保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

我がルーツをたずねて・・・福田理兵衛の巻

2013-12-10 21:00:52 | 船頭の目・・・雑感・雑記
大堰川(保津川)が流れる嵯峨嵐山から三条通りを東へ向かうと、太秦までの間に『車折神社」があります。
芸能の神様を祀る事で多くの有名芸能人が訪れる賑やかな境内の角に、さほど注目されることなく
ひっそり佇む小さな祠があります。
この祠は幕末の動乱の中で翻弄されたひとりの人物を祀っています。
その人物とは『福田理兵衛(ふくだりへい)』
江戸時代末期、下嵯峨の大きな材木問屋の長男として生まれ、下嵯峨の庄屋や総年寄、村吏を勤め名士でもありました。
材木問屋業者として、保津川、清滝川から流れて来る筏や舟運の蒔、炭、柴など河川物資を、
荷揚げから洛中への流通までの取りまとめ役で、淀川過書船支配をしていた角倉家とも
深い関係にあったといいます。
また、嘉永年間、大堰川から加茂川をつなぐ運河を計画し、開削に奔走するなど嵯峨地域の経済産業発展に尽くしました。
しかし、時は幕末、尊皇攘夷運動が活発化すると長州藩との関係を深め、藩ご用達となり、
天竜寺の借用の便宜を図ったり、物資、経理全般まで任されるほど支援していきます。
元治年間、禁門の変の際、天竜寺に立てこもる長州軍を薩摩の軍勢が攻め込み、天龍寺は全焼、長州軍は敗北。
兵糧米など調達して長州軍に加担していた理兵衛も命の危機を感じ、嵯峨を追われ大阪へ逃亡します。
理兵衛は戦火に巻き込んだしまった嵯峨の人たちへお詫びの気持ちから、
自らの嵯峨に所有する土地や財産を全て分け与え、一文無しとなり長州へと落ちていきました。

この福田理兵衛の分家・福田家から嵯峨清滝へ嫁いできたのが、私の大祖母です。

我がルーツを辿っていくと、今、こうして保津川で舟運事業に携わり、角倉家に興味を持ち関わっている
もの、なにか必然性があり因縁めいたものを感じずにはいられません。

明治後期、伊藤博文など長州出身者が政府の要職を務めるようになると、
理兵衛は「長州の恩人」としてその名誉を回復され、京都へ帰ってきた家族の手によって、
旧邸宅近くの車折神社に葵忠社(きちゅうしゃ)という祠を建て祀られました。

維新の実現に貢献した勤皇家として、理兵衛の命日にあたる4月13日には毎年、祭典が執行されています。

逆境を耐え抜いた保津峡の紅葉。その姿とは?

2013-11-23 07:26:46 | 船頭の目・・・雑感・雑記
日に日に深まりをみせる晩秋。山々の紅葉も色づき出し、
保津峡は錦絵を思わす鮮やかな風景になってきました。

数日前には葉の先が少し赤み掛かっただけだった のに、一夜明けるとすっかり
艶やかな赤色に 染められ、樹木の色づく早さには 目を見張るものがあります。

河畔という自然環境の厳しい条件下で育った‘もみじ’には、 上品に育った
社寺仏閣の‘もみじ’にはない、荒々しさと 力強さがあります。

特に今年は台風18号により、記録的な洪水に晒され、渓谷の樹や花々にとっても
試練の時を過ごしたことでしょう。

大洪水の激流という自然の猛威に耐え抜き、渓谷にしっかり根を張り、赤く染まった
保津川の紅葉。しかも、今年は葉が流された枝から新しい葉が芽吹き出したのです!

