中井久夫は、阪神・淡路震災直後に『1995年1月・神戸「阪神大震災」下の精神科医たち』 (みすず書房、1995)を編んだ。また、「こころのケアの推進」と題して、震災時のメンタルヘルスケア活動を検証している。
ここでは、被災者の心理と行動に係るエッセイから引く。たとえば、被災した年の3月25日に次のように書く。
「電話、手紙、小包、義援金、援助物資、ヴォランティアの殺到は、われわれは孤独ではない、日本中、あるいは世界が心配してくれているという感じを与えた。全国的に『自粛』が行われたのは、日本人が連帯感を持っている大きな証拠だった。国際的にもだ。あのサラエボからも援助物資がきたという。モンゴルからも毛布が、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からもお金が。中国からは多種の物資がきた。スイスの救助隊はほんとうに真剣だった。フランスも」
「犯罪が少なかったのには、警察、消防、自衛隊がいっぱいいたせいもあるだろうし、交通事情が東部からの犯罪集団を遮断したということがあるかもしれない。しかし、神戸市民の自助努力は相当なものだったし、世界からいろいろな人間が集まって作った街だという感覚も生きていた」
「初期から電話が通じた。電気の復興が早かった。鉄道も意外に早い。避難所になった学校の教員方は慣れない仕事によく頑張っておられた。とにかく、整理と再建の息吹が早くから感じられた。これは力になった。非常時の緊張は40日から50日で気が抜けるから、それまでにやれることはやってしまうことがコツなのだ」
以上は、「阪神大震災に思う」から抜粋したが、中井は後日付記して次のようにいう。
「震災後ほどなく会った都庁の人は『都の備えは万全です』と語った。ほんとうだろうか。都市は1日のうちでも1時間ごとに姿を変える。24時間にわたるシミュレーションが必要だろう。神戸市民に聞き取りすることも欠かせないことのような気がする。公的機関の報告書から洩れている大事なことがいっぱいあるからだ。それでも必ず『予想外』があるのが災害だ」
そして事実、このたび「想定外」が起こった。
*
あるいは、「震災後150日」と題し、同年6月24日付けで次のように書く。
「会う人の多くは疲労をにじませている。震災以来働きつづけてきた人たちである。警察や消防や教員、一般行政の人もある。被災企業の人たちの再建の努力。渋滞の中で何度も夜を明かした運輸の人。求めに応じて無理を重ねた物資供給に携わる人。報道の人もそうだ」
「たしかに略奪、放火、暴行、強盗が横行しなかったために精神的後遺症がこれまでの海外の報告より軽く済む希望がある。天災だけならば純粋な恐怖と悲嘆とであるが、人災が重なると怒り、憤り、怨み、萎縮、人間一般への不信、絶望が加わる。人災のほうが長く深く尾を引くのだ。余震への恐怖とか悪夢とか、5時46分より少し前に目覚めるとかはたしかにあるが、私の診療から見るかぎりは徐々に収まってきている。むしろ、1ヵ月間は睡眠が短くて、1ヵ月後からはいくら眠っても眠り足りないという人が目立つ。これは身体の中の自然がそうさせているのだろう。従うのがよいというほかない」
そして、後日付記する。
「震災の翌年、ロサンゼルスに視察と研修に何人かで行った。アメリカでは天災の後、必ず暴動が起こることを計算に入れている。2日間は暴徒のなすがままに任せて、3日目、彼らが疲れてくるのを待って制圧にかかるのだそうである。2001年9月11日事件でも、瓦解した世界貿易センターの周囲では略奪があったとはアメリカ人の直話である」
だが、歴史を振り返れば日本でも似たようなことがあったのだ。
「もっとも、江戸時代から第二次世界大戦までの日本では、震災は『富める者が貧しくなり、貧しい者が富む』絶好のチャンスだった。小判を降らす『鯰大明神』が崇拝された。いち早く木材を買い占める投機もあったが、主に略奪である。関東大震災では、略奪者に備えて組織された自警団が残虐事件の一方の主役となった」
*
中井久夫は、2011年3月15日付け朝日新聞で新聞社からの問いに回答している。上記エッセイに書かれていることと重なる事項もある。
たとえば、「『誰かがいてくれる』というだけでも意味がある」「阪神大震災の時は、各自治体の救援の車が見えただけでも心の支えになった」。
あるいは、「40~50日でやるべきことはやっておかないと、その後は頭が動かなくなる。第一次世界大戦の時、兵士が戦場に40~50日いると、限界がきて武器を投げ出したくなったという話がある。私も40日過ぎに、丸1日眠り続けた」。
エッセイに書かれていないこともある。
「温かいご飯と、ゆっくり休める場所。災害直後はPTSD(心的外傷後ストレス障害)の予防にそれが一番重要になる」
「食事も大切だった。乾パンと水で持つのは2日、カップ麺で持つのは5日。1週間過ぎたらうまい食事をとらないと、精神的にも苦しくなる」
【参考】中井久夫『清陰星雨』(みすず書房、2002)
