お昼間に保津川下りをされたお客さんと偶然、夜の会食の場で再会しました。
その方は「保津川下りは初めての体験でしたが、本当に素晴らしかったです!」
と私が船頭であることがわかると、真っ先に挨拶に来てくださったのです。
「ありがとうございます。どこに魅力を感じていただきましたか?」
と私があらためて質問するとその方は
「自然や舟の下る迫力ももちろんよかったですが、私はなにより
船頭さんの仕事ぶりがなにより素晴らしかった!」と仰ってくださったのです。
「船頭がよかった」これは我々船頭にとっては「この仕事をしていてよかった!」
と本当に思える最高の言葉です。
うれしくなった私は「私たちの仕事をどんな風に感じていただけましたか?」
さらに聞くと
「肉体的にも大変なのに、私たちお客を退屈させてはいけない、
といろんな楽しい会話をされ、心を和ませてくださったり
笑わせてくださる‘おもてなしの心’をリアルに感じたし、
なにより、そんな中、急流や難所に差し掛かった時にはお顔が一変し、
厳しい職人の顔になられる、これぞ『本物のプロ』なんだと思いました」と。
なんと、これほどまでに我々の仕事ぶりを観察をして下っている方が
おられるなんて、まさに「船頭冥利」につきるというものですが、
その方はだんだん目に涙を溜めながら、こう話を続けられました。
「実は私、先日発生した東日本大震災の被災者です」と身分を明らかにされたのです。
そして続けて
「今回京都に来て、素晴らしい保津川下りまで体験できて・・・生きていてよかった・・・」と。
聞けば自宅被災者だったらしく、震災発生の瞬間から電気、ガス、水道
などのインフラはもちろん水や食べるものまで事欠く事態に陥ったと
いうのです。そして、食や灯油・石油を求めて、自転車で何軒もの
お店を回ったという体験も話して下さったのです。
「じっと何もせず、誰かが助けてくれるのを自宅で待っていたら、
間違いなく私たちは死んでいたでしょう・・・」と極限的とも
いえる当時のことを涙ながらに話してくださいました。
「本当に生きててよかった!」と再び、‘今、ここ’に
生きていることの喜びを声に出し、うなずかれました。
死は誰にでも、いつかは不公平なく訪れるものです。
しかし、死をリアルに意識することは、そうあることでありません。
天災という、何の前ぶれもなく突然やってきて、死を極めて
現実的に意識させるような出来事と遭遇した人に感じられる
「死生観」があるのです。
死を現実のものとして意識することは、生を強く意識する
ことでもあります。
「強く意識した『生きる』ということは、多くの支えがあって
初めて可能となる。自分が『生きている』という事実は、
その他の支えがあるからこそ。
だから、私は生きる意義をしっかり感じて、遭遇すること
経験することの、全てのことに喜べるし、感謝できる」
「そのことをしっかり、体感できたのが今回の保津川下りでした」
と話を締めくくられました。
話を聞き終えた時、私はうなずくことが精一杯で
なんも言葉を発することができませんでした。
「本当にありがとう」と握手を求められる手を
強く握り返しながら
「こちらころ、ありがとうございました」と深く
頭を下げました。
その方とお別れしたあと、この船頭という仕事への
心構えを新たにし、そして真の「やりがい」というものを、
心から強く実感しました。
観光に携わること、なんて素晴らしいことでしょう!
今、生きていること、生かされていること、そして
人様に喜んで貰える仕事に就いていることに
深い‘感謝’の念を抱かずにはおれないのでした。
その方は「保津川下りは初めての体験でしたが、本当に素晴らしかったです!」
と私が船頭であることがわかると、真っ先に挨拶に来てくださったのです。
「ありがとうございます。どこに魅力を感じていただきましたか?」
と私があらためて質問するとその方は
「自然や舟の下る迫力ももちろんよかったですが、私はなにより
船頭さんの仕事ぶりがなにより素晴らしかった!」と仰ってくださったのです。
「船頭がよかった」これは我々船頭にとっては「この仕事をしていてよかった!」
と本当に思える最高の言葉です。
うれしくなった私は「私たちの仕事をどんな風に感じていただけましたか?」
さらに聞くと
「肉体的にも大変なのに、私たちお客を退屈させてはいけない、
といろんな楽しい会話をされ、心を和ませてくださったり
笑わせてくださる‘おもてなしの心’をリアルに感じたし、
なにより、そんな中、急流や難所に差し掛かった時にはお顔が一変し、
厳しい職人の顔になられる、これぞ『本物のプロ』なんだと思いました」と。
なんと、これほどまでに我々の仕事ぶりを観察をして下っている方が
おられるなんて、まさに「船頭冥利」につきるというものですが、
その方はだんだん目に涙を溜めながら、こう話を続けられました。
「実は私、先日発生した東日本大震災の被災者です」と身分を明らかにされたのです。
そして続けて
「今回京都に来て、素晴らしい保津川下りまで体験できて・・・生きていてよかった・・・」と。
聞けば自宅被災者だったらしく、震災発生の瞬間から電気、ガス、水道
などのインフラはもちろん水や食べるものまで事欠く事態に陥ったと
いうのです。そして、食や灯油・石油を求めて、自転車で何軒もの
お店を回ったという体験も話して下さったのです。
「じっと何もせず、誰かが助けてくれるのを自宅で待っていたら、
間違いなく私たちは死んでいたでしょう・・・」と極限的とも
いえる当時のことを涙ながらに話してくださいました。
「本当に生きててよかった!」と再び、‘今、ここ’に
生きていることの喜びを声に出し、うなずかれました。
死は誰にでも、いつかは不公平なく訪れるものです。
しかし、死をリアルに意識することは、そうあることでありません。
天災という、何の前ぶれもなく突然やってきて、死を極めて
現実的に意識させるような出来事と遭遇した人に感じられる
「死生観」があるのです。
死を現実のものとして意識することは、生を強く意識する
ことでもあります。
「強く意識した『生きる』ということは、多くの支えがあって
初めて可能となる。自分が『生きている』という事実は、
その他の支えがあるからこそ。
だから、私は生きる意義をしっかり感じて、遭遇すること
経験することの、全てのことに喜べるし、感謝できる」
「そのことをしっかり、体感できたのが今回の保津川下りでした」
と話を締めくくられました。
話を聞き終えた時、私はうなずくことが精一杯で
なんも言葉を発することができませんでした。
「本当にありがとう」と握手を求められる手を
強く握り返しながら
「こちらころ、ありがとうございました」と深く
頭を下げました。
その方とお別れしたあと、この船頭という仕事への
心構えを新たにし、そして真の「やりがい」というものを、
心から強く実感しました。
観光に携わること、なんて素晴らしいことでしょう!
今、生きていること、生かされていること、そして
人様に喜んで貰える仕事に就いていることに
深い‘感謝’の念を抱かずにはおれないのでした。