語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】梅棹忠夫の、中国という「表面の繕い」の国、イタリアの「見せかけの文化」

2011年03月02日 | 批評・思想
梅棹 ・・・・信じられないような話やけど、中国で2年間生活していたとき、朝、研究所への通勤途中、道端でウンチしている人がいっぱいいた。ほんとうにすさまじい社会やった。道端に男がザーッと並んで、ウンチしているわけです。
小山 その前に見た牧畜民は非常に簡素で清潔で、さっぱりしたものと。
梅棹 北アジア、西アジアはそうね。その前に、張家口でイスラームを見ているのが伏線になっている。張家口に大きなイスラーム寺院があって、アホンというイスラームの聖職者がいた。何もないが、さっぱりしていた。
小山 アラビアのロレンスもそう言ってましたね。中国ともちがうんですか。
梅棹 ぜんぜんちがう。私は2年いたから、中国のことはよく知っている。それから後も、中国30州を全部歩いている。そこまでした人間は、中国人にもほとんどいないと言われたけれど、<わたしは全部自分の足で歩いている>【注】。向こうで生活してわかったんやけど、中国というところは日本とはぜんぜんちがう。「なんというウソの社会だ」ということや。いまでもその考えは変わらない。最近の経済事情でもそうでしょう。食品も見事にウソ。ウソと言うと聞こえが悪いけど、要するに「表面の繕い」です。まことしやかに話をこしらえるけれども、それは本当ではない。
小山 梅棹さんは「中国を信用したらアカン」と言ってましたね。
梅棹 いまでもそう思う。しかし、ある意味で人間の深い心の奥にさわっている。人間の心の奥に、おそろしい巨大な悪があるんやな。中国にはそれがある。
 それでも中国は道徳的世界やから、表面を繕ってきて、でっちあげたりする。コテコテ文化やな。ヒンドゥーはこの道徳的世界とはまったくちがいます。ヒンドゥーはむき出し。人間性の一番いやなところ、おそろしいところが目の前にある。
小山 臓物をひらいて見せられたような気がしたわけですか。
梅棹 そうやな。

 (中略)

小山 これぞヨーロッパの核だと思ったのはどの国ですか?
梅棹 これぞヨーロッパだと思うのはフランスかな、いやむしろイタリアかな。
 イタリアはおもしろいよ。わたしはイタリアが大好きや(笑)。言葉も、ヨーロッパ諸語のなかでは、イタリア語がいちばんうまくできるんやないかな。エスパニョーラもいけるんやけど、イタリアーノのほうがいい(笑)。イタリアもウソが多い国やけど、おもしろい国やな。
小山 中国に似ているんですか?
梅棹 ちょっと似ているけれど、だましとはちがう。あれは「見せかけの文化」やな。だからデザインが非常にいい。彼らの哲学として、「見せかけこそ本質である」。見せかけがよければモノもいいという思考がある。

   *

 以上、「第1章 君、それ自分で確かめたか?」から抜粋、引用した。

 【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。

【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
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