(1)アメリカのテレビドラマ
(a)特定の個人を軸として展開される作品が多い。
(b)ドラマで活躍する個人は、主として同じ場所、同じ職業で、ただ相手だけを毎回変えて活動する。すなわち、それは職業のドラマである。主人公は、仕事をこなすことによって上の身分に出世していくのではなく、その職業においてさらなるベテランになっていく。例:①「弁護士プレストン」や「事件と裁判」の弁護士や検事、②「ベン・ケーシー」や「ドクター・キルデア」や「看護婦物語」の医師や看護師、③「ミスター・ノバック」や「チャニング学園」の教師、④「ハイウェイ・パトロール」や「アンタチャブル」の刑事。
(c)主人公は、べつだん人並みはずれた器量である必要はない。むしろ、ベン・ケーシーのように、一市民としては無愛想でつきあいにくい、といった欠点をもっている。しかし、すくなくとも、その専門の仕事に関してはずば抜けた技術をもっている。しかも、その職業においていい腕をもつだけでなく、その職業に徹することを通じて、一種の哲学を身に付けている。自分流の生き方を主張できる。ベン・ケーシーは、単に優秀な医師であるだけでなく、医師としての信念によって、まちがった社会通念、患者のまちがった人生観と対決する。ベン・ケーシーは、一市民として他人に忠告するのではなく、あくまで医師として、患者の健康を守るにはこうあらねばならぬ、と主張する。
(d)米国の職業ドラマの主人公たちは、徹底したプロである。仕事そのものが生きがいである。仕事によって自分の生き方に自信をもち、仕事の立派さにおいて他人から一目置かれる。その仕事を通じて、ものごとの善悪さえ主張できる人間だ。
(e)同じ職場の同僚は、一国一城の主である。各自、自分の主張に固執して同僚間のいざこざが絶えない。
(f)名探偵シャーロック・ホームズにはじまる探偵物語は、原則として、あくまで犯人対探偵の一対一の知恵比べである。「シャーロック・ホームズ」は、探偵としての腕にだけ自信をもつプロ意識がある。場合によっては、自分一人が犯人を知っていればよく、別に手柄にならなくてもよい、という名人気質がある。
(g)法廷もので、弁護士は自分が必ずしも好ましくは思っていない被告でも、事務的に引き受ける。弁護を巧みにやってのける。弁護士である以上、職業倫理に忠実なのだ。そして、裁判が終わってから、実はああいう人物は好ましくない、といった批判をちょっぴり言う。
(2)日本のテレビドラマ
(a)米国と比較して、個人ではなく、記者クラブや商社などの集団が単位で展開されるものが多い。
(b)個人ドラマは、第一にほとんど長編小説のドラマ化であり、しかも第二に一種の立身出世物語ないし成長物語である。一人の人間が、人生のさまざまな波乱を経験していくことで、主人公は同じでも、主人公の活躍する場所と職業、つきあう相手はだんだん変わっていく。
(c)職業を扱ったドラマはある。例:①「事件記者」の新聞記者、②「七人の刑事」の刑事、③「判決」の弁護士。しかし、これらの職業ドラマの登場人物たちは、個人として水際だった職業上の冴えをみせることはあまりない。むしろ、一人一人としてはごく普通の人間が、その職場のチームワークのよさによって、協力してひとつずつ事件をさばいていく形になる。職業のドラマというよりは、職場のドラマである。
(d)「判決」の弁護士グループにおいては、社会正義を主張し、貫くことが生きがいである。弁護の技術それ自体はあまり重要でない。というよりも、弁護のしかたそのものが、虚々実々の駆け引きであるよりも、むしろいかに率直に心情を披瀝するか、にかかっている。腕よりも真心なのだ。そして、勝訴すると自分一人で満足感を味わうのではなく、弁護士事務所の仲間一同と喜びをともにするのである。自分たちの信じる正義感が世に受け入れられたことに。
