!お彼岸トロッコ列車に乗車して・・・あの少女は一体?

2010-09-20 23:53:42 | スピリチュアル
時は明治後期・・・日本各地に敷設が進められた鉄道網は日本近代産業発展の
象徴といわれた。

競う様に敷かれていく鉄道の線路。山や田は破壊され、それまでの集落形態や
機能も大きな変化が生まれていく。
そして、それは、これらの地に埋め縛られていた因縁をも掘り起こし
踏み潰されたのあった。近代技術により呪縛から解き放たれた無数の念は・・・
今もこの世を彷徨い続けている・・・

ある山深い谷に敷かれた鉄道の話。

当時の技術の粋を尽くし完成した鉄道線路には、眼下を流れる川を横断する
巨大な鉄橋も有し、日本鉄道史に燦然と輝き、その名を刻んだ。

ここから本題・・・この鉄道完成に多大な力を注いだある偉人がいた。

この偉人、あろうことか、後年、自分が敷いた鉄道の脱線事故で
皮肉にもその生涯を終えることになる。しかも、その象徴といわれた
鉄橋から川への落下が死因というから何ともやり切れない。

懸命の捜索の甲斐なく、彼の死体は杳として見つからなかった。
結局、捜索は打ち切り。未だに行方不明のままである・・・と
一部の文献には記載されている。が!
本当は見つかっていたともいわれている。事実、死体引き揚げに協力した
地元の男の証言は調書に記録されているのだ。
では、なぜ「死体は見つからなかった」という話がまことしやか伝えられているのか?

実はこの死体が揚がった場所が問題だったのだ!

この鉄道線路の敷設作業をしていた際、路線計画ルートとなる
山裾の急傾斜地の箇所に小さな祠が発見された。
参道すらない山すそにである。もう長い年月、誰も参った形跡すらない祠。
線路は計画通り工事が進められた。祠はもちろん取り壊された。
取り壊した時である。その祠の下から無数の白蛇が出てきたという。

彼の死体はなんと、この祠があった直下の川縁に舞い込む様に流れ着き発見された!

あれから約100年の歳月が流れた。

これまで、この鉄道では度々不思議な事が起こっている・・・

日本中の鉄道線路には、この様な話がいっぱいある。
先日も北陸のある路線で、線路上に老婆が歩いているのを運転手が発見。
電車は急停車したが、間に合わず、接触事故を起したという。
「やってしまった!」慌てた運転手が電車から飛び降り、電車の下部を覗き込んだが、
不思議なことに老婆の影も形もなかったいう。
これは翌日の新聞記事に掲載された実話である。
これと似た話など枚挙に暇がないほど、日本各地の線路で起こっている。

さて、昨日、私の仕事場である保津峡を走る観光列車「トロッコ列車」が
特別企画として「怪奇!お彼岸トロッコ列車」を夜に走らせた。

心霊研究者である私も当然、乗車した。

灯りひとつない、暗闇の保津峡。どこまでも深い闇に、列車の走る轟音だけが響きわたる。
激しい揺れがなくなり、列車が急停車すると、どこからか?か細い女の声で
寂しげな‘わらべ歌’が聞こえてきた。

すると、薄暗い車内の通路に人影が見えた・・・

気が付くとその人影が私の真横に!

着物を着た青白い顔をした女である!


企画ではプロの劇団員が幽霊に扮しているらしい。
つまり、おばけ屋敷の列車バージョンということか。

でも・・・私が見たものは、実はこのお化けさんではない・・・

車窓から眼下の保津川を眺めていた時、対岸の石積みの上に屈み込み、
こちらを見上げていた女の子の姿だった!

その子はしばらく不思議そうにこちらを眺めていたが、私と目が合った瞬間
こちらを見て・・・笑った・・・そう、私に笑いかけたのだ!

夜、どこまでも深い闇が広がる保津川。
その静寂を昨日、一台の列車が薄暗い車内ランプと轟音を上げ走り抜けていった。

はっきり言おう! 夜、ここには無数の霊体の存在を感じる!

ここに集う‘霊’たちは、20年以来の列車の行く風景をどのように見ていたのだろうか?

ただ、家に帰ってから、どうも肩にずっしりとした重みを確かに感じる。

今日、その少女がいた石積みの横を2度、通過してきた。

なぜか、その場を通った時、二度とも、冷たい風が私の頬に
触れたような気がしたのは、ただの思い過ごしなのだろうか?

