保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

源氏ホタルが生息する「蛍ヶ淵」

2005-04-05 17:51:44 | シリーズ・保津川を下ろう!
清流といわれる保津川には、今も源氏ホタルが
生息している場所「蛍ヶ淵」があります。

蛍ヶ淵は、前回紹介した昔の船着場「下浜」の少し下流部で、
保津川本流と、山から流れ落ちる谷川が合流する箇所から
約200~300m下流間をそう呼びます。

川が真っ直ぐ緩やかに流れる蛍ヶ淵は、川沿いに
蛍の幼虫が繭(まゆ)をつくれるネコヤナギも木が
多くはえており、生息するのに適した自然環境に
なっているようです。

保津川に生息する源氏ホタルは、幼虫の時期を水のなかで過ごし、
やがて水辺から上陸し、ネコヤナギの枝や土中に繭(まゆ)を
つくります。
その後約1か月間さなぎとなり羽化し、成虫になります。
但し、今の自然環境ではホタルの成虫に羽化できるのは
ほんのわずかといわれて、たいへん貴重な生き物となりつつあるのです。

保津川で毎年、この源氏ホタルが見られるのは、5月下旬から6月初旬頃で
平均気温が高い年などは少し早く飛び始めるようです。

ホタルの飛んでいる時刻は、夕日が沈む午後7時半頃から9時までなので
残念ながら船からは見ることは叶いませんが、時間帯を合わせて
蛍ヶ淵に観察に行くと、川の流れる音しか聞こえない真っ暗闇の中に
眩いばかりの黄緑色の光を放った源氏ホタルの出会えます。

調べたところによると、ホタルが光を出すのは異性の気を惹く
為のものといわれオスの方が強く光るそうです。
ホタルの世界もオスが強く自己をアピールしないと
メス様には選んで頂けないのですね。
なんだか急にホタルくんが身近に感じられます。

また、このホタルの光には驚くべき現象がみられるそうです。

ふつうは物質が光を出す場合、熱を持ち温度が高くなるのですが、
ホタルの場合は光っているところをさわっても熱を感しないそうです。
温度が低い状態で発光する冷光という光だそうです。

熱が出ないということは、それだけエネルギー効率が、
非常に高いということです。
少しのエネルギーで光をつくることが出来る現象です。

このホタルの光を電力に活かせたら、地球環境問題は
劇的に解決されるのでは・・・などという夢のような
研究も進められているとか?いないとか?

しかし、一つだけ確かな事は、この夏の夜を
幻想的に演出するホタルの光は、汚染されていない
綺麗な水辺を守らなくては、消えて無くなるということです。

保津川でも年々、ホタルの生息数は減ってきているのです・・・





船頭の通勤みち

2005-02-24 21:00:59 | シリーズ・保津川を下ろう!
前回に紹介した昔の船着場「下浜」の裏山沿いには
昔から保津の船頭衆が住む集落があります。

昔の船頭はこの裏山を下って、仕事場の着船場に
通っていたそうです。

この裏山には今も船頭達が通っていた細い路が
残っております。

地形が急な傾斜地になっていることから、曲がりくねった
階段状の坂道が続きます。
その中間地点に差し掛かると、路横に古い小さな祠が見えてきます。

この祠を保津の人達は「水神さま」と呼んでおります。

代々保津の船頭は、この路を通って出勤、家路にと
毎日往復する際、必ず「水神」さまに手を合わせて
いたそうです。

出勤の時は一日の運航の「安全」を祈願し、
帰り道には「安全運航できたことへの「感謝」の
気持ちで御参りしていたのです。

門構えも鳥居も何もない小さな祠しかない「水神」さまですが
保津の船頭の守り神として、強い精神的な支えなっていたのでしょう?

