保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 宝筐院

2018-11-29 12:11:28 | シリーズ・京都を歩く
嵯峨嵐山で一番、紅葉がきれい!と呼び声高い宝筐院。

平安時代に白河天皇の祈願によって建立された勅願寺で建立当初の名は善入寺といいいました。 #

鎌倉時代までは代々皇族が住職を務める寺院でしたが、南北朝時代に南朝と北朝の争いに巻き込まれ、
廃寺同然に。その後、夢窓疎石の高弟・黙庵周諭禅師(もくあんしゅうゆぜんじ)が
臨済宗の寺院として復興させました。

黙庵に深く帰依していた室町幕府・二代将軍の足利義詮は、寺院の伽藍再興整備に尽力しました。

また、同寺に、四条畷の合戦で北朝の大軍と戦って討ち死した楠木正行(くすのきまさつら)が
眠っていることを知り、政敵ではあったが、人柄を尊敬していた義詮は、
自分の死後、正行の隣に葬って欲しいと遺言を残します。

その遺言はかなえられ今も並んで境内に眠っています。

赤に朱、橙など色とりどりの紅葉を回遊式庭園で巡ることができるほか、
障を開けて額縁絵で見る紅葉は見事です。

美しい紅葉と武将同士の友情と宿命に、思いを馳せて訪れるのも嵯峨野流ですね。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 愛宕念仏寺

2018-11-28 16:27:11 | シリーズ・京都を歩く
愛宕とかいて「おたぎ」とよむこのお寺は、奈良時代末期、聖武天皇の娘・称徳天皇が
京都・東山の地に愛宕寺として創建しました。

しかし、平安時代初期に近くを流れる鴨川の洪水ですべてが流失し、
廃寺になっていたものを醍醐天皇の命により
天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興しました。

いつも念仏を唱えていた千観は民衆から「念仏聖人」と呼ばれていたことから「愛宕念仏寺」となりました。

空也上人との邂逅を得て「何ごとも身を捨ててこそ、仏道」との言葉を授かり、
その後、民衆の苦難に対し、身を捨てて救済にあたりました。

お寺は大正時代に嵯峨の地に移築されました。

その寺の再興を祈念して「境内を阿羅漢の石像をで満たそうと、
昭和54年から信徒や参拝者からの寄贈により、10年かけて1200体の阿羅漢を集め、
平成3年に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。

様々な表情をする小さくて可愛い阿羅漢の石仏が「インスタ映え」すると、奥嵯峨人気のお寺となっています。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 大覚寺 

2018-11-27 07:38:17 | インバウンド
平安時代初期、嵯峨の地をこよなく愛した嵯峨天皇が、成婚を期にこの地に「離宮嵯峨院」を建立した大覚寺。

鎌倉時代にはここで政治を執行したこともあり「嵯峨御所」と呼ばれています。

弘法大師・空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山で、
以来、代々天皇や皇族が門跡(住職)を務めてきた格式高い寺院です。

境内にある大沢池は、約1200年前に造られた日本最古の人工池で、
月が綺麗に見える池ことから「日本三大名月鑑賞池」として有名です。

最近では時代劇の撮影現場としてもお馴染みです。

室町時代に角倉了以の本家が大覚寺境内で土倉(金融)を営み、
後年にその勢力を嵯峨一帯に拡大していく拠点となったのもこのお寺です。

いけばなの家元でもある雅な風前と近世の経済構造の変革に大きく寄与した活力が混在する大覚寺。

紅葉の美しさと嵯峨の歴史を感じて下さい。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 小倉山二尊院

2018-11-26 09:09:00 | シリーズ・京都を歩く
小倉山麓に建つ二尊院は、天台宗の寺院で、
正式には小倉山二尊教院華台寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)といいます。

創建は平安時代初期、嵯峨天皇の勅により慈覚大師が建立したと云われています。

鎌倉時代に法然の高弟だった湛空らが再興した後、応仁の乱で全焼した本堂を公家・三条西実隆が再建しました。

本尊の「発遣の釈迦」(人の誕生時に現れる)と「来迎の阿弥陀」(人の寿命が尽きるとき極楽浄土へ迎えに来る)
の二如来像を、伽藍で並び拝することから、二尊院の名前で呼ばれています。

