●電話
「NTTの回線の多くが生きていたのは称賛に値いする。やがて、私には全国から電話が殺到してきた。国際電話もあった。電話は多くの生き残った人に『自分は孤独ではないWe are not alone』という感じを与える効果があったと私は思う。公衆電話優先や回数の間引き(10回に1回通じる程度)は、それだけの骨を折る気のない、動機の弱い通話を淘汰する巧みな方法であったと思う。遅くかけてきた人は『回線がなかなか通じなくて』と断った」
●整理された部屋
「私は、整理された部屋が一つでもあることは心理的に重要であることを知った。次に私がしたことは、電話番であった。第三の仕事は、ルートマップの作成であった」
●自発的行動
「有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った」
「初期の修羅場を切り抜けおおせる大仕事は、当直医などたまたま病院にいあわせた者、徒歩で到着できた者の荷にかかってきた。有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。初期ばかりではない。このキャンペーンにおいて時々刻々、最優先事項は変わった。一つの問題を解決すれば、次の問題がみえてきた。『状況がすべてである』というドゴールの言葉どおりであった。彼らは旧陸軍の言葉でいう『独断専行』を行った。おそらく、『何ができるかを考えてそれをなせ』は災害時の一般原則である。このことによってその先が見えてくる。たとえ錯誤であっても取り返しのつく錯誤ならばよい。後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の萎縮を招く効果しかない。現実と相渉ることはすべて錯誤の連続である。治療がまさにそうではないか。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。『何が必要か』と電話あるいはファックスで尋ねてくる偉い方々には答えようがなかった。今必要とされているものは、その人が到達するまでに解決されているかもしれない。そもそも問題が見えてくれば半分解決されたようなものである」
●ボランティア
「ボランティアがいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。孤立していれば、漂流ボートの食料や孤立した小部隊の弾薬と同じく、自分のスタミナをどのように配分し「食い延ばし」たらいいかわからない。3人しかいなければ3人でできることが頭に浮ぶし、7人なら7人でできることがというふうに」
「内実のあることをなしえた人たちは本来の意味でのボランティアのみであった。『志願兵』というその元来の意味では私も含めて神戸の精神科医たちは所属を問わず志願兵すなわちボランティアであった。彼らは『志願兵』らしくふだんにはない即興能力(インプロヴィゼーション)を発揮する者が多かった」
●罪悪感
「いくつかの要因が重なって、震源地から4キロほどの私の家にほとんど何も起こらなかったのであった。/この被害のなさは後に『申し訳ない』という罪悪感を私の中に生むことになる」
「東部の高級住宅地をカバーしている総合病院・西宮渡辺病院精神科のS医師によれば、周囲が倒壊し、死者を出している中で一軒だけ無事であった家の人が『済まない』という気持ちから抑うつ反応になっているという、理解しうる例がある。この病院に入院していたために助かって、一家が死亡している例の反応はさらに深いものがあるという」
●PTSD
「多くの精神科医はPTSDについて語っている。しかし、われわれの関係者の私への報告によれば、避難所のようにむきだしに生存が問題である時にはこれは顕在化しない。おそらく仮設住宅に移住した後に起こるのであろう」
●支援者の精神的負担
「弱音を吐けない立場の人間は後で障害が出るという。私も気をつけなければなるまい」
「私は行き帰りの他は街も見ず、避難所も見ていない。酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする。私がそうならない自信はなかった。動かされやすい私を自覚していた」
「私はIさんの診療所に顔を出したが、先生は『ちょっとひとりになりにゆく』と外出されたところであった。彼は必死で自分の精神健康を守ろうとしていた。そのうちにわれわれ自身のスタッフの精神健康へのケースワークが必要になって、このせっかくの試みは中断した」
●校長の精神的負担
「突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである」
「突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちはある意味ではもっとも孤立無援である。避難民には突き上げられ、市にはいっさいの人員援助を断られ、そして授業再開への圧力がある。災害精神医学というものを曲りなりにも知っていた精神科医とちがって、校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである。そして、精神科医に対して偏見がある方も少なくなかった。精神科医にも校長先生や学校に対して偏見があるであろう。精神科医たちが一堂に会した時、いかにいじめられっ子出身者が多かったかに驚いたことがある。いじめられっ子は先生に絶望した体験を持っているものだ。私は今、精神科関係の挨拶回りがいちばんの仕事として要請されている。やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知acknowledgeされ評価appreciateされる必要があるのだ。しかし、校長先生には精神科教授など迷惑な存在の親玉にしかみられまい。私はマスコミ関係者ごとに、先生がたの話の聞き役になっていただきたいと頼んでいる。大学のC3I室で校長先生への不満が噴出したことがあった。私には、ある女性医師がなぜひとりうつむいているかがすぐにわかった。父君が校長先生なのである。作家の加賀氏に真先にしていただいたのが校長先生の訪問である。初日に5人の校長先生に会われた。避難所をもまわられた氏の万歩計は2月7日の一日で3万1000歩をこえた」