青々とした生命力溢れる新緑。なんと、春の景色が今、秋の保津峡に現れました。
野趣に富んだ‘赤もみじ’とイキイキとした‘青もみじ’の共演。
澄み切った青空の下、赤と緑の紅葉に彩られた保津峡。
今年しか出現しない珍しい風景です。

破壊されても、必ず復活する!自然の復元力に‘逆境’に耐え抜き生きることの
意味と立ち上がる勇気の大切さを教えてくれます。

そう‘死’は終局を意味しない。
いのちは生まれ変わり、出変わりを続き、永遠に‘いま、ここ’にある。

保津峡の‘もみじ’が語りかけてくる‘声’に耳を傾けてみませんか?

いよいよ‘いのちの炎’を真っ赤に燃やす紅葉の時です。
ぜひ。保津峡にお越しください。

心を映す保津川の水鏡・・・まさかさかさま・・・

2013-11-20 07:09:40 | 船頭の目・・・雑感・雑記
秋になると保津川の水面に表れる水鏡。

秋の低い太陽に照らされた山の風景が、保津川の水面に映ります。

まるで鏡の中に切り取られた様に映る風景。

どちらが本物で、どちらが鏡かわかりますか?

世上は鏡・・・どちらが本物で、どちら偽り・・・

ダ・ヴィンチやシェークスピアも鏡の中に映る世界に真実の姿を見たといいます。

保津川の川面に映し出される水鏡の世界は、少しの風が吹けば壊れる儚いもの。
心に映し出される聖なる思いも、ざわめくすきま風で脆くも崩れていくが如く。
ありのままの姿とありのまま‘でない’姿を映す鏡。

あなたの心の鏡には今、何が映っていますか?

‘まさかさかさま’

そんなこと空想の世界を川舟は流れいく。

秋の保津川に映し出される水鏡は、見る人の心を素直にさせてくれる不思議な‘力’があります。

日常の慌しさから暫し離れ、川に映る水鏡に本当の自分の姿を映してみてはいかがでしょうか?

ここに、ほんものパワースポットがあります。

大雪に思う・・・天の恵み。

2013-01-15 08:50:10 | 船頭の目・・・雑感・雑記
全国各地で成人式が行われた昨日、北・東日本を中心に大雪が続いている。
これらの地域では、車が立ち往生したり、公共交通機関がマヒするなど
雪による様々な被害が出ているという。

これらの地域の方々には十分、注意して対応していただきたく思う。

いつからか雪は生活の基盤を揺るがす厄介ものになってしまった感がある。
テレビでも「大雪で都市機能がマヒ」「雪により各地で被害」などネガティブな
報道ばかりが目立ち、雪を楽しむ視点は観ることができないのは残念な気がする。

私たち大人はいつから「雪」を厄介なもの感じる様になったのか?

子どもの頃、雪が降ればワクワクしたものだ。
雪合戦に雪だるま、豪雪の時はカマクラまでつくったり、雪降り独特の遊びを考えて
日常とは異なる自然環境を楽しめた。

白い空間に包まれた静寂な風景の美しさにも、息をのんだ。
純白という色に魅せられた。

まさに雪は「天からの恵み」だった。

私たちの舟下りでも雪は多くの恵みを与えてくれる。
舟を流すにはなにより川の水位の安定が重要だが、冬のあいだに
山々に降り積もった雪が、春の近づきと共に徐々に溶け出し
‘雪どけ水’となり、春から必要な水の恵みを施してくれている。
そしてまた、この水こそが我々の日々生きる生活基盤を担っている
のは紛れもない事実である。

雪山は天然のダムの役割を果たしているのだ。


機能的な生活が当たり前となった現代社会の中で、
雪を楽しむ余裕をなくしてしまったお互いであるが
しばし、心のチャンネルを「自然の営みと恵み」という
真実に合わせてみて、雪を楽しむ感性を持ちたいものだと
思うのである。