総門から入り、参道をもみじの木々が覆っている風景は「紅葉の馬場」と呼ばれ、
紅葉の名所として知られています。

この総門は、慶長十八年(一六一三)に伏見城にあった薬医門を、
角倉了以によって移築・寄進されました。

山腹には角倉了以をはじめ角倉(吉田)一族の墓があり、保津川下りにも縁の深いお寺です。

また奥には百人一首ゆかりの藤原定家が営んだ時雨亭跡と伝わる場所もあり、平安時代から江戸時代まで、
景勝地・嵯峨の歴史変遷に思いを馳せることができるお寺です。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?嵯峨鳥居本

2018-11-25 14:43:41 | シリーズ・京都を歩く
お伊勢に七たび 熊野に三たび、愛宕さんには月まいり」
と江戸時代の民衆にうたわれた京都・愛宕山。

その山頂にある愛宕神社へ参道を「あたご道」といい、愛宕詣りへ向かう人で賑わう街道でした。

あたご道沿いには行き交う旅人をもてなす宿や茶店が軒を連ねていたと伝わります。

その400年前の風情を残す地域が奥嵯峨・鳥居本です。「一ノ鳥居」が建つ
鳥居本地域には「鮎茶店・平野屋」さんと「鮎の宿・つたや」さんが、
今も当時と変わらぬ佇まいでお店を構え、観光客のおもてなしをされています。

平野屋さんでは愛宕名物の蒸し菓子「しんこ団子」が人気です。

米粉に熱湯をかけて練り、砂糖入れて蒸す親指くらいの小さな団子。

両方の端を指でつまみ‘ひねり’を付けるのが特徴です。

愛宕山の参道がつずれ折れの曲がりくねった道であることから、このひねりが付いたと云われています。

奥嵯峨のまち歩きで疲れた足休めに、茅葺屋根の古民家の風情を楽しみながら
しんこ団子と抹茶で癒すのもいいですね。

この辺りは1979年に国の重要伝統的建造物群保存地区としても選定されています。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?化野念仏寺

2018-11-24 15:44:12 | シリーズ・京都を歩く
京都には「野」がつく地名が多くありますが、古い京都本によると
「野」のつく地名の場所は「葬送の場」だったといいます。

奥嵯峨にあるこの「化野(あだしの)の念仏寺」もそのひとつ。
元々古来より葬送方法は風葬…つまり遺骸をそのまま、この野原に捨てていました。

嵯峨小倉山麓の地、愛宕山の参道沿いのこの野に、約千百年前に野ざらしになっていた土葬仏を
弘法大師が智山如来寺という寺を建立し、埋葬して石仏を作って死者の霊を慰めました。
その後、法然上人の常念仏道場となり、念仏寺と称されました。

散乱し埋没していた多くの無縁仏の石仏は明治36年ごろに境内に集められ、
賽の(さい)河原に模して「西院の河原」と名付け現在の姿になったといわれています。

ちなみに我が家先祖の墓も‘この念仏寺’にあります。
あだしの」って珍しい呼び方は、儚さ、虚しさの意味で、
漢字では「化野」と書き「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ化る事、極楽浄土に往来する願いを込めた意味だそうです。

奥嵯峨がかもし出す、静寂感は人の生死という聖俗の境をあらわしているからかもしれませんね。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?清涼寺

2018-11-23 16:30:08 | シリーズ・京都を歩く
「嵯峨釈迦堂」の愛称で親しまれる清涼寺は、
源氏物語の主人公・光源氏のモデルと言われる源融が建立した
山荘・棲霞観(せいかかん)の跡地であり、物語の中で「嵯峨野の御堂」として登場します。

光源氏は、紫の上の目を盗み、大堰川のほとりに住んでいた明石の君との逢瀬を楽しんでいました。

以前、明石の夜に弾いた琴の音としらべを聞きながら、「あの頃と変わらず愛おしい」と詠んでいます。

数々の女性と浮名を流した源融は、晩年この「嵯峨野の御堂」で過ごし、
生涯を終えました。稀代のプレイボーイ・源融の墓は多宝塔の裏にひっそりと立ち、
悠久のときを見守っています。

