(1)水産業
太平洋沿岸6県の漁港も被害を受けた。宮城県では、被害漁船は13,000隻にのぼる。青森、岩手両県は、把握すらできていない。岩手、宮城、福島3県の漁港の生産被害額だけでも年1,000億円に達する見こみだ。
三陸沖は、世界でも有数の漁場だ。その豊かな海から食卓へのルートが断たれた。日本の食がピンチに見舞われている。
気仙沼のフカヒレ、石巻の金華サバ・・・・東北のブランド魚が食卓から姿を消すかも。
水産会社は、復興するまでサンマやワカメなどの水産物が不足すると見て、早くも海外調達へ動きだした。
(2)畜産業
畜産業も大打撃を受けた。飼料用穀物の陸揚げ、保管の施設が破壊されたからだ。のみならず、道路が寸断されたことで、流通が滞っている。
牛乳を配送できず、搾った牛乳を畑にまいている(3月18日現在)。それでも乳牛には餌を与え続けなければならないのだが、メーカーから飼料が届かず、通常の3分の1しか与えられない。
苦境に追い打ちをかけるのが、福島第一原発事故だ。米国産トウモロコシが届かない。外国人船長が放射能汚染を恐れて運行を拒否するからだ。飼料メーカーは、地震による物理的被害に加えて、原料が搬入できないため、生産中止に追いこまれた。
東北は、ブタの飼育頭数が全国の20%近くを占める。十分な飼料が届かないと、致命傷になる。
肉用若鶏の生産が全国第3位の岩手県でも、餌不足でニワトリを処分し始めている農家もある。
(3)今後
これまで漁港は、一種の既得権益である漁協を中心に、赤字が続いても地域共同体として産業が成立していた。震災を機に、東北の漁港は集約化、経営近代化が図られる可能性が高い。食卓に安定的に食料が提供されるなら、消費者にとってもメリットは大きい。
ただし、福島第一原発周辺の県の農作物のいくつかから基準値を上まわる放射性物質が検出されている。微量ゆえ過剰反応するべきではないが、食の安全を守れるかどうか。
以上、記事「津波で漁業と畜産業が大打撃 日本の『食』をどう守るか」(「週刊ダイヤモンド」2011年4月2日号)に拠る。
*
震災は、練り製品や缶詰など身近な魚の加工品にもダメージを与えた。練り製品の生産量が減少するため、需要が増える秋以降は多くの製品が値上がりすると見る向きが多い。
開きや缶詰など、手頃な価格で売られているサンマの加工品にも供給不安が広がっている。岩手、宮城両県沿岸で保管していた原料の冷凍魚が被害を受け、少なくとも国内在庫の3割以上が失われた、という観測もある。
東京・築地市場(中央区)では、三陸地区と並んで保管量が多い千葉県銚子から入荷する業務用冷凍サンマの卸値が、3月中旬に最大で2割近く値上がりした。今後、製品価格の上昇は必至だ。
大手水産会社では、もはや国産のサンマでは安売り前提の缶詰は作れないと見て、台湾、韓国、ロシアなどに原料確保の手を広げる動きも出ている。
以上、記事「かまぼこ、ちくわ値上げへ=サンマ加工品も―三陸被災で」(2011年3月26日付け「時事通信」)に拠る。
*
「南部どり」は、「アマタケ」(大船渡市)のオリジナルブランド。岩手県内約20ヵ所の直営農場で、年間800万羽を生産し、精肉や加工品にしている。
このたび、同社は工場の従業員が4人死亡、7人が行方不明となった。大船渡港近くの本社工場も浸水した。鶏舎に被害はなかったが、餌の仕入れ先が被災し、餌が欠乏してきた。種鶏の2万羽分は確保しているものの、出荷予定の100万羽には足らず、次々に餓死している。すでに50万羽は敷地内に埋めた。
以上、記事「南部どり100羽飼料不足処分へ」(2011年3月28日付け「朝日新聞」)に拠る。
*
畠山重篤氏(67)は、牡蠣を養殖する漁師、NPO法人「森は海の恋人」代表。1989年から、気仙沼湾に流入する大川の上流に落葉樹を約20年間で5万本植え続けてきた。