お盆になると思い出す、わたしの記憶の中の‘ほん怖’

2010-08-27 11:42:48 | スピリチュアル
今年も京都では「五山の送り火」が無事に終わり、お精霊さまは無事に黄泉の国に帰っていかれたことと思います。

私のお盆の思い出といえば、家から間近に見える大北山の「左大文字」の火と、あの出来事のこと・・・

もう、30年以上も前のことです。

お盆の時期に比叡山のえらいお坊さんが我が家へお越しになられたことがありました。
お隣の家と親交があったそのお坊さんは、その年、なぜか帰り道に我が家を訪ねられたのです。

我が家に入るなり、隣接して建っていた工場と裏庭、そして隣接地を指差して
「この辺りの土地は腐っている!」と仰られ、急に立ち上がりその方角を向いて
「お経」を読み始められたのです。
驚く家族に構うことなく、お経は15分ほど続きました。

お経を読み終えたお坊さんに、家族の者が「土地が腐っている」とは、どういうことだと、聞くと

「この地には無数の人の『苦しみの情念』が埋まって渦巻いている。」
「この地では人は育たない」と話されたのです。

「苦しみの情念?」「人が育たない?」・・・確かに思い当たる節もあるにはことはありました。
私の住んできた家の隣接地には、その話を想像できる歴史があったからです。
でも、それが祟りのせいだといわれてもにわかに信じ難いがその時はありました。

帰り際にそのお坊さんは「今にここで信じられない恐ろしいことが起こる」
「あなた方も出きることなら、この地から離れた方がいい」となんとも怖い
予言めいたことを話されて帰られたのです。

それから10年ほどの月日が流れ、私たちの記憶からお坊さんの話が
完全に消えかかっていた頃、それは起こりました。

起こった内容についてはプライバシーの問題もあり、書くことはできませんが、
本当に信じられない恐ろしいことが、この地でたくさん起こり、私たち家族が引っ越してから

この「腐っている」といわれた土地の姿は一変してしまうのでした。


世の中には、本当に信じられないことが起こることがありますが、
私のいた‘あの土地’で起こった出来事も、まさにそれに類するものでした。

今でもお盆になると、幼かった記憶の中にあのお坊さんのことを思い出します。

そしてその記憶は、当時いつもお盆の時期になると感じていた
「姿の見えない無数の人の視線」を思い出させるのです。

あの頃、自分の背中に感じていた無数の視線。あれは「一体、何だったのだろう?」
それは、今も私の記憶に残る「謎」のひとつなのです。



京のお盆・異界伝説‘六道まいり’が六道珍皇寺で。

2008-08-09 23:26:12 | スピリチュアル
いよいよ‘お盆’が近づいてきました。

京都でも16日にある「五山の送り火」まで
お盆行事が各所で目白押し。
これではお帰り下さる「ご先祖さま」ものんびりできない
のではないかな~と思うほど京都のお盆は賑やかです。

そんな京都でお盆シーズンの先頭を切るのは六道詣りで
有名な「六道珍皇寺」です。
平安時代弘法大師の師匠である慶俊僧都(きょうしゅんそうず)
が開いた古刹で「六道詣り」とはお盆の精霊迎えの行事です。

珍皇寺がある祇園の南、東山・四条通りを下がった
の門前の四ッ辻は「六道の辻」と呼ばれ、現世と冥界との
境目と考えられていた場所で、京都では珍皇寺のことを
「六道さん」と呼んで親しんでいます。
ここを入口に東山へ登った所に吉田兼好の「徒然草」に
出て来る鳥辺野の葬祭墓地もあったので、遠い昔、
死んだ人は殆どがこの地に運ばれてきたので「六道の辻」
と呼ばれたそうです。

「六道」とは「地獄・餓鬼・鬼畜・修羅・人間・天上」
という6種類の冥界の階級を指す言葉で、夏になると
帰ってくる霊を「せめて六道の辻までお迎えにいこう」
ということで始まったとも。

珍皇寺の境内にあるのが「鐘楼」で、その鐘の音は冥土まで
届き、死者の霊がこの世に呼び寄せられるという。
毎年盂蘭盆(うらぼん)の7~10日には、先祖の魂を呼び寄せる
「迎え鐘」として大勢の参拝者の手で打ち鳴らされます。

鐘はお堂の中にあり外から見えず封印されており、お堂から
垂れ出ている、撞木に繋いだ綱を引くことで鐘を鳴らします。
他の寺の様に‘叩く’というのではなく、綱を引くことで
鐘がなるという、まるで神社の鈴のようなつくりが面白いです。

鐘の音が冥土まで届くという珍皇寺には、冥土への入口がある
と信じられており、実際、ここから冥土と現世を往復していたと
いわれる人物が参議を務めていた「小野篁(たかむら)」です。
篁は奇才と呼ばれる特殊な優秀さがあった人で、昼は朝廷の仕事
をして夜は冥界でえん魔大王の片腕官吏として働いたといわれ
謎の多い人物で、私的にはとても興味のある人物。

篁は夜になると境内にある井戸から冥界へ入っていたと
いわれ、今もその伝説の井戸は残っています。
ちなみに出口は嵯峨の釈迦堂横にあったといわれています。

珍皇寺境内にある「篁堂」という小堂には篁の像の隣に
えん魔さまの像が安置してあります。(特別公開あり)

