(1)神戸市(95年1月被災)
(a)大規模公共事業
神戸市は、「創造的復興」の掛け声のもとに、さまざまなプロジェクトを強行した。道路、港湾、空港といったインフラ整備に巨額の復興予算をつぎこんだ。
甚大な被害をだした新長田駅南地区の再開発事業もその一つだ。対象面積20ヘクタール、総事業費2,710億円。復興事業の目玉の一つだった。11年現在も進行中で、当初計画の約40棟のうち31棟のビルが完成している。再開発ビルの商業用床面積は、76,000平米。従前の48,000平米を大きく上回る。再開発事業では、ビルの区分所有権を売却し、それを事業費の返済に充てる仕組みだ。
だが、これまでに売却できた商業用床面積は半分ほど。残りは、市の外郭団体「新長田まちづくり株式会社」が一括賃貸し、テナントを募集している。
店舗が半壊したある商店主は、権利を市に売却し、再開発ビルに入居した。内装費などを借り入れ、再出発した。ところが、新たなビルが完成するたびに店の売上げは落ちていった。商店主は、やむなく廃業を決意。しかし、店舗は売れないし、借り手も見つからない。それでも管理費と固定資産税は払わねばならない。
ケミカルなどの町工場、小規模住宅、小売店が混在していた新長田は、震災後の地場産業衰退と人口減によって徐々に活力を失ったのだ。
【参考】長田区の震災前(94年10月推計)と震災後(11年4月推計)の人口等の推移
人口・・・・・・・・・・・・・・・130,466人 → 101,2348人
世帯数・・・・・・・・・・・・・53,284 → 48,300
製造事業所数・・・・・・1,534 → 566
製造業従業者数・・・・8,883人 → 7,866人
(b)コミュニティの崩壊
仮設住宅や復興住宅への入居を抽選にしたため、コミュニティがバラバラになった。高齢者や障害者を優先したが、結果的に弱者を孤立させ、多数の孤独死を生んだ。
「震災復興の目的は大規模開発の“創造的復興”ではなく、被災者の住まいと暮らし、人とのつながりを回復させる“人間的復興”でなければならない」(池田清・松蔭女子学院大学教授)
(2)北海道奥尻町(93年7月被災)
死者・行方不明者198人。被害総額664億円(cf.町の年間予算規模50億円)。
町の復興に大きな役割を果たしたのは、行政と住民とのパイプ役を務める自主組織だった。被災者の設立した「奥尻の復興を考える会」がそれだ。島内で最大の被害を受けた青苗地区の被災者を中心に105世帯が加わった。
まちづくりの専門家を独自に招いて勉強会を開き、雲仙普賢岳の復興過程を調査。被災者へのアンケートをもとに町に質問状を出し、提言した。
(a)義援金(190億円)の使途決定
パイプ役が大きな力を発揮した。義援金で設立された「災害復興基金」の使途に住民の意向を反映させた。もっぱら被災者の自宅や仕事場の再建支援に活用された。
混乱はあった。行政が発行する罹災証明書(助成金額に関係する)をめぐるいざこざ。助成金に依存し、自力再建の気持ちを弱らせる被災者。
だが、義援金の分配、手厚い支援策によって将来に希望が持てるようになった。
(b)災害後のまちづくり
パイプ役が存在感を示した。最大の課題、壊滅的な被害を受けた青苗区の再生について、町を支援する北海道庁は復興計画案を2つ示した。①岬周辺(5ヘクタール)のすべての土地を町が買い上げ、低地部を含む全戸を高台に移転する。②港近くに漁師町ゾーンを残し、一部を高台に移転する。
高齢者を中心に、住み慣れた土地で再建したい、という声も上がり、住民の意見は3つに分裂した。
「考える会」は、行政から説明を受けた後、勉強会や住民アンケートを実施。漁業者の強い声を勘案し、一部高台移転案を「総意」とした。
話し合いの過程でカギになったのは、元の住居に近い仮設住宅だ。住民の心が落ち着いた状態にならないと、話し合いにならない。被災者は、新しいまちづくりに参加できない。奥尻町では、津波被害から16日後という早さで仮設住宅への入居が決まった。
以上、記事「神戸の過ち、奥尻の教訓 復興実現のカギはパイプ役」(「週刊ダイヤモンド」2011年5月14日号)に拠る。
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(a)大規模公共事業