このたび、自宅も同居する家族10人も無事だったが、気仙沼中心部の老人ホームで暮らす母堂【注1】は津波にのまれて亡くなった。
70台の養殖用いかだや5隻の船、いけす、作業場、作業機械など、すべてを失った。被害額2億円の見こみ。
氏は、今はまだ何も考えられないけれども、たとえどんなことがあっても「漁師は海から離れては生きられない」という【注2】。
以上、記事「母犠牲『これも・・・・海』」(2011年3月28日付け「朝日新聞」)に拠る。
【注1】「サンデー毎日」2011年4月3日号によれば、93歳。
【注2】前掲誌によれば、畠山氏は次のように語る。「何としても秋ごろには養殖再開に着手したい」「無謹慎かもしれないが希望的観測がないと、みなが落ち込んでしまう。悲しみを乗り越えなくては」「津波によって人と、人が作ったものは破壊されてしまった。でも森や海が破壊されたわけではない。むしろ津波によって海底から洗われた海はきれいになり、生物を育む力は上昇している。カキは倍の早さで成長する。だから、人間が元気で頑張ればいい」
*
女川は「サンマの町」だ。カキ、ホタテ、銀ザケなどの養殖や沿岸漁業も少なくないが、町の名を高めたのはサンマだ。その立役者が山本春雄(73)、「ヤマホン」社長である。彼がサンマを手がけるようになったのは、1968年。それまで主流だったカツオ加工が低迷し始めた時期で、町で最初の起業だった。氷塊ではなく、ザラメ状にした氷粒で包みこんで出荷する方法も独自に交換した。女川のサンマは高いが、鮮度がいい、とトップブランドの評判をとるまで10年近くかかった。サンマ船の「船頭」も、上等なサンマが獲れると高値で売れる女川に入港するようになった。
しかし、3月11日、彼が半生をかけて築きあげた加工工場は壊滅し、7つの冷蔵倉庫もすべて押し流された。市場も全滅。気仙沼港に渓流したあった大型サンマ船も漁網も、全部津波に持っていかれた。女川人口10,051人のうち、犠牲者は1,000~2,000人と推定されている。
女川町のある牡鹿半島一帯は、と5メートル以上東南東にせり出し、地盤は1.2メートル以上沈みこんだ。女川湾の波止場は満潮になると、一帯が海面下になる。港に面して立っていた加工場や倉庫の跡地も水没する。
「これじゃ、同じ場所に再建するなんて、ちょっと難しいな」
津波から9日後、初めて自分の工場を見にきた山本春雄は、抑揚のない口調で言った。
それまでの間、彼は従業員一人ひとりの消息を尋ね歩いていた。その彼が口外しないことがあった。仕事を引継ぎつつある息子の妻と子(8)の消息が不明なのだ。惨事のとき、石巻へ買物に出かけたまま、音信が途絶えたままだった。
「避難所に行って、そんなこと、言えないですよ。従業員の命より家族の心配をしているなんて見られたら、経営者として失格です」
山本春雄は、自宅も失い、妻と息子家族とともに甥の家に身を寄せた。眠れず、休めず、夜はローソクのもとで、ソファーに横たわったまま日本酒を舐めるように飲んだ。
だが、母子は8日ぶりに夫や山本と再会できた。その翌日から、山本の目つきが変わった。
もう一度、この女川でサンマをやりたい、やる、絶対にやります。日本人はサンマを食べて季節の推移を実感する。そういうものがなくなったら、日本人は日本人でなくなってしまう・・・・。
そして、吉岡忍は書く。「大津波に消えた町に希望はあるか?/ある、と私も答えたい」
以上、吉岡忍「大津波に潰された地に希望はあるか ~「サンマの町」宮城・女川から~」(「週刊朝日」2011年4月1日号)に拠る。
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太平洋沿岸6県の漁港も被害を受けた。宮城県では、被害漁船は13,000隻にのぼる。青森、岩手両県は、把握すらできていない。岩手、宮城、福島3県の漁港の生産被害額だけでも年1,000億円に達する見こみだ。
