保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

了以さまがお出迎えする保津川下り

2018-04-02 14:47:42 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
桜が満開になった京都保津川下り。

乗船切符が購入できる亀岡の保津川l下り乗船場では、チケットカウンターの正面に角倉了以さまが陣取り、
世界中からお越し下さる観光客の皆さまをお出迎えされています。

普段は、嵯峨嵐山の大悲閣千光寺におわす角倉了以像ですが、千光寺の大林住職さまのご厚意により、
春から夏の期間中、保津川下りにお貸し下さることになりました。

早速、保津川船頭の半纏を身にまとい、船頭笠を被って陣取る了以さま。

瞬く間に、観光客の人気の的に!

先日はドイツから来られた少年少女合唱団のお子さんが

「頭が寒そう~」
「可愛そう~」と言いながら、ニット帽を被らされるなど、お茶目ぶりも発揮。

他にも一緒に写真を撮られる方が後を絶たず、早くも「インスタ映え・了以さま」として大活躍されています。

保津川下りを後世に残し、近世日本の商業システムを構築した人物・了以さまの功績と一緒に、
世界へお持ち帰りいただければ嬉しいかぎりです!

<了以伝> 商売への関心と従兄・栄可の存在

2017-12-05 11:17:54 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
ふるさと・嵯峨の地を開拓した古代の豪族・秦氏。
その秦氏に幼き頃よりリスペクトしていた了以は
「自分も秦氏のように、この川の流れを制して、世の発展に尽くしたい。」
という夢を持っていた。
医家の名門である吉田家の二男に生まれながらも、
生来、自然の野山を駆けることの方が好きだった了以は、父宗桂のような医学や学問よりも、
もう一つの家業であった土倉(金融業)や酒屋など商いに興味を持っていた。
また、家に集う公家や学者などの来客の話や格式やしきたりを
重んじる家風にも関心がなかった。

その点、吉田宗家の従兄・栄可の家は土倉に比重を置いた家柄だったので、馴染みやすく
子供の頃より、栄可の家に遊びに行くことが多かった。
「栄可兄の家には、うちのような陰気さや堅苦しさもない。大きな声が飛びかう賑やかさや
活気、これこそ、わしの性に合う。商いの醍醐味は学問では味わえない。」

父・宗桂も「この子は医師に治まるような気性ではない。商いに精進させよう」
と思っていたので栄可に家に通うことに対してのお咎めはなかった。
それに医師の宗桂に商いのノウハウを伝えるほどの経験もなかった。
「甥っ子栄可は兄・与左衛門亡き後、若くして家督を継いで、我が父の宗忠が広げた商いを
さらに発展させるほどの商売上手だ。やんちゃな了以を育てられるのは栄可しかいない」
という確信も持っていたのだ。

了以と栄可の祖父・宗忠は、近江の国より嵯峨の地へ本拠を移した
吉田家の中興の祖ともいえる人物で、医家の名門だった吉田家に土倉や酒屋という
商家の道を開き、巨大な富を築き、一族を支える大黒柱的な
存在だった。栄可の父・与左衛門は宗忠より早く亡くなっており、
栄可が祖母宗忠の死により事業を引き継いだのは僅か12歳の時だった。
祖父の後ろ立てがあり、やってこれた商売である。
その大きな支えが無くなったことは、一族の動揺を招きかねない。
「若い栄可にこの大所帯を切り盛りできるだろうか?宗忠は手広く商売を広げている。
とても12歳の子供がまかなえるものではない。」などの不安や心配の声が多く聞かれた。
この一族に流れる雰囲気は、幼い頃の了以にも敏感に察することができるほどだった。

このような一族の心配をよそに、栄可はメキメキと商売の才覚を見せ、
祖父譲りの頭角を表していったのだ。
「栄可の兄は凄いな~私も彼のようにバリバリと商いがしたい!」
と強く刺激を受けるのであった。

栄可も年が15歳も離れる従弟の了以に目を掛けていた。
「こいつにはわしに通ずる祖父宗忠の血を受け継いでいる。
可愛げはないが外交的な性格、未開の自然や野山を駆け巡る好奇心、
野放図なようで物事へ熱中し、予想外の発想をする。そして、医家特有の数字への強さ。
どれを取っても商人向きだ。末が楽しみな若者よ」と
巨商の目はその才覚を見抜いていたのだ。
栄可は自らの娘を了以へ嫁がすことにした。
これには自分の商いの片腕として了以を欲したことが動機だといえる。
いずれ土倉に専念させる気だった父宗桂からの反対はなかった。
なにより、幼馴染の了以もと栄可の娘からの異存はなかった。
了以17歳。本格的な商いの道の入口に立つ。