その路を歩いてみると、当時の船頭衆が棹を肩に
担げながら通勤する姿、その途中で「水神」さまに
手を合わし御参りする姿が目に浮かんできます。

代々先人の船頭さんの支えとなり、守られてきた「水神」さまには
はっちんの所属する第三支部が毎年、愛宕講の日(1月23日)の朝から
お供え物を持って御参りする慣わしになっており、当時の船頭の
思いを偲んでおります。

*写真の小さな祠が「水神」さまです。その横にある
 小さな路が昔の船頭が仕事に通う時、使っていた
 路です。現在は行き交う人の姿も稀となっている
 ようで、寂しい限りです。
 


シリーズ・保津川を下ろう!その8「下浜」

2004-12-20 23:54:15 | シリーズ・保津川を下ろう!
沈下橋である保津小橋を潜ってしばらく行くと、
川が大きく右に折れていく箇所が見えてきます。
ここの左岸側にあたる湾曲した岸を「下浜」と呼びます。
今では何のへんてつも無い河原となっていますが、
ここが昔の船着場だった場所なのです。

「下浜」とは丹波材を筏にして流していた当時から、
中継地として利用されていた浜で、上流の宇津根浜
からみて下流部にあったことからそう呼ばれたそうです。
ここでは上流用の平川造りの筏を、急流の荒川造りに組み変える
ことを主に行っていたそうで、筏問屋の詰所も存在していた所でした。

慶長11年に当時の嵯峨の豪商・角倉了以が今の保津川下りの
前進にあたる荷物舟を開通してからは、舟に荷持を積み込む
浜として使用され、大堰川水運発展の拠点として栄えた浜でもあります。

当時の船は今の乗船場ではなく、この下浜から出発していたのです。
今では保津川下りの乗船場が約700~800m上流に出来ていることから
この下浜を「古浜」という通称で呼ぶこともあります。

荷持船が下っていた当時の「下浜」には、亀山藩(今の亀岡)所轄の
倉庫や事務所が建ち並び、この地域の農産物や薪、炭などの物資を保管し
随時、舟に積んで保津川渓谷を下り、京や大阪まで大量運搬していたのでした。

ちなみにこの水運を開削した角倉了以は、その功績により徳川幕府から
許可を得て「下浜」に角倉事務所を置いて通運料を取り、嵯峨には運上所を
置いて倉敷料も徴収するという今でいう有料道路の制度を導入し、
有料河川として莫大な利益をあげたのでした。

保津の船頭達はほとんどがこの浜の上部に住処を持っていたことから、
坂を降りて浜に出勤する小さな道が今でも残っています。
その途中には船頭達が行き帰りに、運航の安全を祈願したであろう
「水神さま」の祠(ほこら)がひっそりと建ててあり、当時を偲ばせてくれます。

今でもこの浜の周辺には、材木屋さんや倉庫の後を残す民家がいくつか
点在しており、船下りの最中からも見ることが出来ます。

*写真は「下浜」の上から見た川の風景です。
 左の舗装されている道に、昔は荷持をもった
 牛や馬が行き交いしていたのでしょう。










シリーズ・保津川を下ろう!その7・保津小橋パート2

2004-11-27 19:06:29 | シリーズ・保津川を下ろう!
上内膳堤を越えて行くと、川が一気に広くなります。
すると前方に低い橋が見えてきます。
この橋の名前を「保津小橋」といいます。
上流に掛かる大きな橋が「保津大橋」と呼ばれるのに対して
こちらは小橋。しかし対岸の保津の村の人たちにとっては
どちらも重要な生活橋には変わりはありませんでした。

この保津小橋については以前書いた事があるのでご覧になられた方も
おられるでしょうが、このシリーズが上流から順番に下ることになっているので
再度の登場で重複する事をご了承ください。

車が一台しか通れない小さな橋ですが、鉄筋コンクリートで出来ています。
そしてこの橋、保津川が洪水になると川の中に沈んでしまう橋なのです。
その為に欄干が造られてないのです。

保津の人はこの小橋のことを‘高(たか)橋’と呼んでいます。
水没するほど、川の堤防よりも低い位置に架っているのに
高橋?と呼ぶのは何故なのでしょう。

その理由は、昔、架かっていた流れ橋に云われがあるのです。

昔、農家の人々にとって、保津川のような大きな川を渡り
対岸の農地へ行くということは、大変な苦労がありました。
しかし、当時の日本では、今のように、一農村のために
行政が橋を架けるなどということは、財政上考えられない時代でした。

その為、地元の人々は、丸太で橋を組み、その上に板を2枚敷くという
簡単な橋を架けて対岸の農地へ行っていたそうです。

丸太橋は橋幅も狭く、二人が橋の上で出会えば、お互いが横になり
向かい合って渡らねばならなく、背中に荷物を背負っている人と
すれ違う場合などは、橋の外にはみ出して渡っていたそうです。