三陸沖は、世界でも有数の漁場だ。その豊かな海から食卓へのルートが断たれた。日本の食がピンチに見舞われている。
気仙沼のフカヒレ、石巻の金華サバ・・・・東北のブランド魚が食卓から姿を消すかも。
水産会社は、復興するまでサンマやワカメなどの水産物が不足すると見て、早くも海外調達へ動きだした。
(2)畜産業
畜産業も大打撃を受けた。飼料用穀物の陸揚げ、保管の施設が破壊されたからだ。のみならず、道路が寸断されたことで、流通が滞っている。
牛乳を配送できず、搾った牛乳を畑にまいている(3月18日現在)。それでも乳牛には餌を与え続けなければならないのだが、メーカーから飼料が届かず、通常の3分の1しか与えられない。
苦境に追い打ちをかけるのが、福島第一原発事故だ。米国産トウモロコシが届かない。外国人船長が放射能汚染を恐れて運行を拒否するからだ。飼料メーカーは、地震による物理的被害に加えて、原料が搬入できないため、生産中止に追いこまれた。
東北は、ブタの飼育頭数が全国の20%近くを占める。十分な飼料が届かないと、致命傷になる。
肉用若鶏の生産が全国第3位の岩手県でも、餌不足でニワトリを処分し始めている農家もある。
(3)今後
これまで漁港は、一種の既得権益である漁協を中心に、赤字が続いても地域共同体として産業が成立していた。震災を機に、東北の漁港は集約化、経営近代化が図られる可能性が高い。食卓に安定的に食料が提供されるなら、消費者にとってもメリットは大きい。
ただし、福島第一原発周辺の県の農作物のいくつかから基準値を上まわる放射性物質が検出されている。微量ゆえ過剰反応するべきではないが、食の安全を守れるかどうか。
以上、記事「津波で漁業と畜産業が大打撃 日本の『食』をどう守るか」(「週刊ダイヤモンド」2011年4月2日号)に拠る。
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震災は、練り製品や缶詰など身近な魚の加工品にもダメージを与えた。練り製品の生産量が減少するため、需要が増える秋以降は多くの製品が値上がりすると見る向きが多い。
開きや缶詰など、手頃な価格で売られているサンマの加工品にも供給不安が広がっている。岩手、宮城両県沿岸で保管していた原料の冷凍魚が被害を受け、少なくとも国内在庫の3割以上が失われた、という観測もある。
東京・築地市場(中央区)では、三陸地区と並んで保管量が多い千葉県銚子から入荷する業務用冷凍サンマの卸値が、3月中旬に最大で2割近く値上がりした。今後、製品価格の上昇は必至だ。
大手水産会社では、もはや国産のサンマでは安売り前提の缶詰は作れないと見て、台湾、韓国、ロシアなどに原料確保の手を広げる動きも出ている。
以上、記事「かまぼこ、ちくわ値上げへ=サンマ加工品も―三陸被災で」(2011年3月26日付け「時事通信」)に拠る。
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「南部どり」は、「アマタケ」(大船渡市)のオリジナルブランド。岩手県内約20ヵ所の直営農場で、年間800万羽を生産し、精肉や加工品にしている。
このたび、同社は工場の従業員が4人死亡、7人が行方不明となった。大船渡港近くの本社工場も浸水した。鶏舎に被害はなかったが、餌の仕入れ先が被災し、餌が欠乏してきた。種鶏の2万羽分は確保しているものの、出荷予定の100万羽には足らず、次々に餓死している。すでに50万羽は敷地内に埋めた。
以上、記事「南部どり100羽飼料不足処分へ」(2011年3月28日付け「朝日新聞」)に拠る。
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畠山重篤氏(67)は、牡蠣を養殖する漁師、NPO法人「森は海の恋人」代表。1989年から、気仙沼湾に流入する大川の上流に落葉樹を約20年間で5万本植え続けてきた。