六道珍皇寺の鐘を鳴らし、ご先祖さまをお迎えする
行事で始まった京都伝統のお盆は16日のお見送り
行事である五山の送り火まで続きます。

☆六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
 京都市東山区東大路通松原西入ル小松町595

スピリチュアルな人たち。

2006-09-29 23:02:42 | スピリチュアル
「スピリチュアル」なる言葉が大流行している。
日本語に訳すと「精神的」という単純なもの。

先日もTV番組で自称スピリチュアルな人たちが
多数出演されているのを観せて頂いた。

それにしても「スピリチュアル」な人達って江原某さん
だけではなく、大勢おられるのですね~ 驚きました。
それだけ現代人が物質的豊かさや論理では
救われない、悩みが多い時代ってことなのでしょうか。

自分の感想としては「スピリチュアル」というものは
心理学に霊障を組み合わせた、新しいカンセリング方法だと理解している。

従来の心理学ベースのカウンセリングでは、自らの深層心理まで
突き詰めることも多く、相談者の負担や解決法が難しい場合がある。
でも、その原因となる奥深いところに‘霊’を持ってくることにより
心理的にワンクッションが入り、相談者が楽になるという技法だと感じる。
「上手くいかない理由は自分にある、自分が変われば周りも変わる」
でも「変わろうとしても変われないのは‘霊’が邪魔をしているからよ」
とやさしく教えてくれる所にスピリチュアルカウンセリングのミソがある。

では‘霊’を持ち出すには、先ずカウンセラーに
霊が見えているという前提が絶対に必要だ。

でも番組に出演していた人の中にどれだけ「本物」がいたのだろう?


自分は学生時代から神秘な世界に興味を持っている。

心霊との出会いは大学生の時、某出版社でアルバイト記者をしていた頃だ。

「心霊&超常現象の深層」というコーナーに参加したことが
心霊研究との出会いだった。それ以後も校内に心霊研究会なる
ものをつくり、徹底的に調べた経験を持つ。

霊能者、占い師、気功師など巷で噂の人物には、記者として、時には
お客として片っ端から会いに行き、その器量を探ったりした。

霊能者や占い師の実力を測る自分の調査法は至ってシンプルだった。

最初に霊に観てほしい事(架空の話の時もある)をこちらから提示し、
その答えが当っていようが、いまいが、その話に乗ってみて話を膨らますのだ。

例としては
「両親との相性はどうでしょうか?」「恋人とのこれからについて」
「進路で悩んでいるのですが、就職戦線が厳しくて・・・」
などと、学生特有の悩みを先ず振ってみる。

すると霊能者や占い師は
「今、父さんと揉めているでしょう?」
「就職をうまく運ぶにはOOをしなさい」
などと現状を探るような会話をしながらこちらの情報を
上手に聞き出し、アドバイスをしてくれる。

それはそうだ。態々、お金を使って占ってもらう人というは、
何かしら悩みがあり将来の方向など上手く行ってないから
観て貰おうと来る人ばかりだ。
大体は、否定的なことを振ると‘当る’と感ずることが多いのだ。

そこでこちらも「やっぱり・・・」と、相手方の霊視が当っていると思わせる様な
リアクションをわざと返すと話は段々、架空の世界へと向かうというわけだ。

もちろん会話のテンポも大事だ。
間髪いれず相づちを打ち、こちらも話を引き出す誘導尋問のトリックを
仕掛けるのである。

この様なやり方にちょっとキツイのではと批判もあるでしょうが、
この程度の演技に引っ掛かる様では「本物」であるわけがない。
そんな、イカサマ師に、自分の大事な人生を左右する選択を
軽々しくアドバイスしてほしくないし、この行為は犯罪ですらあると思う。

幾度となくこの様な調査をした結果としては、残念ながら
その殆どの人物が眉唾モノと判断せざる終えなかった。

彼らは本当は何も見えてない。否、見えてると
本気で自分が思い込んでいるのかも知れない。

ただ! 殆ど・・・という言葉に注目してほしい。

僅かだが、自分を心底戦慄させた「本物」の霊能者は占い師いる。

彼が発する内容はどれも正確で具体的なのだ。
誘導尋問などに引っ掛かからず、逆に「それは嘘だ」と
はっきり言い切り、自分の心理状態すら読まれるのではないかと
恐ろしくなることがある。

そして、そのような人はあまり表に出たがらない。
自分が見たくないものが見えることに悩み苦しんでいるのだ。

ましてや芸能プロダクションなどと契約して新手のタレント
としてTVで売り出したりすることはけしてしないだろう。
静かに暮らしたいのだ。

自分には彼らが何故、見えるのか?明確なものはなにもわからない。
しかし「スピリチュアル」という方法が、悩み苦しみの中で生きている
人たちに、ひとすじの希望の光を灯し立ち上がり歩き出す
きっかけとなるのならその存在価値は大きいといえるだろう。
また、このような人間の通常能力を超える世界が存在することを理解する
ことで、醜い権力欲に裏打ちされた武力での争いや、自然界をも支配しようと
する「人間の傲慢さ」を抑止する力になれば、この能力の存在理由も
自ずと悟れてくるのではないかと思うのだ。