語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】梅棹忠夫の、情報産業論(情報論ではない)

2011年03月03日 | 批評・思想
 梅棹忠夫は、1963年、43歳のときに「情報産業論」を「放送朝日」に発表した。情報のもたらす文明論的変革、「工業の時代」から「情報産業の時代」への移行を予想した。 
 予想は当たり、米国では産業革命型のモノ作りが衰退し、金融業(投資銀行的業務)や情報処理産業が成長している。情報処理産業では、マイクロソフト、アップル、グーグルがリーマンショック後も好調である。
 梅棹の「情報産業」は情報処理産業より範囲の広い概念だが、それはさて措き、以下「第4章 情報は分類せずに配列せよ 記録と記憶の技術(3)」からさわりを引く。

   *

 日本のインテレクチャルは非常にまちがっている。日本人は、整理好きというより分類好き。すぐ分類したがる。ほとんどは分類して、それでおしまいになっている。分類には意味がない。整理と分類とは全然ちがう。分類するな、配列せよ、機械的に配列するのだ。大事なのは検索だ。
 「<やっぱりインテリ道というのは、近代武士道だなあ>【注】」

 知的生産は情報の技術だ。工業技術以外に技術があろうとは誰も思っていない時代に、『知的生産の技術』を書いた。版を重ね、2010年8月現在85刷だ。
 いまでも知的という言葉は、知的生産の技術と関連してよく使われる。
 
 「<日本政府は唯物論政府や>【注】」
 「ポスターをつくるのに、紙代と印刷費は出る。だけど、デザイン料がついていない。デザイン料という概念がなかったんやな。デザインはいったいどうなるのか。だれがどうやってつくるのか。するとそれは、『担当課長の机の上に、ある日突然載っているんや』なんて、おかしなことを言っていた。そういう扱いだった」
 産業として見てない。知的生産を頭から認めていなかった。知的生産とかデザイン的なものを全部タダだと思っていた。それを分譲に結びつkてたから、情報産業論が生まれた。

 「情報産業論」は情報論ではない。2007年12月の比叡会議(日本IBM主催の有識者会議)は「今、ふたたび情報を考える」というテーマだったが、情報機器類の話にいってしまった。情報の専門家は、情報のなかにランクがあるようなことを言う。なかなかちゃんと理解してもらえない。一部分だけを勝手に広げている。
 情報と産業を分けて考えてはダメだ。情報の時代とみんな軽く言っているが、情報産業時代なのだ。「わたしは、はじめからそう言っている。工業時代の次に来るのが、情報産業の時代ですよ、と。<一種の進化論>【注】です。農業の時代、工業の時代、その次に来るのが情報産業の時代」
 はじめ、「放送おめかけ論」ということが言われていた。何も生産しない、養ってもらうだけのおめかけさん。何もモノをつくっていないから工業のおめかけさんというわけだ。梅棹は、それは違う、と言った。それが情報産業論の成立のきっかけになった。あちこちでアジテーションやった。放送界は、それで非常に元気づけられた。

 昔から、狩猟採集、農耕、牧畜、工業があって、そのなかに情報というもの自体はずっとあった。突然出てきたものとはちがう。

 梅棹の情報産業論は、情報論ではない。コミュニケーション論ではない。文明論だ。
 技術が産業につながるのは、当然なのだ。

 【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。

【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
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