このたび、自宅も同居する家族10人も無事だったが、気仙沼中心部の老人ホームで暮らす母堂【注1】は津波にのまれて亡くなった。
70台の養殖用いかだや5隻の船、いけす、作業場、作業機械など、すべてを失った。被害額2億円の見こみ。
氏は、今はまだ何も考えられないけれども、たとえどんなことがあっても「漁師は海から離れては生きられない」という【注2】。
以上、記事「母犠牲『これも・・・・海』」(2011年3月28日付け「朝日新聞」)に拠る。
【注1】「サンデー毎日」2011年4月3日号によれば、93歳。
【注2】前掲誌によれば、畠山氏は次のように語る。「何としても秋ごろには養殖再開に着手したい」「無謹慎かもしれないが希望的観測がないと、みなが落ち込んでしまう。悲しみを乗り越えなくては」「津波によって人と、人が作ったものは破壊されてしまった。でも森や海が破壊されたわけではない。むしろ津波によって海底から洗われた海はきれいになり、生物を育む力は上昇している。カキは倍の早さで成長する。だから、人間が元気で頑張ればいい」
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女川は「サンマの町」だ。カキ、ホタテ、銀ザケなどの養殖や沿岸漁業も少なくないが、町の名を高めたのはサンマだ。その立役者が山本春雄(73)、「ヤマホン」社長である。彼がサンマを手がけるようになったのは、1968年。それまで主流だったカツオ加工が低迷し始めた時期で、町で最初の起業だった。氷塊ではなく、ザラメ状にした氷粒で包みこんで出荷する方法も独自に交換した。女川のサンマは高いが、鮮度がいい、とトップブランドの評判をとるまで10年近くかかった。サンマ船の「船頭」も、上等なサンマが獲れると高値で売れる女川に入港するようになった。
しかし、3月11日、彼が半生をかけて築きあげた加工工場は壊滅し、7つの冷蔵倉庫もすべて押し流された。市場も全滅。気仙沼港に渓流したあった大型サンマ船も漁網も、全部津波に持っていかれた。女川人口10,051人のうち、犠牲者は1,000~2,000人と推定されている。
女川町のある牡鹿半島一帯は、と5メートル以上東南東にせり出し、地盤は1.2メートル以上沈みこんだ。女川湾の波止場は満潮になると、一帯が海面下になる。港に面して立っていた加工場や倉庫の跡地も水没する。
「これじゃ、同じ場所に再建するなんて、ちょっと難しいな」
津波から9日後、初めて自分の工場を見にきた山本春雄は、抑揚のない口調で言った。
それまでの間、彼は従業員一人ひとりの消息を尋ね歩いていた。その彼が口外しないことがあった。仕事を引継ぎつつある息子の妻と子(8)の消息が不明なのだ。惨事のとき、石巻へ買物に出かけたまま、音信が途絶えたままだった。
「避難所に行って、そんなこと、言えないですよ。従業員の命より家族の心配をしているなんて見られたら、経営者として失格です」
山本春雄は、自宅も失い、妻と息子家族とともに甥の家に身を寄せた。眠れず、休めず、夜はローソクのもとで、ソファーに横たわったまま日本酒を舐めるように飲んだ。
だが、母子は8日ぶりに夫や山本と再会できた。その翌日から、山本の目つきが変わった。
もう一度、この女川でサンマをやりたい、やる、絶対にやります。日本人はサンマを食べて季節の推移を実感する。そういうものがなくなったら、日本人は日本人でなくなってしまう・・・・。
そして、吉岡忍は書く。「大津波に消えた町に希望はあるか?/ある、と私も答えたい」
以上、吉岡忍「大津波に潰された地に希望はあるか ~「サンマの町」宮城・女川から~」(「週刊朝日」2011年4月1日号)に拠る。
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