語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】NHK「みんなのうた」50周年&昭和家庭史

2011年03月07日 | 歴史
 「志村建世のブログ」によれば、NHK「みんなのうた」は今年3月末でまる50年間放送することになる。志村氏は、この番組2年目の昭和37年4月から38年9月まで間を担当した。
 50年間に世に出た約1,300曲のうち、初年度には「かあさんのうた」「トロイカ」などが、2年目と3年目の上半期には、「大きな古時計」「ドレミの歌」「アルプス一万尺」などが放送された。
 初期には、当時無名の歌や外国曲を発掘したり、外国曲に新しい歌詞をつけた、という。「かあさんのうた」は後藤田純生チーフが歌声喫茶から「拾ってきた」し、「おお牧場はみどり」は資料室の外国民謡から拾いだしたのだ。
 著作権に関してアバウトな時代だったらしい。「おお牧場はみどり」は、すでに歌詞がついていたが、出だしの「ああ牧場はみどり」を元気な「おお」に変えた。「白銀は招くよ」の歌詞「雪の山は恋人」を「雪の山は友だち」に勝手に変えたりもした。当時の「少年班」では恋はご法度だったのです、うんぬんと志村氏。
 NHKから楽譜を取り寄せて生徒に教える学校の教師が非常に多かったらしく、とくに毎日流す「今月の歌」が大事だったそうだ。じじつ、風紋子は「みんなのうた」を小学校の音楽の時間に教えられた。中学校時代には、音楽の時間に「クワイ河マーチ」をハーモニカで吹いた。そして、クラスメートとともに、市の文化祭(だったと思う)で演奏した。ただし、この曲、亡父の集めたレコードの1枚に「ボギー大佐」というタイトルで収録されていたから、それまでに一度は耳にしていたはずだ。

 風紋子が「みんなのうた」を学校経由で知った理由のひとつは、テレビはあまり見ない子どもだったからだ。それでも、いくらか見た記憶はある。
 昭和35年には、どんな番組が放送されていたのだろうか。『昭和・平成家庭史年表』の文化・レジャーの項目を参照すると、「ハイウェイパトロール」が放映されている。これは時々見た。ただし、同年7月4日には放送中止されている。同年6月30日、「NHKテレビ、浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件によりテレビでの殺人や暴力シーンの追放を決定」したからだ。・・・・しかし、浅沼委員長刺殺事件は同年10月12日のことだ。妙な記事である。
 昭和36年には、4月3日にNHKテレビで朝の連続テレビ小説第1作「娘と私」が放送を開始した。当然ながら、これは見ていない。6月4日には日本テレビで「シャボン玉ホリデー」が放送開始。親が見ている横で覗いたことはあるが、最初から最後までちゃんと見たことはなかった。テレビではないが、「少年サンデー」に「伊賀の影丸」が連載を開始したのは、この年の4月だ(昭和41年10月まで)。「少年サンデー」は、小学生3年生から卒業するまで定期購読していたから、毎回読んでいた。
 昭和37年には、5月4日からTBSテレビで米国テレビ映画「ベン・ケーシー」が放送開始。空前のヒットだったらしいが、これは見てない。というより、当時は山陰の県庁所在地には配信されていなかった。テレビではないが、この年の11月からプラモデルのブーム(第一次ブーム)が始まった。風紋子も、この頃、プラモデルをせっせと制作した。不細工な出来の作品を、亡父がたんねんに仕上げた記憶もある。

  さまざまのこと思い出すさくらかな  芭蕉

【参考】下川耿史/家庭総合研究会『昭和・平成家庭史年表 1926-2000』(河出書房新社、2001)
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