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ここでは、被災者の心理と行動に係るエッセイから引く。たとえば、被災した年の3月25日に次のように書く。
「電話、手紙、小包、義援金、援助物資、ヴォランティアの殺到は、われわれは孤独ではない、日本中、あるいは世界が心配してくれているという感じを与えた。全国的に『自粛』が行われたのは、日本人が連帯感を持っている大きな証拠だった。国際的にもだ。あのサラエボからも援助物資がきたという。モンゴルからも毛布が、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からもお金が。中国からは多種の物資がきた。スイスの救助隊はほんとうに真剣だった。フランスも」
「犯罪が少なかったのには、警察、消防、自衛隊がいっぱいいたせいもあるだろうし、交通事情が東部からの犯罪集団を遮断したということがあるかもしれない。しかし、神戸市民の自助努力は相当なものだったし、世界からいろいろな人間が集まって作った街だという感覚も生きていた」
「初期から電話が通じた。電気の復興が早かった。鉄道も意外に早い。避難所になった学校の教員方は慣れない仕事によく頑張っておられた。とにかく、整理と再建の息吹が早くから感じられた。これは力になった。非常時の緊張は40日から50日で気が抜けるから、それまでにやれることはやってしまうことがコツなのだ」
以上は、「阪神大震災に思う」から抜粋したが、中井は後日付記して次のようにいう。
「震災後ほどなく会った都庁の人は『都の備えは万全です』と語った。ほんとうだろうか。都市は1日のうちでも1時間ごとに姿を変える。24時間にわたるシミュレーションが必要だろう。神戸市民に聞き取りすることも欠かせないことのような気がする。公的機関の報告書から洩れている大事なことがいっぱいあるからだ。それでも必ず『予想外』があるのが災害だ」
そして事実、このたび「想定外」が起こった。
*
あるいは、「震災後150日」と題し、同年6月24日付けで次のように書く。
「会う人の多くは疲労をにじませている。震災以来働きつづけてきた人たちである。警察や消防や教員、一般行政の人もある。被災企業の人たちの再建の努力。渋滞の中で何度も夜を明かした運輸の人。求めに応じて無理を重ねた物資供給に携わる人。報道の人もそうだ」
「たしかに略奪、放火、暴行、強盗が横行しなかったために精神的後遺症がこれまでの海外の報告より軽く済む希望がある。天災だけならば純粋な恐怖と悲嘆とであるが、人災が重なると怒り、憤り、怨み、萎縮、人間一般への不信、絶望が加わる。人災のほうが長く深く尾を引くのだ。余震への恐怖とか悪夢とか、5時46分より少し前に目覚めるとかはたしかにあるが、私の診療から見るかぎりは徐々に収まってきている。むしろ、1ヵ月間は睡眠が短くて、1ヵ月後からはいくら眠っても眠り足りないという人が目立つ。これは身体の中の自然がそうさせているのだろう。従うのがよいというほかない」
そして、後日付記する。
「震災の翌年、ロサンゼルスに視察と研修に何人かで行った。アメリカでは天災の後、必ず暴動が起こることを計算に入れている。2日間は暴徒のなすがままに任せて、3日目、彼らが疲れてくるのを待って制圧にかかるのだそうである。2001年9月11日事件でも、瓦解した世界貿易センターの周囲では略奪があったとはアメリカ人の直話である」
だが、歴史を振り返れば日本でも似たようなことがあったのだ。
「もっとも、江戸時代から第二次世界大戦までの日本では、震災は『富める者が貧しくなり、貧しい者が富む』絶好のチャンスだった。小判を降らす『鯰大明神』が崇拝された。いち早く木材を買い占める投機もあったが、主に略奪である。関東大震災では、略奪者に備えて組織された自警団が残虐事件の一方の主役となった」
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中井久夫は、2011年3月15日付け朝日新聞で新聞社からの問いに回答している。上記エッセイに書かれていることと重なる事項もある。
たとえば、「『誰かがいてくれる』というだけでも意味がある」「阪神大震災の時は、各自治体の救援の車が見えただけでも心の支えになった」。
あるいは、「40~50日でやるべきことはやっておかないと、その後は頭が動かなくなる。第一次世界大戦の時、兵士が戦場に40~50日いると、限界がきて武器を投げ出したくなったという話がある。私も40日過ぎに、丸1日眠り続けた」。
エッセイに書かれていないこともある。
「温かいご飯と、ゆっくり休める場所。災害直後はPTSD(心的外傷後ストレス障害)の予防にそれが一番重要になる」
「食事も大切だった。乾パンと水で持つのは2日、カップ麺で持つのは5日。1週間過ぎたらうまい食事をとらないと、精神的にも苦しくなる」
【参考】中井久夫『清陰星雨』(みすず書房、2002)
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