小山修三は、梅棹忠夫の談話を引用している。
「京大大学院の学生で25、6歳のころの話だ。そのころ、私はいろいろな問題で諸先輩とさかんに議論をかわしていたが、ある日、桑原武夫先生に『包囲殲滅戦をしたらいかんよ』と諭された。お説教には理由があった。私は、こと学問に関しては、正しいと思ったことは相手かまわず断固主張した。相手の誤りや矛盾をとことん追求して、その主張を理論で包囲して逃げ道をふさぎ、徹底的にやっつけることもあった」
「そんな世間知らずの若者を桑原先生は諄々といさめてくださったのである。『論争は大いにけっこう。でも、自分が優勢なときほど相手に退路をつくっておいてやったほうがええなあ。そうしないと恨みが残り、闇討ちにあうかもしれん』とおそろしいことをおっしゃる・・・・」
「ある先生が出版された野心作を読んでみると、多くの誤りや引用文献の誤読があたので、全教室員の集まった研究会の場で、原典を積み上げながら全面的な批判を展開した。そこには当の先生もいて、無言のまま顔面蒼白になられた」
「別の大先生の講演を聞いて、箇条書きにした疑問点をもとに次々質問を浴びせた。大先生は次第にしどろもどろになり、最後は居丈高になって梅棹さんを威圧しようとした」
梅棹 それまでは学問上のことはいくらやっつけていいと思っていた。桑原さんはわたしに、学者として生きていくうえでの知恵というか、「学問もしょせんは人の世のことである」ということを気づかせてくれたんやな。それからは、激しい論争はしても、過度に戦闘的になることはなくなった。
小山 やっつけられたことは、ないんですか?
梅棹 やられたことはない。<いつでも挑戦は受けるよ。>
(中略)
梅棹 ・・・・それで、桑原さんの「包囲殲滅戦をやっちゃいかん」ていう言葉がよみがえってくる。桑原さんという人は、そういう点でわたしに、やっぱり<「知識人としてのマナー」>【注】というか<「常識の道」>「【注】をよく教えてくれた人でしたね。
【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。
*
以上、「第8章 できない人間ほど権威をかざす」から抜粋、引用した。
なお、梅棹忠夫は、司馬遼太郎とともに、『桑原武夫傳習録』を御大喜寿の年(1981年)にまとめている。桑原武夫の友人や弟子による桑原武夫像の総集編だ。その序文を「知的巨人の人間像」と題して、こう書く。
「桑原先生は、人もしる人物論の大家である。だれかれに対する桑原先生の人物観察は、巨視的でありながら、するどく繊細で、そしてあたたたかい。わたしなども、人間の見方について、どれほどたくさんのものをおしえられたか、はかりしれない」
また、桑原武夫7回忌の集まりの記録をおさめた『桑原武夫 -その文学と未來構想-』では、梅原猛との対談「未来構想」において梅棹は、桑原武夫の人となりを概要つぎのように語っている。
桑原は、非常にバランス感覚のとれた優れた人だった。じつに目配りがいい。決して偏頗な判断をしない。じつに現実をみて、バランスよく考えていく。現実感覚のすぐれた人だった。
非常に鋭い観察眼と判断をもっていて、人物鑑定眼は第一級だった。
桑原から非常に大きな影響を受けたことが幾つかある。その一つは文章のことだ。じつに親切に文章の欠陥を指摘する。それで梅棹はずいぶん鍛えられた。とくに平明にして論理的な文章を書く、という指導を徹底的に受けている。桑原は、すくなくとも理論的にはローマ字主義者で、ローマ字で書くと非常に文章がよくなる。梅棹も、1946年からローマ字をずっとやっている。国立民族博物館を退官し、兼職規定にしばられなくなった年の5月から、梅棹は日本ローマ字会の会長になった。
フィールドワークでは今西錦司に鍛えられた。研究室におけるリーダーシップは、やはり桑原武夫が抜群だった。共同研究を指導する桑原の指導力、リーダーシップは大変なものだった。共同研究は専門を同じゅうする人たちが集まってやるものだと一般にいわれているが、桑原のやり方はまったく反対だった。専門が違う人が一緒にやることが大切なんだ、と。専門が違い、テーマは同じではいけない。『フランス百科全書の研究』のときに集められた人数は2、30人。それぞれ全部専門が違う。それを全部一つにまとめていく。その指導力というものは抜群だった。
桑原武夫の組織運営力に影響を受けている。桑原ば、部門制、講座制を無視してかかった。予算は人文科学研究所の教授たちには配分せず、全部プールした。国立民族博物館においても同じやり方を採用した。博物館ではもっとラジカルにやった。全部梅棹が予算をにぎった。これは実に有効だ。足りない資金をいかに巧妙に運営するかといえば、分けたらダメだ。巨大集団の組織術については、桑原から非常に多くのものを学んだ。
国立民族博物館は、日本民族学会から出てきた話だった。問題が煮詰まってきた段階で文部省も動きだした。その段階で調査会議を組織した。調査会議では終始桑原が議長をしていた。なかなかまとまらないのだが、それを桑原がまとめる手腕はまことに見事なものだった。桑原は、民族学者でも人類学者でもなく、まるで関係がないわけだが、意のあるところをきっちり知っていて、難しい先生方を非常に上手にあしらい、立派な結論のところへ追いこんでいった。博物館設立後には評議員会の会長をしてもらったが、外部の大先生方の評議員を上手に操縦し、意味のある結論にもっていった。
【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
梅棹忠夫/司馬遼太郎・編『桑原武夫傳習録』(潮出版社、1981)
杉本秀太郎・編『桑原武夫 -その文学と未來構想-』(淡交社、1996)
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「京大大学院の学生で25、6歳のころの話だ。そのころ、私はいろいろな問題で諸先輩とさかんに議論をかわしていたが、ある日、桑原武夫先生に『包囲殲滅戦をしたらいかんよ』と諭された。お説教には理由があった。私は、こと学問に関しては、正しいと思ったことは相手かまわず断固主張した。相手の誤りや矛盾をとことん追求して、その主張を理論で包囲して逃げ道をふさぎ、徹底的にやっつけることもあった」
「そんな世間知らずの若者を桑原先生は諄々といさめてくださったのである。『論争は大いにけっこう。でも、自分が優勢なときほど相手に退路をつくっておいてやったほうがええなあ。そうしないと恨みが残り、闇討ちにあうかもしれん』とおそろしいことをおっしゃる・・・・」
「ある先生が出版された野心作を読んでみると、多くの誤りや引用文献の誤読があたので、全教室員の集まった研究会の場で、原典を積み上げながら全面的な批判を展開した。そこには当の先生もいて、無言のまま顔面蒼白になられた」
「別の大先生の講演を聞いて、箇条書きにした疑問点をもとに次々質問を浴びせた。大先生は次第にしどろもどろになり、最後は居丈高になって梅棹さんを威圧しようとした」
梅棹 それまでは学問上のことはいくらやっつけていいと思っていた。桑原さんはわたしに、学者として生きていくうえでの知恵というか、「学問もしょせんは人の世のことである」ということを気づかせてくれたんやな。それからは、激しい論争はしても、過度に戦闘的になることはなくなった。
小山 やっつけられたことは、ないんですか?