保津川下り旧乗船場のもみじの木に教えられる、大切なこと。

2012-12-01 18:55:46 | 船頭の目・・・雑感・雑記
多忙を極めた11月が終わりました。

京都の11月は山や庭のモミジが赤く色づき、年中で一番の秋の観光シーズン。
亀岡にある保津川下りの乗船場へも、中旬頃から大勢のお客様が訪れ盛況となりました。

そんな人出に賑わう乗船場の少し横に、誰からも振り返られることのないモミジの木があります。

それは旧乗船場跡の堤防に立つモミジの木です。

桂川河川改修工事に伴う堤防のかさ上げ計画により、元あった保津川下りの社屋は2年前の2010年に
乗船場ともども下流部へ移転しました。

移転後、旧社屋は解体、舟をつなげていた乗船場も取り外され、以前の面影は全て消え去ったしまいました。
堤防沿いの周囲には、なにも建物もなく、草の生えた空き地が残るのみ。
共に育ち、この堤防沿いに立っていた仲間のモミジ達も、工事の仮設侵入道路整備の際に
全て切り倒され、唯一残ったのがこの2本のモミジの木でした。

殺風景になってしまった場所に立っているこのモミジは、一見するとどこの堤防沿いにも立っている
モミジの木のように見えますが、実は長年、世界中からお越しになった、
大勢の観光客の目を楽しませたモミジの木なのです。

保津川遊船企業組合が設立された時に、お越し下さるお客さまを「もてなそうと」先輩船頭たちが
堤防にモミジの木を植えたものなのです。

(乗船場があった頃の写真です。2009年秋)

保津川下りが最高に混雑する秋の紅葉シーズン。
まず、訪れた人たちの目を奪い心を掴んだのは、この乗船場の艶やかなモミジの木々たちでした。
後年、保津川下りだけでなく、亀岡を代表する紅葉の名所といわれるほど美しいかった乗船場のモミジ。

(船頭たちの目を楽しませ、心を和ましてもらいました・・・2009年秋の乗船場の紅葉風景)

華やかだった当時を想像することすら、今はできません。

そして今はもう、誰からも振り返り見上げれることなく、ひっそりと佇んでいます。

だけど・・・・誰も振り返らなくても、スポットライトが当たらなくても、このモミジの木は
今年も当時と変わらず鮮やかな赤葉を色づかせ、力強く立ち続けています。

その姿に切り倒された仲間とともに、長年、人々の心を和ませた続けた自負と誇り高さを感じずにはいられません。

人が生きていくうえで、本当に大切なことはなんなのか?
そのことを、このモミジの木が、私に教えてくれているかのように感じるのです。



注(2013年春、これらのモミジは河川改修工事のため、全て切り倒されてしまいました。)

保津峡の自然が語りかける心の旅へ。

2012-11-29 08:36:39 | 船頭の目・・・雑感・雑記
日に日に肌寒さを感じ、深まりをみせる晩秋の頃。

錦絵をおもわせる雅な風景を演出した保津峡の紅葉も
散るときを知り、木々の根が張る地面を赤く染め始めました。

河畔という自然環境の厳しい条件下で育った今年の‘もみじ葉’。

初夏に新緑として芽吹き、目に沁みるほどの青葉は、渓谷中を
いきいきとた誕生の輝きを見せ、自然の生命力を感じさせてくれました。

保津峡の‘もみじ’たちは、上品に育った社寺仏閣の‘もみじ’にはない、
荒々しいく、逞しい力強さを感じさせる野趣に富んだ色づきがあります。

うねる激流となる洪水や真夏の日照りという、自然の猛威に耐え抜き、
しっかり山深く 根を張った木々の葉は、秋になると、もっも華やかに赤く染まります
その堂々とした姿は観る者に ‘逆境’に耐え抜き、力強く生きることの大事さと
生きていることの偉大さを教えてくれ、勇気を与えてくれます。

いのちの炎を燃えあがらせて、渓谷の山々を彩った保津峡の紅葉も
いよいよ最後の時を迎えようとしている。

初夏に新緑の葉を出した‘もみじ’ もあと数日で‘いのちの炎’を真っ赤に
燃え尽きて、終焉の時を迎えます。

しかし! 葉は落ちても、また来年になると芽を出します。

その姿に‘死’は終局を意味しないことを教えてくれるようです。

いのちは生まれ変わり、出変わりを続け 永遠に‘いま、ここ’にある。

保津峡の自然の中に、いきることへのヒント、視点が凝縮されています。

偉大なる自然の営みを愛でながら、自らの感性を磨き、心がほっと暖かくなる、
そんな自然とのふれあう旅を保津峡で体験していただきたく思います。

雨中嵐山・・・その風景にみる「ひとすじの光」とは?