<了以伝> 若き了以がリスペクトした桂川の開拓者・秦河勝

2017-12-04 09:02:54 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
京都嵯峨の地で生を受けた了以は、幼きより桂川の流れをまじかに見て育った。
京の都でも一番の広さと流れを有するこの川は、嵯峨の大地を潤し、
上流部の丹波より良質な木材資源を筏流しで運び、都に恵みを届けてくれる
「親なる川」であった。
了以はこの川を眺めるたびに、ある人物を思い浮かべこうつぶやいた。
「いまの嵯峨の繁栄はこの桂川の水の恵みによるもの。我々は彼らぼ功績を忘れてはならない。」
彼らとは?「秦河勝率いる秦一族」だ。
秦氏は7世紀前半、山背国葛野(かどの)郡を本拠を活躍した渡来系豪族で、
奈良時代、聖徳太子に見出され、大和~山城の地で勢力を持っていた秦一族の族長的な人物。
「秦氏が造築したこの「葛野大堰」この堰を彼らが造らなければ、嵯峨の地はおろか、京の都すら出来てはいないだろう」

了以は幼い頃より父からよく聞かされた秦氏の活躍に、強く意識していった。
「この河勝率いる秦一族は桂川(大堰川~保津川)の流れを制し、
「京都」という新都プロジェクトの基盤となる土木・建築技術を保持していた。
地域の開拓は空想だけではできない。その計画を実行する為には確かな技術力が不可欠だ。
それを保持していたからこそ、秦氏は桓武帝をお導きし、新都を造営できたのだ。」

嵯峨はもとは「葛野郡」と呼ばれ、元々は川の氾濫原であり居住地としは敵しない
湿地帯だったが、流域は堆積物による肥沃な土壌が形成され水稲栽培をするには
願ってもない条件を満していた。
「その大地の潜在力を見抜いた河勝らの慧眼、おそるべし!、
暴れ川の桂川を自然の流れに任せていては
農耕どころか、人も安心して住めない。この流れを堰き止める大きな堰を建築し、
その水を送水することで稲作作用の灌漑用水を整備すれば、豊かな田畑に生まれ変わらせた」
その視点はまさに経済発展という視点だ。
「しかし、大雨が降れば桂川は、洪水となり、そのたびに流域は水没するうえ
、堆積土砂で流路すら安定しない。
その破壊的な悪条件が利用できるとは誰も思わないだろう。
秦氏はそこを逆手に取る「逆転の発想」で、農耕地化という突拍子ない発想に挑戦した。」
ではなぜ、このような発想が生まれたのか?
「それは秦氏が知識という武器を持っていたからだ。
高度な土木治水技術ももちろんだが、地域を潤わせるという公の精神が
根底に流れているからこそ、大きなリスクを覚悟してでも、
桂川の流れに果敢にも挑み、葛野大堰(一ノ井堰として今も機能している!)
を見事に完成させたのだ。」
「わしは、秦氏の「志」に強く惹かれるし、できることなら、
我もそのように「志」に生きたいのだ」

暴れ川を制し、堰築造事業を成功させたことで、
葛野郡は京都盆地で最も豊かな米作地帯へ開拓され、
嵯峨集落機能の基盤を確率した。
その事業には我が身、一族の繁栄だけを見ていたのではなく、地域、集落の発展という
大きな視野に立った思いがなければ、できるものではない。

その基盤の上に「長岡京」造営はもちろん「平安京」遷都があったことは間違いがない。
了以にとっては「同郷の誇り」であり「人生の目標」となる存在としてリスペクトしていた。

「嵯峨嵐山の地が景勝地として雅な風情を醸し出しているのも、
また葛野大堰の築造で川の水位が上がり、川溜まりができたことで、
都人が鵜飼や舟遊びに興じることができるのも秦氏の遺産によるものだ。」