この橋を渡る時の恐怖から「とても橋が高く感じる橋」‘高橋’と呼ばれました。

また、地元では「高橋を渡れない者は保津の嫁にはなれない」とか、
橋を渡る心得として「絶対下を向かず前だけを向いて渡れ」などのアドバイスを
年長者がするなど、保津村人の象徴と考えられていた向きもあるようです。

そんな丸太橋も昭和25年には今の鉄筋コンクリート型の橋の生まれ代わり、
洪水の度に流れて不便を感じる事もなく安全に渡れる橋が架けられたのです。

ではなぜ?今の保津小橋、高さが堤防より低いんでしょう。
これは長年、水害に悩ませられた経験から来ています。

保津川は有史以来の暴れ川で、谷間近郊流域の保津も幾たびかの大水害の見舞われました。
豪雨が降れば、堤防を超えることなど簡単の事で、小規模の橋などは高くする方が流されやすいのです。

洪水になれば周辺から、木かぶや巨大な倒木、大型ゴミが
勢いよく流れてきて、橋に当たり破壊されます。

水害を多く経験している保津の人たちは、増水の高さによって
どのような物が流れてくるかを知っていました。
その時、橋を川深く沈めておけば、これらの流物が橋に当たらず、
水位が下がればもとの姿のまま浮かび上がってくると考えたのです。
欄干がないのも流れの抵抗を受けなくするためのものです。
この読みは見事にあたり、半世紀すぎた今でもその姿は変わることがありません。

まさに水害と共に生きてきた人間の知恵からできた橋、それが保津小橋なのです。

この沈下橋スタイルが残っているのは、京都では木津川とここだけです。
日本でも数ヶ所しかないのではないでしょうか?

保津川下りをされることがあれば、一番最初に潜る橋、保津小橋は
こんな橋なんだな~と思い出して下って頂くと、また一つ楽しみが増えるのではないでしょうか?

時代は変わり、車が渡る時代になった今でも
小橋は変わることなく、昔の流れ橋の匂いを残してくれている橋なのです。

今年は台風が10回も近畿を通過していく異常な年でした。
保津小橋も増水した川の中に3回も沈んでしまいました。

しかし橋の姿は磐石として動じてませんでした。






シリーズ・保津川を下ろう!その6・上内膳堤

2004-11-26 21:35:14 | シリーズ・保津川を下ろう!
船が保津川の乗船場を出発すると、しばらくは右岸の堤防沿い
を進んでいきます。その堤防の最後に石積の護岸が姿を表します。
これが川の浸食防止の為、江戸時代に造られた「上内膳堤」です。

「上内膳??」と思われる方も多いことでしょう。
この堤の名前である「上内膳」とは当時の亀岡(江戸時代は亀山藩といった)
の領主であった岡部内膳守長盛の名前に因んで名付けられたものです。

名領主として庶民に親しまれた長盛は、度重なる保津川の氾濫被害を
防ぐ為、石積みにより湾をつくり侵食を防ぐ堤防を建設しました。
これが「上内膳堤」です。

この堤防の付近は支流である「雑水川」や「年谷川」が
集中して流れ込む地形になっているので、洪水時には
必ず保津川が氾濫し周辺の田畑に被害が出ていました。

この事態に心を痛めた長盛は、藩の重要事業として
侵食防止の堤防工事を計画、被害の酷い二箇所に
建設しました。
上内膳に対して下流にも下内膳という
同じ型の堤防を造っています。

この事業は亀岡の庶民の心を掴み、「岡部長盛公、亀山を知り給い時、
田地のわずらいをいとい給ひ、川中に二つの堤を築出させ水勢を避け
その仁愛の深き事いちじるし」という文献が残っています。

岡部内膳守長盛は慶長14年(1609)に下総国山崎から入封して
亀山藩を成立させました。長盛は徳川家康のもと、数々の戦に参加して
多くの手柄をたてた勇猛な将で、家康の信頼も厚く、京の都の隣国
亀山の領主に任命されたのです。築城途中だあった五層の天守閣・亀山城を
完成させているなど、多くの事業をのこしています。