●花
「看護管理室に居合わせたナースたちは加賀さんに会いたいと5、6人が用を作って現れた。一人が色紙をさし出した。私は、これは『ミーハー』的行為ではないと思った。皆、加賀さんの花のことを知っていた(『花』が大事だという発想は皇后陛下と福井県の一精神科医とがそれぞれ独立にいだかれたものという。『花がいちばん喜ばれる』ということを私は土居先生からの電話で知った)」
「現在、もっとも喜ばれた一つに、福井県の精神科医がかついできた大量の水仙の花がある」
●電話機・コピー機・ファックス・ワープロ
「NTTの回線の多くが生きていたのは称賛に値いする。やがて、私には全国から電話が殺到してきた。国際電話もあった。電話は多くの生き残った人に『自分は孤独ではないWe are not alone』という感じを与える効果があったと私は思う」
「後のことになるが、今回の震災において、活躍したのは電話とともにコピー機とファックスとワードプロセッサーとであった。ファックスは電話よりもはるかによく通じた。ワープロは『ひとが読める』情報紙面を叩き出し、コピー機がそれを何十倍何百倍と複製して流布させた。これらなしにはわれわれの活動ははるかに非能率であったろう」
●コミュニティ
「米国と(おそらく関東大震災とも)違うのは災害に続く略奪・暴動・放火・レイプがなかったことである。『要するにコミュニティが崩壊しなかったことだね』と師の土居健郎氏はいわれた(私は師によく電話で報告し、師から支持や見解をいただいた。それは家族を別にすれば私を孤独感から大いに救った)」
●被災1ヵ月後1995年2月24日からみて・・・・
「『共同体感情』はほぼ終わった。ただし、反動的な無関心、アパシーではなく、ほぼ軟着陸しつつあるといってよいであろう」
「一般に周囲の夫婦仲は明らかによくなっている。10ヵ月後には人口の一時的増加が見られるのではないかというワルイ冗談がある。いっぽう、突然同居を強いられた親子、親戚、姻戚の間で葛藤が再燃するということはあるが、これはいっときのものであってほしい」
*
以上、「東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ――阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか」(文:中井久夫、データ提供:みすず書房)に拠る。サイトは次のとおり。
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「NTTの回線の多くが生きていたのは称賛に値いする。やがて、私には全国から電話が殺到してきた。国際電話もあった。電話は多くの生き残った人に『自分は孤独ではないWe are not alone』という感じを与える効果があったと私は思う。公衆電話優先や回数の間引き(10回に1回通じる程度)は、それだけの骨を折る気のない、動機の弱い通話を淘汰する巧みな方法であったと思う。遅くかけてきた人は『回線がなかなか通じなくて』と断った」
●整理された部屋
「私は、整理された部屋が一つでもあることは心理的に重要であることを知った。次に私がしたことは、電話番であった。第三の仕事は、ルートマップの作成であった」
●自発的行動
「有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った」
「初期の修羅場を切り抜けおおせる大仕事は、当直医などたまたま病院にいあわせた者、徒歩で到着できた者の荷にかかってきた。有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。初期ばかりではない。このキャンペーンにおいて時々刻々、最優先事項は変わった。一つの問題を解決すれば、次の問題がみえてきた。『状況がすべてである』というドゴールの言葉どおりであった。彼らは旧陸軍の言葉でいう『独断専行』を行った。おそらく、『何ができるかを考えてそれをなせ』は災害時の一般原則である。このことによってその先が見えてくる。たとえ錯誤であっても取り返しのつく錯誤ならばよい。後から咎められる恐れを抱かせるのは、士気の萎縮を招く効果しかない。現実と相渉ることはすべて錯誤の連続である。治療がまさにそうではないか。指示を待った者は何ごともなしえなかった。統制、調整、一元化を要求した者は現場の足をしばしば引っ張った。『何が必要か』と電話あるいはファックスで尋ねてくる偉い方々には答えようがなかった。今必要とされているものは、その人が到達するまでに解決されているかもしれない。そもそも問題が見えてくれば半分解決されたようなものである」
●ボランティア
「ボランティアがいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。孤立していれば、漂流ボートの食料や孤立した小部隊の弾薬と同じく、自分のスタミナをどのように配分し「食い延ばし」たらいいかわからない。3人しかいなければ3人でできることが頭に浮ぶし、7人なら7人でできることがというふうに」
「内実のあることをなしえた人たちは本来の意味でのボランティアのみであった。『志願兵』というその元来の意味では私も含めて神戸の精神科医たちは所属を問わず志願兵すなわちボランティアであった。彼らは『志願兵』らしくふだんにはない即興能力(インプロヴィゼーション)を発揮する者が多かった」
●罪悪感