「太古より現在まで、国の根本を支えているのは「経済」だ。
川の流れを制して大地を開拓し、豊かさを生み出すことで、
庶民は安定して暮らしていく事ができる。
政治はその上に、仕組みを作っているに過ぎない。
経済の視点抜きに、国を富ますことはできない。
経済の創造は人々を潤し、集落地域を潤し、そして末代に至るまで時代をつなぎ潤わせる。
その中から雅な文化、庶民の営みも生まれていくものだ」

「わしは秦氏のように、時代の先を読む知性と確かな技術、
その基盤を支える財力を生む経済に生きたい」
名門の医家で育った了以だが、その心には医学の道でなく、
実業という経済の道が確かに見えていた。
目の前に見える桂川の流れを見つめながら、了以の若き血潮が燃えてくるのを感じていた。

角倉了以という実業家とその精神を問いかけたい!

2017-12-02 09:03:14 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
近世の京都。日本の近代商業システムをつくりあげたと言われる実業家が生まれた。
その名は角倉了以。

時代の最先端の知識と技術で、経済構造の先を読み、当時では先進的なグローバル感覚と価値観に基づき、ビジネスを展開した、日本が誇るべき実業家だ。しかし!
その人物を紹介した史料は乏しく、故林屋辰三郎先生の著作以外にほどんどないのが現状だ。

「なぜ、歴史の表舞台に紹介されないのか?」
これは「角倉一族」の研究が進めれた国際日本文化研究センターの研究会でもよく議論に挙がっていた。
「彼は事業家だから史料は残ってない」とか「角倉家は幕末に幕臣になっていたから、新政府の歴史では省かれた」
また「江戸期の火災で史料が消滅している」などの学問的見地から意見が出された。
だが、宗家である「嵯峨の吉田家」は足利将軍の主治医を任された医家の名門であり、
祖父や父は三条家や山科家などの公卿や文化人の書き物に、その名が頻繁に記されている。
その力の源は土倉や酒屋などで培った財力だ。
それを引継ぎ、さらに日本規模の財力までに発展させた了以の史料は、もっと存在していいはずだ。

まさに、何か意図的に記録が消されたように了以の史料は少ないのだ。

一説には了以自らが「我が業績を称えることなかれ」と子孫に戒めたともいわれる。

河川開削により舟運が開通し、流域の各地域が経済発展をしても了以は
「この水運を誰が開いたなど、忘れられていい。ただ、それで便宜する人々が増えれば充分。」
と言っていたとも伝えられている。

了以ほどの人物の偉業が世に知られていないのか?その事実に迫るなど、私にはおこがましいことであり、
了以の本意ではないかもしれない。でも、これからも「了以」を追いかけることは止められそうにない。

了以をはじめとする角倉一族の実像とその企業家精神の価値を、現代の日本人、また世界の人々に問いかけていきたい。

この気持ちの発露が「了以伝」を書こう思う、最も大きな動機なのだ。

「了以伝」の執筆構想。近世における角倉一族の功績とは?

2017-12-02 08:56:35 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「了以伝」を執筆したいと思います。
近世日本にあって経済、技術、医学、文化、芸術、思想など様々な分野で
革新を起こした功績がありながら、あまりにも無名な存在に甘んじている角倉了以。

息子・素庵とともに築いた近代日本のルネサンスへの道を現代社会に問いかけてみたい!

日本の近代化の基礎は近世の産業・文化・技術が土台にあってこそ、成し得たこと!

京都の国際日本文化研究センターで進められた研究成果をもとに、
物語仕立てで、了以と角倉一族の実像に迫ってみたいと構想を練っています。

乞うご期待を!

保津川下りの操船技術が亀岡市の民俗無形文化財に指定されました。

2017-04-27 08:33:27 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
この度、保津川下り船頭の操船技術をはじめ「保津川舟運関連」3件が亀岡市の民俗無形文化財に指定されました!

慶長11年(1606)京都の豪商・角倉了以翁により開通した保津川下り。
411年前に元瀬戸内水軍の旗頭・来住一族により開発された保津峡の操船技術を、
現在の船頭まで途絶えることなく伝承している点などが指定理由となりました。

また、牛松山山頂に鎮座されている金刀比羅神社に、先輩船頭たちが奉納した木造摸造船や
篠町の桑田神社に建立されている「舟筏無難」の文字が刻まれている石灯籠も同時に指定されました。

411年に渡り保津川で生きた船頭たちの「信仰・祈り・自然と共生した技術」が文化財として評価されたことは、
我々にとっても光栄なことであり誇りとするところです。

今後も、さらに精進を怠らず操船技術に磨きかけ、世界中からお越し下さる観光客の皆様に
安心、安全、楽しい舟下りを提供して参りたいと思います。


今後ともご指導のほど、よろしくお願い致します。


保津川下り 代表理事 豊田 知八

日文研から角倉研究の本を出版します!