長盛はその後13年間領主を務め、丹波国福知山に
移封して行きました。

この「上内膳堤」は通称「雷湾」と呼ばれ、学校に
プールの無かった時代、子供達の水泳場でもありました。

また、「乳母ヶ淵の人魂伝説」という怖い伝説が
伝えられるミステリースポットでもあるのです。


シリーズ保津川を下ろう!その5 愛宕山

2004-10-05 20:47:38 | シリーズ・保津川を下ろう!
はっちん達船頭が川下りで最初に説明するスポット、それが峻峰・愛宕山(あたご)です。

乗船場を出発すると、左前方の山々が連なる一番遠くに見える山がそうです。
川下りの船はこの山裾を巻くように下って行き、山裏になる嵐山に着くのです。

昔から「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕山には月参り」と京都のことわざに
歌われている愛宕山は、標高924mで京都市の北西にそびえる市内一の高さを
有する山です。
頂上には愛宕神社があり、古くから京の庶民に信仰厚い山なのです。

京都では鬼門にあたる北東(丑寅)を位置に比叡山に延暦寺、
北西(戌亥)に愛宕山に愛宕神社と、それぞれ対峙させ宗教的意味を持たせていたのです。

愛宕神社は8世紀初頭、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)と白山開祖・
泰澄(たいちょう)法師によって開かれました。
昔から愛宕山には稲妻が走ることから、雷神が住み着いていると信じられ‘火伏せの神
として崇められていました。祭神は母神いざなみを焼き殺した子‘かぐつちのかみ’を祀っています。

愛宕という名前の由来は、母を焼き殺したことから‘あだ(仇)子があたごに
変わって伝わったともいわれています。奈良時代には‘阿多古’と書かれていたとか。


平安時代に流行った疫病や天変地異を克服する為、桓武天皇が愛宕信仰にすがったという記録も残っています。
保元の乱で敗北し憤死した崇徳上皇が愛宕山の大天狗・太郎坊となり、家臣の烏天狗らと計らい
日本国中を戦火に巻き込んだと信じられ、「火伏せ」・火事の災難除けの儀式が行われたです。

中世、山岳仏教の隆盛に伴い、神仏習合の修業場して五つの寺も建立され民間信仰が栄えました。
また、本地仏が‘勝軍地蔵’であることから戦国武将の信仰も厚く、明智光秀が主君信長を打つべく
参籠し「ときはいま、あめがしたしる、さつきかな」と歌ったことはあまりにも有名です。

京都の民家では今でも、我が家の台所に愛宕山の「火の用心」の御札を張っている家は多いのです。
最初のことわざも「一生の内に、お伊勢には七度、熊野には三度、愛宕山には毎月参りたいものだ」
という思いを歌ったもので、どれほど庶民に信仰が厚かったかを物語っています。

今でも近畿一円に愛宕講が残っており、愛宕神社は全国に八八四社もあるそうです。

船頭でも昔から愛宕講を組織しており、今も毎年1月23日に愛宕神社にお参りに行く慣わしとなっています。

この愛宕山、川を下るあいだ、色んな方角からその姿を現しますよ!

京都の人達に古くから親しまれてきた山・愛宕山を見ながら下るのも、
保津川下りの楽しみの一つであることは間違いないと思います。

(*)写真の一番遠くに見える高い山が愛宕山です。




シリーズ保津川を下ろう!その4・保津大橋

2004-09-26 22:16:21 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下りの船が乗船所を出発すると、目前に大きな橋が見えてきます。

この橋、名前を‘保津大橋’といい、平成13年11月に新らたに架け替えされた橋なのです。
あまりにも立派な橋なので「これは高速道路ですか?」と質問される
お客さんもおられるほどの、保津川、自慢の橋なのです。

保津橋は昔の旧橋の頃から、保津町民にとっては悲願の橋です。

保津川下りの船頭が代々暮らす集落・保津町は、亀岡市の南東部に位置し
保津川の東岸から山間部に挟まれています。
市内中心部や対岸の農地に行くには、どうしても保津川を渡る必要があり、
橋建築は生活に密接にかかわる重要課題だったのです。

橋を造る技術がない時代は、浅瀬を歩いて渡ったり、小舟での‘渡し舟’を使っていたそうです。
また流れが速く、舟も渡せない所には簡単な丸太橋を架けていたともいわれています。
しかし、このような橋では増水時には流れてしまい、復旧されるまで農作業はできなかったそうです。

大正3年になりやっと、両側堤防間をつなぐ約200mの木造橋が出来き
大八車が履行できる幅を確保したモノでした。
しかし、この橋も大洪水では意味を成さず、流されたといいます。