「いくつかの要因が重なって、震源地から4キロほどの私の家にほとんど何も起こらなかったのであった。/この被害のなさは後に『申し訳ない』という罪悪感を私の中に生むことになる」
「東部の高級住宅地をカバーしている総合病院・西宮渡辺病院精神科のS医師によれば、周囲が倒壊し、死者を出している中で一軒だけ無事であった家の人が『済まない』という気持ちから抑うつ反応になっているという、理解しうる例がある。この病院に入院していたために助かって、一家が死亡している例の反応はさらに深いものがあるという」
●PTSD
「多くの精神科医はPTSDについて語っている。しかし、われわれの関係者の私への報告によれば、避難所のようにむきだしに生存が問題である時にはこれは顕在化しない。おそらく仮設住宅に移住した後に起こるのであろう」
●支援者の精神的負担
「弱音を吐けない立場の人間は後で障害が出るという。私も気をつけなければなるまい」
「私は行き帰りの他は街も見ず、避難所も見ていない。酸鼻な光景を見ることは、指揮に当たる者の判断を情緒的にする。私がそうならない自信はなかった。動かされやすい私を自覚していた」
「私はIさんの診療所に顔を出したが、先生は『ちょっとひとりになりにゆく』と外出されたところであった。彼は必死で自分の精神健康を守ろうとしていた。そのうちにわれわれ自身のスタッフの精神健康へのケースワークが必要になって、このせっかくの試みは中断した」
●校長の精神的負担
「突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである」
「突然、避難民をあずかる羽目になった校長先生と教員たちの精神衛生はわれわれの盲点であった。校長先生たちはある意味ではもっとも孤立無援である。避難民には突き上げられ、市にはいっさいの人員援助を断られ、そして授業再開への圧力がある。災害精神医学というものを曲りなりにも知っていた精神科医とちがって、校長先生たちは災害においてこのような役割を担おうとは夢にも思っておられなかったはずである。そして、精神科医に対して偏見がある方も少なくなかった。精神科医にも校長先生や学校に対して偏見があるであろう。精神科医たちが一堂に会した時、いかにいじめられっ子出身者が多かったかに驚いたことがある。いじめられっ子は先生に絶望した体験を持っているものだ。私は今、精神科関係の挨拶回りがいちばんの仕事として要請されている。やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知acknowledgeされ評価appreciateされる必要があるのだ。しかし、校長先生には精神科教授など迷惑な存在の親玉にしかみられまい。私はマスコミ関係者ごとに、先生がたの話の聞き役になっていただきたいと頼んでいる。大学のC3I室で校長先生への不満が噴出したことがあった。私には、ある女性医師がなぜひとりうつむいているかがすぐにわかった。父君が校長先生なのである。作家の加賀氏に真先にしていただいたのが校長先生の訪問である。初日に5人の校長先生に会われた。避難所をもまわられた氏の万歩計は2月7日の一日で3万1000歩をこえた」
●花
「看護管理室に居合わせたナースたちは加賀さんに会いたいと5、6人が用を作って現れた。一人が色紙をさし出した。私は、これは『ミーハー』的行為ではないと思った。皆、加賀さんの花のことを知っていた(『花』が大事だという発想は皇后陛下と福井県の一精神科医とがそれぞれ独立にいだかれたものという。『花がいちばん喜ばれる』ということを私は土居先生からの電話で知った)」
「現在、もっとも喜ばれた一つに、福井県の精神科医がかついできた大量の水仙の花がある」
●電話機・コピー機・ファックス・ワープロ
「NTTの回線の多くが生きていたのは称賛に値いする。やがて、私には全国から電話が殺到してきた。国際電話もあった。電話は多くの生き残った人に『自分は孤独ではないWe are not alone』という感じを与える効果があったと私は思う」
「後のことになるが、今回の震災において、活躍したのは電話とともにコピー機とファックスとワードプロセッサーとであった。ファックスは電話よりもはるかによく通じた。ワープロは『ひとが読める』情報紙面を叩き出し、コピー機がそれを何十倍何百倍と複製して流布させた。これらなしにはわれわれの活動ははるかに非能率であったろう」
●コミュニティ
「米国と(おそらく関東大震災とも)違うのは災害に続く略奪・暴動・放火・レイプがなかったことである。『要するにコミュニティが崩壊しなかったことだね』と師の土居健郎氏はいわれた(私は師によく電話で報告し、師から支持や見解をいただいた。それは家族を別にすれば私を孤独感から大いに救った)」
●被災1ヵ月後1995年2月24日からみて・・・・
「『共同体感情』はほぼ終わった。ただし、反動的な無関心、アパシーではなく、ほぼ軟着陸しつつあるといってよいであろう」
「一般に周囲の夫婦仲は明らかによくなっている。10ヵ月後には人口の一時的増加が見られるのではないかというワルイ冗談がある。いっぽう、突然同居を強いられた親子、親戚、姻戚の間で葛藤が再燃するということはあるが、これはいっときのものであってほしい」
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以上、「東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ――阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか」(文:中井久夫、データ提供:みすず書房)に拠る。サイトは次のとおり。
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