2015-06-15 18:04:28 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
いよいよ日文研で進めていた「角倉一族の研究」をまとめた本が出版されます!
森洋久国際日本文化研究センター准教授編集のもと思文閣出版から
6月内に刊行される予定です。
近世における角倉一族の業績を俯瞰的に検討し、多彩な分野の研究者の論与で考察する、
まさに角倉研究の集大成本です。
不詳私も執筆者として名を連ねております。
学術書なので少しお値段はしますが、ご興味のある方はぜひ、お買い求め下されば嬉しい思います。

この本をきっかけに日本産業史に角倉一族の業績が正当に評価され、多くの日本人に
知っていただける契機になればこんなに嬉しいことはありません。

日本文化研究の最高機関である国際日本文化研究センターの取り組みに心から感謝いたします。

琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語 ~その参~

2015-06-11 09:53:03 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
俵屋宗達の作品の中で最も有名な絵が「風神雷神図屏」です。
建仁寺所蔵ですが、現在は京都国立博物館に寄託されたいます。

この『風神雷神図屏』は、宗達が1632年に素庵が死去した後、鎮魂のために
描いたのではないかという仮説を立てているのは関西大学の林進先生です。

実はこれまでの俵屋宗達と角倉素庵の友情物語は林先生の説に基づいて書いています。

先生の説によると、寛永四年(1627)にライ病(ハンセン病)を患った素庵は、当時のらい病者への偏見と
いう掟に従い、世間との関係を絶って嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲します。

ライ病は、皮膚が白くなる「白らい」(ビャクライ)という症状があり、素庵もその症状が発病し
身体の皮膚が白く変色していました。宗達は素庵への鎮魂の為にこの絵を描いた事を、
自らの心情を作品で表現しようとしたのでしょう。
本来、伝統的には赤く表現されていた「雷神」が、なぜ宗達の絵では「白い」のか?
風神雷神絵を考察するときに見過ごすことができない視点なのに、これまで説得力のある
説明はなされいません。宗達ほどの作家が何の意図もなく赤から白に変えることは考え難いです。
これについては宗達研究の第一人者の山根有三氏でさえも、白い絵具を使うのが「好きだったから」
と全く踏み込んではいないといいます。

林先生は、雷神の体を白色に変えたことこそ、素庵の姿を重ねたものであり、鎮魂の表現
だといわれています。
続けて、もう一方の風神には宗達自身を重ねることで、素庵の元へ寄り添おうとする
自身の心情を表現しているというのです。

理不尽な境遇で苦しみ死んだ菅原道真の縁起を描いた絵巻に、怨霊と化した道真(雷神)が
御所に雷を落とす場面を描いた雷神絵。その絵を宗達は本屛風の二神の姿に転用したのです。
実業家のみならず文化人とても輝かしい業績を残しながら、不運な晩年を過ごさざるおえなかった素庵の生涯。
その無念の心境を道真に重ね、雷神として描いた宗達、そして自分も風神に寄り添う。そして、
今にも雷を落とし災いを起こそうとする雷神(素庵)に、右側から駆け寄り、
「おーい、素庵。俺も来たよ。昔のように楽しくやろうよ。今までのことは良いじゃないか。」と
なだめ、話しかける宗達の心情。

雷神の悲しげな表情に、世間から見捨てられた素庵の不運な人生がにじみ出ているようです。
その人物像が謎に包まれている宗達ですが、この作品が林先生のいう心情から
生み出されたものだとしたら、友情と義理厚い新たな宗達像が浮かび上がってくるのではないでしょうか?