2012-11-26 19:53:37 | 船頭の目・・・雑感・雑記
小春日和の昨日から一転、今日は秋雨が降るという寒い日となりました。

一晩でこうも天気が変わるとは・・・
しかし、秋の観光シーズン本番を迎えた京都にとっては、まさに水を差す冷たい雨。

保津川下りに乗られたお客さんも寒い船旅になったことと思います。
こんな日にもかかわらず保津川下りにご乗船いただいたお客さまには
‘感謝’の言葉以外見つかりません。本当にありがとうございました。

渡月橋から見る嵐山には霞が掛かり、紅葉が薄らと浮き上がる姿が秋の情緒を際立たせます。


今日の様に「雨にけぶる嵐山」の美しさに魅せられた一人の人物がいます。
その人物とは中華人民共和国の元首相・周恩来氏(1898~1976年)。

氏が雨の嵐山を眺め、詠んだ詩が「雨中嵐山(うちゅうらんざん)」です。
氏の詠んだ詩碑は嵐山の亀山公園に今も建てられています。
日本ではあまり知られていませんが、中国や台湾、香港などから来られる
観光客の間では、日本に来ると必ず訪れる有名な観光スポットなのです!

氏については、いまさら説明はいらないと思いますが、一応紹介しておくと
中華人民共和国の祖でもある毛沢東首席とともに、新政国家の基礎を築き上げた名宰相で、
1972年に当時の日本国首相・田中角栄氏と日中平和友好条約を締結したことであまりにも有名です。

周恩来氏は、1917年に官費留学生として来日、約2年間、早稲田大学や京都大学などで
聴講生をしながら受験勉強をされていましたが、受験した2校(東京高等師範と東京第一高等学校)は
いずれも不合格となり、失意のなかで帰国を余儀なくされました。

この詩は彼が「日本で学ぶ」という夢が破れ、帰国する前に訪れた嵐山で詠まれたもので、
夢破れた失意の中で見た雨の嵐山の風景に「ひとすじの光(希望)を見出した」という喜びを
詠った詩なのです。いわば、この詩は「中華人民共和国建設」を決意した重要な詩なのです。

この「一すじの光」とは、当時、聴講生として通っていた京都大学で出会った人物にあります。
その人は、当時、マルクス主義研究の第一人者として知られた河上肇教授。
教授の共産主義思想に出会い、強く影響を受けたといわれる周恩来青年は、この思想に
より、理想とする祖国を建設しようと意を強くしたのです。

失意に覆われ、押し潰されそうな厳しい現実の中、この新しい思想を知ったことで
暗い闇に包まれた心に‘一光’が射したような衝動、その心の震え、歓喜を、
雨が降る嵐山に差し込めた‘光’風景の中に見出したのでした。

この詩碑は、1978年8月に日中平和友好条約が調印されたことを記念して
ゆかりの地・嵐山に建立されたもので、日中両国の友好が未来永劫続くことを祈念しました。

今だからこそ、あらためて友好について考えるよい機会になる場所かもしれません。

周総理が失意の心で見た、雨降る嵐山の美しい風景に、ひとすじの光を見出した様に、
私も‘希望’という光を、この風景の中に見出した気分に浸りました。
「雨の日の嵐山」・・・なんとも奥深い風景であることでしょう。