神戸市は、「創造的復興」の掛け声のもとに、さまざまなプロジェクトを強行した。道路、港湾、空港といったインフラ整備に巨額の復興予算をつぎこんだ。
甚大な被害をだした新長田駅南地区の再開発事業もその一つだ。対象面積20ヘクタール、総事業費2,710億円。復興事業の目玉の一つだった。11年現在も進行中で、当初計画の約40棟のうち31棟のビルが完成している。再開発ビルの商業用床面積は、76,000平米。従前の48,000平米を大きく上回る。再開発事業では、ビルの区分所有権を売却し、それを事業費の返済に充てる仕組みだ。
だが、これまでに売却できた商業用床面積は半分ほど。残りは、市の外郭団体「新長田まちづくり株式会社」が一括賃貸し、テナントを募集している。
店舗が半壊したある商店主は、権利を市に売却し、再開発ビルに入居した。内装費などを借り入れ、再出発した。ところが、新たなビルが完成するたびに店の売上げは落ちていった。商店主は、やむなく廃業を決意。しかし、店舗は売れないし、借り手も見つからない。それでも管理費と固定資産税は払わねばならない。
ケミカルなどの町工場、小規模住宅、小売店が混在していた新長田は、震災後の地場産業衰退と人口減によって徐々に活力を失ったのだ。
【参考】長田区の震災前(94年10月推計)と震災後(11年4月推計)の人口等の推移
人口・・・・・・・・・・・・・・・130,466人 → 101,2348人
世帯数・・・・・・・・・・・・・53,284 → 48,300
製造事業所数・・・・・・1,534 → 566
製造業従業者数・・・・8,883人 → 7,866人
(b)コミュニティの崩壊
仮設住宅や復興住宅への入居を抽選にしたため、コミュニティがバラバラになった。高齢者や障害者を優先したが、結果的に弱者を孤立させ、多数の孤独死を生んだ。
「震災復興の目的は大規模開発の“創造的復興”ではなく、被災者の住まいと暮らし、人とのつながりを回復させる“人間的復興”でなければならない」(池田清・松蔭女子学院大学教授)
(2)北海道奥尻町(93年7月被災)
死者・行方不明者198人。被害総額664億円(cf.町の年間予算規模50億円)。
町の復興に大きな役割を果たしたのは、行政と住民とのパイプ役を務める自主組織だった。被災者の設立した「奥尻の復興を考える会」がそれだ。島内で最大の被害を受けた青苗地区の被災者を中心に105世帯が加わった。
まちづくりの専門家を独自に招いて勉強会を開き、雲仙普賢岳の復興過程を調査。被災者へのアンケートをもとに町に質問状を出し、提言した。
(a)義援金(190億円)の使途決定
パイプ役が大きな力を発揮した。義援金で設立された「災害復興基金」の使途に住民の意向を反映させた。もっぱら被災者の自宅や仕事場の再建支援に活用された。
混乱はあった。行政が発行する罹災証明書(助成金額に関係する)をめぐるいざこざ。助成金に依存し、自力再建の気持ちを弱らせる被災者。
だが、義援金の分配、手厚い支援策によって将来に希望が持てるようになった。
(b)災害後のまちづくり
パイプ役が存在感を示した。最大の課題、壊滅的な被害を受けた青苗区の再生について、町を支援する北海道庁は復興計画案を2つ示した。①岬周辺(5ヘクタール)のすべての土地を町が買い上げ、低地部を含む全戸を高台に移転する。②港近くに漁師町ゾーンを残し、一部を高台に移転する。
高齢者を中心に、住み慣れた土地で再建したい、という声も上がり、住民の意見は3つに分裂した。
「考える会」は、行政から説明を受けた後、勉強会や住民アンケートを実施。漁業者の強い声を勘案し、一部高台移転案を「総意」とした。
話し合いの過程でカギになったのは、元の住居に近い仮設住宅だ。住民の心が落ち着いた状態にならないと、話し合いにならない。被災者は、新しいまちづくりに参加できない。奥尻町では、津波被害から16日後という早さで仮設住宅への入居が決まった。
以上、記事「神戸の過ち、奥尻の教訓 復興実現のカギはパイプ役」(「週刊ダイヤモンド」2011年5月14日号)に拠る。
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