このような厳しい生活環境を過ごした保津の人々ですが、
昭和に入り、新たに流れない橋を保津川のどこかに造る動きがでてきました。
保津の人々は保津橋建築の重要性をアピールする為に
木造橋を行ったり来たりして利用度の高さを演出したといいます。

今から考えるとばかげた事と思われるでしょうが、当時としては
これからの町民の生活権を掛けた必死のアピールだったのです。

これらアピールの甲斐もあり、保津橋は保津川で一番に建築される事になりました。
増水時でも流れないコンクリート橋は昭和14年に完成しました。
長年、保津川を渡る事に苦労をした保津の人々は、新たに出来た橋を
感謝の気持ちから手を合わして渡ったそうです。

町民の悲願であった保津橋でしたが、平成に入り老朽化が進み
大型車の通行などに危険性が出ていたことから、架け替えが検討され
平成9年に工事着工し、4年の歳月を掛けて今の新保津橋が完成したのでした。

新保津橋は全長368mのPC構造・エクストラドーズド箱 橋で
デザインは保津川下りの棹をイメージした斜張橋になっており、
夜にはこの斜張が、五色に変色するイルミネーションを備える
最新鋭の橋なのです。
一つの電球が五色に変色するのは世界で始めていう亀岡市民自慢の橋でもあります。

時間がある方は、一度夜にも来てみてください。綺麗ですよ!









シリーズ保津川を下ろう!その3 牛松山

2004-09-19 22:31:25 | シリーズ・保津川を下ろう!
保津川下りの乗船場に着くと、向かい側に美しい山が向かえてくれます。
この山、標高629.8mあり、名前を‘牛松山’といいます。
昔から「秀麗にして、その姿、富士のごとし」と歌に詠まれるほどの
美しい姿は、さながら富士山を思い出させ‘丹波富士’と呼ばれています。

昔は山祭りの際、神に奉げる生け贄として牛をお供えしたことから牛祭ヶ嶽と
呼ばれていたのが訛って今の牛松山と呼ばれるようになったと伝えられています。

この牛松山の山上には金刀比羅神社が祀られており、
私達船頭のお守り様にもなっている関係深い山なのです。
神社は寛延年間(1748~50)に勧請されたといわれ、
海のない丹波地方では国家安全の守護神として参られていたのです。

神社の接待所の天井には保津川下りの小形舟が奉納されていて
代々保津川の船頭衆が川下りの安全を祈願しております。

丹波亀岡を見下ろす形でそびえる牛松山には、保津町や船頭衆だけでなく
奉納されている石鳥居や灯篭に他の町の人々の名前が刻まれていることからも
わかる様に、広い範囲にわたり信仰があったことがうかがえます。

牛松山の裏側には樹齢何百年の経っている巨大な杉の木があるとの噂もあり
歴史と神秘が潜む山、それが‘牛松山’なのです。

保津川下りは、出発点から歴史の醍醐味を味わえる所なのです。
このことは、保津川下りがいわゆるただの観光産業で始まったのではなく
古代から現代にかけ、土地の人々の生活とを結ぶ歴史の掛け橋であることの
間違いのない証拠だとはっちんは考えているのです。

写真は乗船場から見た牛松山です。
美しい山でしょう。

シリーズ・保津川を下ろう!その2 乗船場

2004-09-18 20:06:20 | シリーズ・保津川を下ろう!
はっちん達船頭の仕事場、保津川下りの乗船場は、
現在保津橋の上流・右岸側に建っています。

なになに「400年の歴史を有し、京都有数の観光地である保津川下りにしては
 あまりにもちゃちな乗船場だな~」ですって!

そうなのです!一様鉄筋コンクリート造りですが、平屋建てな上、
船頭の待合室はプレハブ造り、新しい橋が出来てからは、その橋の影に
隠れて駅からも見えなくなってしまう始末!
年間30万人の観光客が訪れる施設とは思えない様相かもしれませんね。

来れれたお客さんは気が付かれましたか?隣に立派な鉄筋4階建てのビルがあるのを!
あのビルこそ、大手鉄道会社が保津川下りの営業をする為に建てたビルで、
以前はそこが保津川下りの社屋であり乗船場だったのですよ。
さすが大手!昭和40年にこれだけのビルを建てるのですから。

