著者、石山ヨシエ氏は朝日新聞鳥取版の俳句欄の選者である。『浅緋』は氏の第二句集で、ウスアケと読む。1993年から2010年まで17年間の作品をおさめる。
結社「門」の主宰、鈴木鷹夫は帯文にいう。「いつも若々しい著者だが、この句集では今迄の透明感に加えて精錬された美的節度を感じる。即ち壮にして寂、瑞々として切実な句境に入ったと思う。そしてそれらを止揚すると見事題名『浅緋』に集約されるのである」
このたび、図らずも句集をいただき、一読、再読した。
目についた第一は、風土だ。
凩に明け渡したる城下町
城下町がどこかは定かではないが、著者の在所の鳥取市であるとすれば、その風土を大きく掴んで間然するところがない。富士には月見草がよく似合い、鳥取市には凩がよく合う。夏でも「凩に明け渡した」感じを与えるのが鳥取市だ。
なお、ここでいう鳥取市は2004年の合併より前の鳥取市だ。いまの鳥取市は、かつての気高郡(3町)、岩美郡の2町村、八頭郡の3町村と合併し、2005年には山陰初の特例市に指定された。
著者は旧・鳥取市をいとも軽々と踏み越えて、より広く因幡を謳う。
滴りの谺となりて竜神洞
あるいは、伯耆に足を伸ばして、
根の国をあまねく照らし烏賊釣火
この場合、根の国は弓ヶ浜、別称夜見ヶ浜のことだ。
妖怪の町をぞろぞろ神無月
この町は、当然、水木しげるの生地、境港市でなければならない。
そして、さらに日本海沿岸を歩いて、
自衛艦もつとも霞む舞鶴よ
田仕舞いの種火はりつく能登の闇
目につく第二は、ほのかな笑いだ。滑稽と呼ぶと強すぎ、ユーモアと呼ぶと作為が過ぎる。俳味と呼ぶほど脱俗ではない。むしろ日常のなかで目に入ってくるものが自ずから醸し出すおかしみだ。『浅緋』は編年体だが、季別に並べ替えてみると、四季それぞれの日常のなかに、かくも楽しい光景がこれほどたくさんあることに愉快を感じる。
帽子とはよく飛ぶものよ青嵐
電柱を抜きたる穴や梅雨に入る
サーファーの崩るるさまを見て飽かず
月下美人咲くぞ咲くぞと闇の声
それにしても栗がごろごろ栗の飯
忽然と案山子一族あらはるる
口元の泡ゆたかなり松葉蟹
第三、自然観察は厳しい。熟練のわざで言葉の彫刻刀が大自然を刻み、凛然とレリーフする。
雲海の沖より明けて鳥のこゑ
ベランダに鳥のこゑ降る夏館
睡蓮の白に迷ひのなかりけり
剥製のどれも飢餓の目空澄めり
秋落暉影の相寄る島二つ
落暉ごと海へなだるる鰯雲
第四、自然を凝視し尽くす先に幻想が生まれる。『浅緋』の作者の幻想は、現実と非現実がまざりあうところに特徴がある。昔、荘周は夢に胡蝶となった。ひらひらと舞って、胡蝶そのものであった。のびのびとして楽しく、ほんとは自分は荘周なのである、ということがわからなくなったほどだった。目覚めて我にかえったが、はたして荘周の夢に胡蝶となったのか、はたまた、胡蝶の夢に荘周となったのか(『荘子』斉物論)。
眠られぬ夜は赤エイと泳ぎけり (注:エイは漢字)
陽炎に焼身の夢よみがへる
現世のここは秋蝉湧くところ
自然界の凝視と荘周胡蝶の夢とをつなぐのは、次のような句だ。
鳥渡る海底に道白くあり
安楽死ふと思ひけり寒桜
夕闇の白山茶花を基地とせり
そして、現実も非現実もない境地に、次のような不思議な句が生まれる。
啓蟄や人犇めける地下酒場
【参考】石山ヨシエ『浅緋』(ふらんす堂、2011)