梅棹 やられたことはない。<いつでも挑戦は受けるよ。>
(中略)
梅棹 ・・・・それで、桑原さんの「包囲殲滅戦をやっちゃいかん」ていう言葉がよみがえってくる。桑原さんという人は、そういう点でわたしに、やっぱり<「知識人としてのマナー」>【注】というか<「常識の道」>「【注】をよく教えてくれた人でしたね。
【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。
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以上、「第8章 できない人間ほど権威をかざす」から抜粋、引用した。
なお、梅棹忠夫は、司馬遼太郎とともに、『桑原武夫傳習録』を御大喜寿の年(1981年)にまとめている。桑原武夫の友人や弟子による桑原武夫像の総集編だ。その序文を「知的巨人の人間像」と題して、こう書く。
「桑原先生は、人もしる人物論の大家である。だれかれに対する桑原先生の人物観察は、巨視的でありながら、するどく繊細で、そしてあたたたかい。わたしなども、人間の見方について、どれほどたくさんのものをおしえられたか、はかりしれない」
また、桑原武夫7回忌の集まりの記録をおさめた『桑原武夫 -その文学と未來構想-』では、梅原猛との対談「未来構想」において梅棹は、桑原武夫の人となりを概要つぎのように語っている。
桑原は、非常にバランス感覚のとれた優れた人だった。じつに目配りがいい。決して偏頗な判断をしない。じつに現実をみて、バランスよく考えていく。現実感覚のすぐれた人だった。
非常に鋭い観察眼と判断をもっていて、人物鑑定眼は第一級だった。
桑原から非常に大きな影響を受けたことが幾つかある。その一つは文章のことだ。じつに親切に文章の欠陥を指摘する。それで梅棹はずいぶん鍛えられた。とくに平明にして論理的な文章を書く、という指導を徹底的に受けている。桑原は、すくなくとも理論的にはローマ字主義者で、ローマ字で書くと非常に文章がよくなる。梅棹も、1946年からローマ字をずっとやっている。国立民族博物館を退官し、兼職規定にしばられなくなった年の5月から、梅棹は日本ローマ字会の会長になった。
フィールドワークでは今西錦司に鍛えられた。研究室におけるリーダーシップは、やはり桑原武夫が抜群だった。共同研究を指導する桑原の指導力、リーダーシップは大変なものだった。共同研究は専門を同じゅうする人たちが集まってやるものだと一般にいわれているが、桑原のやり方はまったく反対だった。専門が違う人が一緒にやることが大切なんだ、と。専門が違い、テーマは同じではいけない。『フランス百科全書の研究』のときに集められた人数は2、30人。それぞれ全部専門が違う。それを全部一つにまとめていく。その指導力というものは抜群だった。
桑原武夫の組織運営力に影響を受けている。桑原ば、部門制、講座制を無視してかかった。予算は人文科学研究所の教授たちには配分せず、全部プールした。国立民族博物館においても同じやり方を採用した。博物館ではもっとラジカルにやった。全部梅棹が予算をにぎった。これは実に有効だ。足りない資金をいかに巧妙に運営するかといえば、分けたらダメだ。巨大集団の組織術については、桑原から非常に多くのものを学んだ。
国立民族博物館は、日本民族学会から出てきた話だった。問題が煮詰まってきた段階で文部省も動きだした。その段階で調査会議を組織した。調査会議では終始桑原が議長をしていた。なかなかまとまらないのだが、それを桑原がまとめる手腕はまことに見事なものだった。桑原は、民族学者でも人類学者でもなく、まるで関係がないわけだが、意のあるところをきっちり知っていて、難しい先生方を非常に上手にあしらい、立派な結論のところへ追いこんでいった。博物館設立後には評議員会の会長をしてもらったが、外部の大先生方の評議員を上手に操縦し、意味のある結論にもっていった。
【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
梅棹忠夫/司馬遼太郎・編『桑原武夫傳習録』(潮出版社、1981)
杉本秀太郎・編『桑原武夫 -その文学と未來構想-』(淡交社、1996)
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