*「雨中の嵐山」
 
 雨の中を再び 嵐山を散策
 川の両岸には松や桜花もまじえ
 見あげると 高き山を見る
 水は緑に映え 川の石は人を照らす
 雨や霧に溢れているが
 一すじの日の光 雲間よりさして
 いよいよなまめかし
 人の世のもろもろの真理は糢糊たるも
 糢糊たる中に 一すじの光を見るは
 いよいよもって なまめかし

不況を乗り切れ!現場から生み出されるもの。

2012-11-24 00:25:58 | 船頭の目・・・雑感・雑記
京都は今、秋の紅葉シーズン真っ盛り!日本全国はもとより世界中から、雅にして艶やかな京都の紅葉を求めて大勢の観光客が訪れておられる。

今日はそのシーズンの中でも、最も賑わうと予想される三連休の初日だった。しかし、天候には恵まれず生憎の雨混じりの空模様となり、予想より少なめの来客数となった。とはいえ、そんな悪循環にもかかわらず、約80艘のも舟が流れたのだから‘よし’とするべきだろう。


世の中、本当に景気が悪いようだ。
京都のお土産もの屋さんも観光客の財布の紐がかなり固く、悪戦苦闘されていると聞く。

今の時代、いったいどうすればモノが売れるのだろう?
我々、川下りも観光業であるかぎり、ひとつの商品である。
川下りという商品に磨きを掛け、魅力を高め、お客様の満足感を満たす事が出来なければ生き残ることはできない。

では、何をすればいいのか?また、どんなアイデアを出せば価値は磨かれるのであろうか?

マーケティングなんて言葉もあるが、そんな科学的や学問的にかしこまらなくても、まず我々船頭が現場で日々感じること、実際に体験して味わっていることをしっかり振り返り、今、できることを考え、実行に移していくことが何より大切だと私は考える。


この現場体験により、導きだされる感覚こそが新たなアイデアを生み出すと信じる。

よく例えられる話だが、塩と砂糖は一見すると見分けがつき難いが、実際に味わってみて初めてその味がわかるものだ。
しかし、今のような高学歴社会の上に高度情報化社会により、実体験を得ずして、
学問や理論だけで知ったような気になってしまってはいないだろうか。
つまり塩を舐めずしてその味を知った気になるということ。
しかし、そこには実体験のない弱々しい姿と自信のなさを漂わしているものだ。


日々、現場で汗や涙を流し、努力に努力を重ね、磨いた感性の中から湧き起こってくる知恵こそ、
本物であり、お客様の心を動かし、感動を生み、満足感を覚えて頂けるアイデアの源だと思う。


20世紀最高の経営者だと評されるジャック・ウェルチ曰わく
「最高のアイデアは常に現場から生まれる」
しっかり噛み締めたい言葉だ。


我々がするべきことは、現場で日々「当たり前のこと」を懸命に努力し、大切にし、
その中でいつも感性を磨き、湧き出てくるアイデアに注目したい。

我が師の教えと思い出。

2012-10-03 15:39:23 | 船頭の目・・・雑感・雑記
私には生涯の‘師’と呼べる方がいる。

その人の名は山本利雄師。
元天理よろず相談所病院・憩の家院長にして、天理教本部准員、江戸分教会長もされていた宗教家である。

師は大正13年の生まれで、デモクラシーと浪漫派が華やかなり風情の中で青春時代を過ごされた。

元来、文学と哲学を愛する青年だったが、旧制高等学校では理科2類を専攻し医学者の道を目指した。
そこで生涯の師となる岡田 甫教授と出会い、道元の仏教哲学を学び宗教的見識を深めた。