このビルが建っている川岸は荷物船の時代から、‘保津の浜’と呼ばれ
荷物の積み下ろしがなされ、筏も係留されてていた所でした。
ビルが建ってからは川岸に階段型の護岸が造られ、
この階段からお客さんが下りて来て乗れる様に整備されていたそうです。
いまでもこの階段の跡が残っています。

しかし、会社側の撤退によりここでの営業は長くは続かず、
このビルはわずか5年で他の人手に渡ることになりました。

今の乗船場はその後作られたもので、乗船場も社屋も
船頭が資金を持ち寄り、手作りで立てられました。
なりは隣のビルに比べたら確かに見劣りがするものでしょうが、
その時代に生きた先輩船頭の熱情が伝わる、思い入れの強い建物なのです。
そして今でも、乗船場の木造板は2~3年ごとに船頭の手によって
張替えられており、先人の思いを受け継いでいるのです。

以前、取材来られた新聞記者の方が、
「ここは変に観光地化されてなくていい、伝統のある施設はこうでなくては!」
とおっしゃられていたことを聞いた事がありました。
この様な感性の方は案外多くおられるらしいです。
何処へいっても画一化された観光施設が多い中、頑なまでに
前時代的な手作りに拘った、今の乗船場を大事に守っていきたいと
思うはっちんなのでした。

写真は旧社屋だったビルです。
この川岸には戦国時代に亀岡の城主をしていた
明智光秀が植えた雌雄の‘サイカチ’の木が残っています。
サイカチは戦国時代に石鹸の役目を果たしていました。
保津川下りに来られたら是非見て帰ってくださいね。





シリーズ・保津川を下ろう!その1 400年の歴史

2004-09-17 23:56:10 | シリーズ・保津川を下ろう!
以前、京都のFNラジオに出演した時、DJの方が驚き聞き返された事、
それは「保津川下りって400年も続いているのですか?」というものでした。

京都生まれのそのDJの方でも、保津川がそれほど歴史のある川下りである
ことをご存知ではなく、ただの観光業として始まったものとばかり思っていたそうです。

そういえば、船下りに来られるお客さんも以外にこの事をご存知ない
様子で、皆さん一様に驚かれることが多い様に感じていました。

はっちん達船頭にとっては常識であることでも
案外、皆さんご存知でないことが多いんだな~と気付かされます。

そこで今回から保津川の名所とその云われなどを
紹介し、改めて保津川の魅力に触れていただこうと思って
シリーズ保津川を下ろう!」というコーナーを企画しました。

ご覧になっている方の中でも、何か知っていることが
あれば、どしどし投稿してくださいね。


では保津川下りの歴史を簡単に紹介したいと思います。

先ず保津川下りの本名は「保津川遊船企業組合」といいます。
企業組合とは、船頭一人一人が権利金を組合に出資して、
共同で経営するという、日本でも珍しい組織なのです。

保津川の水運としての歴史は古く、奈良時代にまでさかのぼります。
奈良・平城京から長岡京に都を遷都する時に、建築用の木材を
筏にして流したことが始まりといわれ、その後今の京都・平安京に
移す事業から盛んになったと伝えられています。

慶長11年(1606)に嵯峨の豪商・角倉了以によって、
今の遊船の前進である荷物船が、初めて保津川を流れました。
これは保津川水運の歴史の中での最も画期的な事業で、
明治時代に鉄道が開通するまで続けられたのです。

貨物列車にその仕事を奪われる形となった船事業でしたが、
その後観光船として姿を変え、生まれ変わり今日に至っています。

観光船として生まれ変った保津川下りでしたが、当時の時代背景も手伝って
その経営は一様に厳しかったらしく、村営から、運輸会社、鉄道会社へと
事業主体の買収が繰り返され、船頭達は苦難の変遷を辿らなければならなかったのです。

しかし大手資本に翻弄された苦い経験をした先輩船頭たちは
先祖代々受け継がれた操船技術だけを頼りに
船頭だけの自主運行に踏み切り、船仕事を自らの手に取り戻す勝負に出たのです。

自主運行には踏み切れたものの、当然、大手資本の妨害も予想され
厳しい船出となりましたが、先輩達の奉仕的な街頭宣伝・営業の
努力が実り、乗船者の増加を生み
新たに企業組合を立ち上げる事に成功したのでした。

これが今日まで保津川下りの歴史なのです。

次回からは保津川上流から順番に名所を案内し嵐山まで
下って行きたいと思っておりますので
乞うご期待!