(e)職業人の生きがいは、自分の腕のよさもさりながら、職場の雰囲気そのものの中にある。同じ職場の同僚は、現実のどんな職場でもこうはいくまい、と思われるくらい仲がよい。チームワークがうまくとれている。おかげで、一人一人はかくべつプロ根性といった徹底的なものをもっていなくても、有無あい通じる相互の連絡さえ巧みにやっていけば、事は自ずから解決してしまう。互いに漫才のような口調で喋りあうのは、その連絡方法の円滑さを表す。そして、事件解決よりも職場の雰囲気のほうをよりいっそう楽しんでいる。
(f)記者同士、刑事同士の和気あいあいの雰囲気が強調されるあまり、彼らに追われる犯罪者との関係は、安定したよき職場でよき同僚と楽しく日を送っている者と孤独な人間との戦い、といった印象を与える。むろん、勝利は前者に輝き、自分一人罪におびえる孤独なアウトローは必ず敗北する。記者や刑事には、個人的なプロ意識や名人意識はなく、代わりに組織への信頼と、組織の居心地のよさが眼目になる。組織に巧みに適応し、みんなと協調できたときに仕事はうまくいき、満足感を味わう。
(g)法廷ものでは、主人公は職業に忠実である以上に、職業を通じて社会正義を叫ぶほうに意義を感じている。
(h)個人の能力礼讃のドラマがないわけではない。オーガニゼーション・マンの対極にスーパーマン的主人公が登場する長編ドラマがある。凡人によって作られている組織と片っ端から喧嘩し、組織から飛び出し、自分で組織を作ってそこのボスになる。彼の能力は、組織をつくって、他人をいかに操縦するか、という人間的器量の問題になってくる。彼に心服する相棒や子分との人間関係のうまさに焦点があてられる。そういうやつが成功するのは当然だし、めでたい、という運びになるのが普通だ。
*
以上、「ドラマのあり方と社会のあり方」に拠る。1960年代のテレビドラマ論だが、21世紀の今でも通じる所見が多い。
たとえば、(1)の(b)は、①の系列に属する「女検察官アナベス・チェイス」、②の系列に属する「Dr.HOUSE」や「ER緊急救命室」、④の系列に属する「NCIS~ネイビー犯罪捜査班」や「NUMBERS」がある。③の系列も探せばあるだろう。
【参考】佐藤忠男『テレビの思想 増補改訂版』(千曲秀版社、1978)
↓クリック、プリーズ。↓
(a)特定の個人を軸として展開される作品が多い。
(b)ドラマで活躍する個人は、主として同じ場所、同じ職業で、ただ相手だけを毎回変えて活動する。すなわち、それは職業のドラマである。主人公は、仕事をこなすことによって上の身分に出世していくのではなく、その職業においてさらなるベテランになっていく。例:①「弁護士プレストン」や「事件と裁判」の弁護士や検事、②「ベン・ケーシー」や「ドクター・キルデア」や「看護婦物語」の医師や看護師、③「ミスター・ノバック」や「チャニング学園」の教師、④「ハイウェイ・パトロール」や「アンタチャブル」の刑事。
(c)主人公は、べつだん人並みはずれた器量である必要はない。むしろ、ベン・ケーシーのように、一市民としては無愛想でつきあいにくい、といった欠点をもっている。しかし、すくなくとも、その専門の仕事に関してはずば抜けた技術をもっている。しかも、その職業においていい腕をもつだけでなく、その職業に徹することを通じて、一種の哲学を身に付けている。自分流の生き方を主張できる。ベン・ケーシーは、単に優秀な医師であるだけでなく、医師としての信念によって、まちがった社会通念、患者のまちがった人生観と対決する。ベン・ケーシーは、一市民として他人に忠告するのではなく、あくまで医師として、患者の健康を守るにはこうあらねばならぬ、と主張する。
(d)米国の職業ドラマの主人公たちは、徹底したプロである。仕事そのものが生きがいである。仕事によって自分の生き方に自信をもち、仕事の立派さにおいて他人から一目置かれる。その仕事を通じて、ものごとの善悪さえ主張できる人間だ。
(e)同じ職場の同僚は、一国一城の主である。各自、自分の主張に固執して同僚間のいざこざが絶えない。
(f)名探偵シャーロック・ホームズにはじまる探偵物語は、原則として、あくまで犯人対探偵の一対一の知恵比べである。「シャーロック・ホームズ」は、探偵としての腕にだけ自信をもつプロ意識がある。場合によっては、自分一人が犯人を知っていればよく、別に手柄にならなくてもよい、という名人気質がある。