日本が敗戦を迎える、昭和20年に京都帝国大学(京都大学)医学部に入学。
4年後の昭和24年、京都大学医学部を首席で卒業し翌年医師国家試験に合格。
京都大学病院では当時では‘不治の病’として恐れられた結核の研究をするため
同院結核研究所外科療法部に入局され、わずか6年後の昭和30年に医学博士号を取得されている。
さらに2年後には異例のスピードで胸部外科助教授となり、三重大学に胸部外科学教室を
創設する基礎つくりに奔走された。
また、昭和36年国際胸部疾患会議の座長を務めるなど、白熱の研究心に裏打ちされた能力で、
日本医学界の進歩に尽くすなど、まさに順風満帆の学究生活をすごされていた。

しかし、師の凄いところは、こんな出世話や肩書きにあるのでない。

昭和39年、師は自らの内なる求道心、耐え難く、助教授の職を辞して故郷の奈良県天理市へ帰り
子供の頃から夢であった信仰に基づく大陸医療奉仕活動を目指すべく、天理教修養科へ入り、
信仰者としての修行に入られたのだ。
あのまま大学病院に残っていれば、日本医学界で名声を得たであろう栄光の未来を捨てて、
一宗教者として本格的な天理の修行の道に入られ、生涯を天理教者として生き抜かれた。

昭和41年、天理に東洋一の内容を誇る「天理よろず相談所病院憩の家」が設立されると
師は胸部外科部長となり、院内に海外医療科を新設して、アフリカ・コンゴブラザビルやラオス、
カンボジアなどの無医村での治療やベトナム戦争による難民キャンプなどで自らが現場の先頭に立ち
命がけの医療奉仕活動に情熱を捧げるなど、人生の一時期、現場の医師として医療の道へ戻られている。

その活動記録を書した著書「メコンの渇き」(講談社昭和46年発刊)は日本ジャーナリズム大賞を取った。

48歳の時に天理よろず相談所病院・憩の家の院長になり、入院患者に信仰に基づく精神面までをケアーできる
日本有数の最先端高度医療施設にまで育てあげた。憩の家は名実ともに最先端高度医療施設として
日本医学界に燦然と輝く独特の地位を確立する。師は、病院を名実共に不動のものにした後、院長の職を簡単に捨て、
元来、人生の目標であった一宗教者に戻るべく東京布教へ旅立ち、天理教江戸分教会を再興させた。


師はよく、人生を豊かにする‘三つの大事なこと’について話されていた。

一、師を持つこと。
二、友を持つこと。
三、ロマンを持つこと。


「この三つがなかったら、幾ら富と名声に囲まれていても、逝く最後の時は寂しい人生だと感じるものだ」とよく仰っていた。


内戦渦巻く途上国の難民キャンプで救済医療に青春の全てを賭け、地獄を思わせる惨状の中で、
また終末医療の現場で、数え切れない多くの命の死に立ち会われた先生の言葉には説得力がある。


そして、この三つの教えは、今も人生の座右の銘として、片時も私の心から離れない。

師には人としての‘生き様’を学んだと思っている。

師は、私たち夫婦が出産時の選択に悩んでいるとき、親身になって相談にのって下さった。
この時の信仰信念に基づいた助言は、私たち夫婦の絆を強め、覚悟を決めることができた。

また、仕事のことなど日常生活に横たわる問題についても、いつも助言して下さった。
いつも頼りにして、ご意見を伺いに天理まで車を走らせた。

もちろんよく叱られもした。中途半端で覚悟のない思考をしがちな私を厳しく叱咤し指導して下さった。

様々な師との思い出が懐かしく感じる。


その‘師’が亡くなられて早、8年の歳月が流れた。
本当に月日の経つ早さを感じずにはいられない。

今、私は師の教えにかなう生き方をしてるだろうか? いつも、自問自答しながら生きている。

ただ、一つだけいえることがあるとすれば師の三つの教えのうち
「師を持つこと」だけは掴むことができたということだろう。

‘人は生きて何を残すか?’