釈迦堂の呼び名の由来は「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」
が釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」が祀られていることから付いた名です。



秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?落柿舎

2018-11-21 13:41:47 | シリーズ・京都を歩く

のどかな田園風景の中にポツンと佇み、鄙びた藁葺屋根がなじむ素朴な草庵が落柿舎です。

往時の風情が感じられる、なんとも心が安ぐ庵ですが、もともとは京の富豪が建てた豪華な別荘を、
松尾芭蕉十哲の弟子の一人 向井去来が1686年に譲り受けたもの。
その後、別荘を取り潰し、簡素な隠棲所にしました。

昔、庵の周囲を40本の柿の木が覆っていて、ある商人が立木ごと柿を買い取ろうとしたところ、
夜中に風が吹いて全ての実が落ちて破談になったことから「落柿舎」と名づけられたそうです。

去来は「柿主や こずえはちかき あらし山」と詠みました。今は柿の木も少なくはなりましたが、
紅葉にまじり、実る柿の木を愛でながら去来への思いを馳せてみるのもいいですね。


1691年(元禄4年)春、この庵に松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を著しています。

のんびりと物思いに耽るのにもってこいの庵です。

洪水で荒れた川を‘人の手’で復旧する川・保津川で息づく精神

2018-11-16 08:11:44 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今年は洪水の年だった・・・で終わるのか?と思っていたら、
なんと!渇水状態まで起こるとは・・・

自然の中で生業をすることは、かくも厳しいものなのか!

水位の減少にともない、船頭隊は身を切るような秋風が吹く中、
冷たい川の中へ飛び込み、運航上、邪魔になる流石や土砂を取り除く作業に
連日、取り組んでいる。

時には足場を確保するのも困難な急流部で、時には山のように盛り上がった土砂が
溜まる瀬で、船頭たちは体力が続く限り、川という巨大な自然と対峙する。

自然と共生する・・・という美しい言葉がある。私も好きな言葉だ。

だが、自然はけして、人間との共生などという、対等な関係を許してはいない。

人間は自然の一部なのだ。自然という大きな存在の中で「生かして貰っている」に過ぎない存在だと自覚する。

雨はまだ降らない・・・

我々は、人間力でできる限りの事しか出来ないが、1200年間も継承してきた、
川の水運と生きてきた「先人の知恵」と「伝統の技術」を駆使して、
生き抜く道を切り開いていくしかない。

巨大で急流の川を、人力で復旧している川は、世界広しといえども、ここにしかない。

自然に生かされ、人が生業をすることとは?

その答えは、ここ‘保津川’に今も息づいている。

秋の紅葉シーズンを前に、川を補修作業

2018-11-15 07:31:08 | 船頭
日に日に減水する保津川の水位。

秋の紅葉シーズンを前にこの状況は厳しい・・・

これ以上、水位が減水すると通常の乗船定員を減らして運航しなくてはなりません。

今年の夏、度重なる台風で洪水状態が続いた保津川。

洪水が運んできた巨大な流石、大量の土砂。これらが舟が通行する航路上に流れ込んでいたのです。

荒らされた河床を舟が安全に通行できる元の状態に復旧する為に、懸命の作業が続けら、
何とか通常水位での航路確保に漕ぎつけたのです。

が、台風通過後、まったく降らなくなった雨で、今度は川の水位が極端に減水してしまったのです。
そうなると、通常水位なら通行可能だった川底も浅くなり、石などが突き出し、通行に支障が出だします。

安全運航を確保するため、冷たい木枯らしが吹く中、川へ飛び込んで水路の補修作業に掛かりました。

夏と異なり、この時期の川作は寒中修行です。
でも秋の紅葉シーズンを安全に楽しんで貰うためには必要なこと。

1200年間、この川で継承されてきた人の手作業による川の修復工事。
水の中からあ上がると、体の震えが止まりません・・・

これは川文化などという生易しいものではない。
今を生きる為の‘川根性’に裏打ちされた決死の行動です。

僅か1ヶ月前、何週間も減らない増水の川を毎日眺めていたのに、今は日々減水する川を毎朝眺めている・・・

夏から続く試練の日々は、紅葉の秋も続いています。