本来、実業家としても、知識人としても近世日本史の一ページを飾ったであろう人物である角倉素庵が、
未だ全くをもって‘無名’の存在であるのは、この晩年の人生が大きな理由ではなかった!
素庵の魂は、今年の琳派400年をどのような気持ちで眺めているのでしょうか。
雷神の絵を見ながら、静かに語りかけたいと思います。

琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語。~その弐~

2015-06-10 15:46:08 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
父了以亡き後、角倉家の家督を継い素庵は、幕府より淀川通船輸送管理者や
木曽山巨材採運使(尾張藩)、近江国坂田郡代官の任命されるなど
隆々たる事業展開を遂げましたが、寛永四年(1627)に突然、予期せぬ病
ライ(ハンセン病)に倒れ、家業を息子達に譲ることになりました。
素庵はこの不運を宿命として受け入れ 嵯峨千光寺跡にひっそりと隠棲します。
当時、ライ病は、一族のケガレとして乞食として放浪の旅 に出るか、
生涯、物乞いの生活を送るか、どちらかの選択せざるおえないほどの差別と偏見を受けていました。
素庵の息子たちは父の心中を察し、嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲させたのです。
その後、追い打ちをかけるように素庵に不運が襲います。素庵は光を失ったのです。
それでも素庵は師・藤原惺窩から託された 『文章達徳録』の増補と『本朝文粋』の校訂を続行するなど
、いのち尽きるまで学術と文化の追求に情熱を注いだのです。
しかし、当時、ライ者に直接関わることは、世間の掟に背くことであり、世間から見捨てられた身である
素庵に書籍の出版を協力する者はありませんでした。

そんな姿をみた宗達は、素庵が校訂した『本朝文粋』を古活字版で刊行することで、
素庵の大恩に報いることを決心したのでした。それは宗達にとって絵筆活動を辞するほどの決意でした。
事実、宗達はこれを期に筆を置く覚悟があったといいます。
そして素庵が校訂した『本朝文粋』は寛永七年(1630)に出版されました。

しかし、運命は思わぬ方向へ宗達を導きました。
これを読んだ後水尾院が絶賛し、その刊行に対する褒賞として、宗達に「法橋位」を贈ったのです。
宗達は慣例に従い、「楊梅図」ほか屛風絵 三双を描き、後水尾院の仙洞御所、
東福門院の女院御所、明正天皇の禁裏御所に進上しました。
すると次いで大名、門跡寺院、町衆などから注文が入り、絵師を辞めることが許されなくなったのです。
その後、宗達は寛永九年から十年にかけて「風神雷神図屛風」を描き、
益田家本「伊勢物語図色 紙」三十六図を描くなど、、親王、公家、僧侶、大名、連歌師、町衆たちから
注文が相次ぎ、絵師・宗達の名は都から全国に轟きました。
 
素庵の墓は角倉家の菩提寺の二尊院ではなく、素庵の遺命により、風水地理に基づき
嵯峨化野念仏寺の竹やぶの中に建てられました。
そしてその墓から、角倉一族の繁栄と宗達の活躍を見守ったのです。

琳派400年、俵屋宗達と角倉素庵の友情ものがたり。~その壱~

2015-06-10 09:02:14 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「琳派」とは江戸時代初期に本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し尾た芸術表現技法のことで、
彼らに強く影響を受けた尾形光琳や乾山兄弟によって後年発展しました。
漢画の技法をその基礎におきつつも、大和絵の技法や題材も取り込んだ、
独自のデザイン性に富んだ様式を編み出しました。
京都の北・鷹峯に光悦が開いた「光悦村」から日本中へ広がった芸術様式・琳派が生まれて400年。
その記念して今年、京都では様々が行事が行われています。

そしてこの保津川にもこの琳派と縁浅からぬ物語があることをご紹介したいと思います。
保津川下りの創業者といえる角倉素庵と、琳派の人たちとの友情のがたり。
角倉素庵はもうご紹介するまでもなく、保津川下りの創設者・角倉了以の息子で了以の片腕として
保津川、富士川、高瀬川開削を成し遂げ、朱印船による海外貿易を手がけた大商人です。
素庵は晩年、事業を息子たちに譲り、生来、希望をしてた文化創作への道を選びました。
そこで出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力を得て「嵯峨本」といわれる古活字本を出版しています。
西洋から伝わった最先端の木活字を用い、用紙・装丁に豪華な意匠を施した美本として
世界的に高い評価を得てる嵯峨本には「伊勢物語」「観世流謡本」など13点が現存し、
その編集者、作成者の名を取り、光悦本や角倉本ともいわれています。
特に俵屋宗達と素庵はお互いの才能にリスペクトされ、友情を深めていきます。

そしてその後の素庵の数奇な運命が、宗達に傑作を生み出す源になるのです。