(g)法廷もので、弁護士は自分が必ずしも好ましくは思っていない被告でも、事務的に引き受ける。弁護を巧みにやってのける。弁護士である以上、職業倫理に忠実なのだ。そして、裁判が終わってから、実はああいう人物は好ましくない、といった批判をちょっぴり言う。
(2)日本のテレビドラマ
(a)米国と比較して、個人ではなく、記者クラブや商社などの集団が単位で展開されるものが多い。
(b)個人ドラマは、第一にほとんど長編小説のドラマ化であり、しかも第二に一種の立身出世物語ないし成長物語である。一人の人間が、人生のさまざまな波乱を経験していくことで、主人公は同じでも、主人公の活躍する場所と職業、つきあう相手はだんだん変わっていく。
(c)職業を扱ったドラマはある。例:①「事件記者」の新聞記者、②「七人の刑事」の刑事、③「判決」の弁護士。しかし、これらの職業ドラマの登場人物たちは、個人として水際だった職業上の冴えをみせることはあまりない。むしろ、一人一人としてはごく普通の人間が、その職場のチームワークのよさによって、協力してひとつずつ事件をさばいていく形になる。職業のドラマというよりは、職場のドラマである。
(d)「判決」の弁護士グループにおいては、社会正義を主張し、貫くことが生きがいである。弁護の技術それ自体はあまり重要でない。というよりも、弁護のしかたそのものが、虚々実々の駆け引きであるよりも、むしろいかに率直に心情を披瀝するか、にかかっている。腕よりも真心なのだ。そして、勝訴すると自分一人で満足感を味わうのではなく、弁護士事務所の仲間一同と喜びをともにするのである。自分たちの信じる正義感が世に受け入れられたことに。
(e)職業人の生きがいは、自分の腕のよさもさりながら、職場の雰囲気そのものの中にある。同じ職場の同僚は、現実のどんな職場でもこうはいくまい、と思われるくらい仲がよい。チームワークがうまくとれている。おかげで、一人一人はかくべつプロ根性といった徹底的なものをもっていなくても、有無あい通じる相互の連絡さえ巧みにやっていけば、事は自ずから解決してしまう。互いに漫才のような口調で喋りあうのは、その連絡方法の円滑さを表す。そして、事件解決よりも職場の雰囲気のほうをよりいっそう楽しんでいる。
(f)記者同士、刑事同士の和気あいあいの雰囲気が強調されるあまり、彼らに追われる犯罪者との関係は、安定したよき職場でよき同僚と楽しく日を送っている者と孤独な人間との戦い、といった印象を与える。むろん、勝利は前者に輝き、自分一人罪におびえる孤独なアウトローは必ず敗北する。記者や刑事には、個人的なプロ意識や名人意識はなく、代わりに組織への信頼と、組織の居心地のよさが眼目になる。組織に巧みに適応し、みんなと協調できたときに仕事はうまくいき、満足感を味わう。
(g)法廷ものでは、主人公は職業に忠実である以上に、職業を通じて社会正義を叫ぶほうに意義を感じている。
(h)個人の能力礼讃のドラマがないわけではない。オーガニゼーション・マンの対極にスーパーマン的主人公が登場する長編ドラマがある。凡人によって作られている組織と片っ端から喧嘩し、組織から飛び出し、自分で組織を作ってそこのボスになる。彼の能力は、組織をつくって、他人をいかに操縦するか、という人間的器量の問題になってくる。彼に心服する相棒や子分との人間関係のうまさに焦点があてられる。そういうやつが成功するのは当然だし、めでたい、という運びになるのが普通だ。
*
以上、「ドラマのあり方と社会のあり方」に拠る。1960年代のテレビドラマ論だが、21世紀の今でも通じる所見が多い。
たとえば、(1)の(b)は、①の系列に属する「女検察官アナベス・チェイス」、②の系列に属する「Dr.HOUSE」や「ER緊急救命室」、④の系列に属する「NCIS~ネイビー犯罪捜査班」や「NUMBERS」がある。③の系列も探せばあるだろう。
【参考】佐藤忠男『テレビの思想 増補改訂版』(千曲秀版社、1978)
↓クリック、プリーズ。↓