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結社「門」の主宰、鈴木鷹夫は帯文にいう。「いつも若々しい著者だが、この句集では今迄の透明感に加えて精錬された美的節度を感じる。即ち壮にして寂、瑞々として切実な句境に入ったと思う。そしてそれらを止揚すると見事題名『浅緋』に集約されるのである」
このたび、図らずも句集をいただき、一読、再読した。
目についた第一は、風土だ。
凩に明け渡したる城下町
城下町がどこかは定かではないが、著者の在所の鳥取市であるとすれば、その風土を大きく掴んで間然するところがない。富士には月見草がよく似合い、鳥取市には凩がよく合う。夏でも「凩に明け渡した」感じを与えるのが鳥取市だ。
なお、ここでいう鳥取市は2004年の合併より前の鳥取市だ。いまの鳥取市は、かつての気高郡(3町)、岩美郡の2町村、八頭郡の3町村と合併し、2005年には山陰初の特例市に指定された。
著者は旧・鳥取市をいとも軽々と踏み越えて、より広く因幡を謳う。
滴りの谺となりて竜神洞
あるいは、伯耆に足を伸ばして、
根の国をあまねく照らし烏賊釣火
この場合、根の国は弓ヶ浜、別称夜見ヶ浜のことだ。
妖怪の町をぞろぞろ神無月
この町は、当然、水木しげるの生地、境港市でなければならない。
そして、さらに日本海沿岸を歩いて、
自衛艦もつとも霞む舞鶴よ
田仕舞いの種火はりつく能登の闇
目につく第二は、ほのかな笑いだ。滑稽と呼ぶと強すぎ、ユーモアと呼ぶと作為が過ぎる。俳味と呼ぶほど脱俗ではない。むしろ日常のなかで目に入ってくるものが自ずから醸し出すおかしみだ。『浅緋』は編年体だが、季別に並べ替えてみると、四季それぞれの日常のなかに、かくも楽しい光景がこれほどたくさんあることに愉快を感じる。
帽子とはよく飛ぶものよ青嵐
電柱を抜きたる穴や梅雨に入る
サーファーの崩るるさまを見て飽かず
月下美人咲くぞ咲くぞと闇の声
それにしても栗がごろごろ栗の飯
忽然と案山子一族あらはるる
口元の泡ゆたかなり松葉蟹
第三、自然観察は厳しい。熟練のわざで言葉の彫刻刀が大自然を刻み、凛然とレリーフする。
雲海の沖より明けて鳥のこゑ
ベランダに鳥のこゑ降る夏館
睡蓮の白に迷ひのなかりけり
剥製のどれも飢餓の目空澄めり
秋落暉影の相寄る島二つ
落暉ごと海へなだるる鰯雲
第四、自然を凝視し尽くす先に幻想が生まれる。『浅緋』の作者の幻想は、現実と非現実がまざりあうところに特徴がある。昔、荘周は夢に胡蝶となった。ひらひらと舞って、胡蝶そのものであった。のびのびとして楽しく、ほんとは自分は荘周なのである、ということがわからなくなったほどだった。目覚めて我にかえったが、はたして荘周の夢に胡蝶となったのか、はたまた、胡蝶の夢に荘周となったのか(『荘子』斉物論)。
眠られぬ夜は赤エイと泳ぎけり (注:エイは漢字)
陽炎に焼身の夢よみがへる
現世のここは秋蝉湧くところ
自然界の凝視と荘周胡蝶の夢とをつなぐのは、次のような句だ。
鳥渡る海底に道白くあり
安楽死ふと思ひけり寒桜
夕闇の白山茶花を基地とせり
そして、現実も非現実もない境地に、次のような不思議な句が生まれる。
啓蟄や人犇めける地下酒場
【参考】石山ヨシエ『浅緋』(ふらんす堂、2011)
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