物や財産などは移ろいやすいもの。しかし、生き方、思想だけは間違いなく後世へ受け継がれていく。

師は最後にそのことを私に教えて下さった気がする。

‘師’の思想や生き様は、今も、私の生き方に問いかけてくる。これていいのか?と。

その答えを求め、私はこれからの人生を生きていきたい。

所有から借りものへ、意識の変革による「豊かさと安心ある」生き方を探る。

2012-09-27 11:14:58 | 船頭の目・・・雑感・雑記

竹島問題や尖閣諸島をめぐる領土問題から、今、日本は近年にない隣国との緊張関係にある。

人類は長い歴史の中で‘豊かになる’ことを追求して生きてきたといえる。
そして人類で豊かになるということは具体的に物を「所有」するということを意味する。

今回の原因となっている領土も、国家が地球の一部を「所有」することの争いだ。

人類は、幾多の争いの果てに、知恵を絞り、国境という「ルール」を生み出した。
そして、人間本位の‘所有’を明確した。
しかしながら、人類の所有へ対する執着心はことのほか強く、現代でも争いの種となってしまっている。

ルールは国際法という国際的な取り決めで調整を図ろうとはしているが、国家のパワーゲームのような腕力の前には、
非常に脆弱な性格を持ち、正当性の有無も「強者」により捻じ曲げられることを世界は幾度となく知らされた。

法で、人類の所有という欲望を抑えることが事実上、不可能であることは誰もが感じているところだろう。

そもそも、この地球上の大地や海、空などの大自然を、人間が勝手に‘所有’する、という思考は正しいのか。
地球上の生命の観点に立てば、所有を巡り、戦い、多くの人々の血を流させ、奪い合い、
勝者が自然界を「我がもの」とし、自由に利用する権利が与えられる。
まさに人間本位のエゴのみで決められることを地球は許し、自然は認可を下ろしたのか。

所有しているなどと主張してみても、その実在は虚ろい易いものであり、いくら様々なものを多く所有していても、
人類は自らの命が尽きれば、それらはすべて自然に返さなければならないものだ。
所詮は生きている間だけの「借りているもの」にすぎないではないだろうか。子々孫々といえども
この事実からは逃れることができないはず。

少し感性の鋭い者なら、この地球上の自然、自らの身体、財産などはすべて、地球からの
「かりもの」にすぎないと実感できるはずだ。
いわば我々は、自然からの「レンタル権」をめぐって、血みどろで命懸けの戦いを長い年月、続けているだ
なんと虚しいことだと気づく。

だが・・・現実はこの虚しい戦いから逃れることができない強迫観念が国家、民族の間を覆っている。
人類は、生命の誕生以来、この世界は弱肉強食の生存競争の中で、勝ち残ったものにより創造されたと考えるに至った。
ダーウィニズムは、その考え方に正当性を与える論理として世界中へ広がった。

しかし、本当にそうか!生命は生存競争の後、強者が弱者を淘汰した歴史により
創りあげられてきたものなのか?
原始地球の泥海の中に、藍藻と細菌という原核細胞が生まれが、その後、自己複製の連鎖を打ち破る有性生殖・雌雄の性が
生み出され、共に協力することで多様な生物が数多く生み出されたのが「生命」の記録ではないか。
決して二つの原核細胞が生存を競い合い、どちらかを滅ぼし、勝ち残った細胞が生物を生み出したのではない。
最も根本の生物の進化過程には強者が弱者を排除する生存競争は存在せず、ともに協力する共生の論理が展開しているではないか。

私はこんな時世だからこそ、この生命の根本的な進化の論理をあらためて見直し、
人間として自然の論理をしっかりと読み解く生き方とは何なのか?を思考したいと思う。

人間同士がもう、所有をめぐり戦うのでなく、所有の欲望へのアンチテーゼとして「借りもの」
という意識変革による思考を確立し、人類が共存していく道を探りたい。

また、生命の起源と進化の歴史を現代科学で解明できた本当の‘英知’により辿り、
本当に人間の尊厳ある「豊かなで安心できる」生き方を探求したいと強く感じている。