散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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6月17日:大森貝塚を発見したモース博士、初来日(1877年)

2024-06-17 03:30:03 | 日記
2024年6月17日(月)

> 1877年(明治10年)6月17日、アメリカの動物学者エドワード・シルヴェスター・モースが初来日した。 彼の専門分野は貝類で、日本に多種類の腕足類が生息することを知り、研究のためにやってきたのである。しかし来日の翌々日、彼は思いがけないものを発見する。汽車で横浜から東京へ移動する途中、大森で線路脇に貝殻らしきものを見かけたのだ。3ヶ月後の9月16日、モースはさっそく発掘調査を開始する。日本初の考古学の発掘調査だった。
 モースは若い頃、学者というよりは、コレクターとして貝の収集を始めた。絵が得意だったことから製図工として働きつつ貝の収集をしていたのだが、その見事なコレクションが多くの愛好家や研究者に知られるようになり、動物学の研究者となった。来日したのも純粋に収集のためだったが、東京大学の教授の職につき、以後三回来日して1880年まで教鞭をとっている。
 進化論を日本に紹介したのもモースである。また、神奈川県の江ノ島に臨海研究所を創設し、腕足類の研究にも貢献した。
 彼のコレクターとしての収集品は、「モース・コレクション」として、後年彼が館長を務めたセイラム市のピーボディ博物館に保管されている。「偉大なる日本の友」モース博士は、多くの日本の学生に、好奇心と探究心が学問の原点であることを教えた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.174

Edward Sylvester Morse
1838年6月18日 - 1925年12月20日

 モールス信号のモールスと原語の綴り・発音は同一である。京浜東北線で大井町の一つ南が大森で、この駅名を見ると決まってモースと貝塚を連想する。大森駅のホーム中央付近には「日本考古学発祥の地」という碑があり、縄文土器の形をしたブロンズ像が置かれている。数年前に写真に撮ったはずだが探し出せない。
 腕足類という海中の生き物に御執心の人物が、いわばその遺骸の人為的な集積である貝塚を見てピンときたというのが、何度聞いても不思議である。この人物の「好奇心と探究心」はどんな質のものだったのか。たとえば南方熊楠と対面する機会があったとしたら、話は弾んだか弾まなかったか。
 
> 父は会衆派教会の助祭で厳格なカルヴァン主義者だったが、母は夫の宗教的信念を共有しておらず、子供の科学への興味を奨励した。

 会衆派のカルヴァン主義者というのがあるんですね。何しろこの両親の対照が面白い。『種の起源』の刊行は1859年だからモースは満21歳だった。それが両親との間で話題にのぼることはあっただろうか?
 近代に入ってからは、キリスト教信仰と科学的な世界観は敵対的な文脈で語られるのが相場になっているが、このこと自体、信仰のあり方に対して大きな宿題を投げかけている。戦国末期のカトリック宣教師らは(地動説は別として)当時最新の自然科学的知識を携えて来日し、仏教勢力との争論にあたって大いに駆使した。また、この部分に対する日本の庶民の好奇心の強さと理解力の高さを、感銘をもって記してもいる。科学を包摂できない信仰に何の魅力があるだろうか。

 人柄は、その行動から自ずと知られる。
 1923年(85歳)、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知ったモースは、全蔵書を東京帝国大学に寄付する旨、遺言を書き直した。二年後に他界した後この遺言は忠実に実行され、一万二千冊の蔵書が東京帝国大学に遺贈されている。溥儀が紫禁城内の膨大な量の宝石を義援金として贈ったことを思い出す。

 下記の逸話が面白い。やはり並のつくりではなかったのである。

> 左右の手で別々の文章や絵を描くことができる両手両利きであった。『Japan Day by Day』に掲載されたスケッチも両手を使って描かれたもので、両手を使うので普通の人より早くスケッチを終えることが出来た。講演会でも、両手にチョークを持って黒板にスケッチを描き、それだけで聴衆の拍手喝采を浴びるほどであった。脳を献体するという彼の遺言は、両手両利きの脳のからくりを研究してほしいというモースの希望によるものである。

資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・S・モース

Ω

6月16日 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の連載が始まる(1962年)

2024-06-16 03:14:29 | 日記
2024年6月16日(日)

> 1962年6月16日、アメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンは『沈黙の春』という題名で「ニューヨーカー」紙上に連載を始めた。『沈黙の春』は、「湖水のスゲは枯れはて、鳥は歌わぬ」と言うキーツの詩の引用から始まる。当時アメリカで日常的に行われていた農薬の大量散布が環境に及ぼす影響を論じた警告の書であった。連載終了後、9月27日に単行本として出版されたが、刊行当日に四万部が売れたという。
 連載が始まると賛否両論が巻き起こった。中でも農薬を製造する薬品会社からは強い反発があり、出版妨害もあった。しかし、この問題について初めて知る機会を得た大衆は、彼女を支持した。マスコミもこぞってこの問題を取り上げ、ついには当時の大統領ケネディが直属の科学諮問委員会を設けて調査し、『沈黙の春』の内容がデータとして誤りのない事実であることを確認したのである。
 この本の刊行の二年後、カーソンは癌によって56歳で死去した。今日地球規模で環境汚染は問題となり、さまざまな運動が行われている。われわれの地球を守るという行動の、その最初の扉を大きく動かしたのは、『沈黙の春』という一冊の本であった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.173

 1972年の春、高校に入って最初の生物の授業の際に教科担任の岡村先生が一冊の本を推薦してくださった。『生と死の妙薬』という邦題で、これが『沈黙の春』の訳本だった。

  

 50名弱の同級生の中で、すぐに読んだのはたぶん一人だけ。ときどき話に出てくるRという友人で、生態学や人類学など地球規模でものを言いたがり、一方では無類の昆虫好きという彼の性癖にぴったり合致したのだろう。僕は購入したものの長らく読まずに放ってあった。『沈黙の春』がどうして『生と死の妙薬』に化けるか、そのことの方が気になっていたかもしれない。僕らが高校を出る頃には改題されて文庫入りし、以来『沈黙の春』で通っている。

 レイチェル・カーソン(Rachel Louise Carson、1907年5月27日 - 1964年4月14日)には信奉者が多いが、尤もなことである。レイチェル・カーソン日本協会というものがあり、『沈黙の春』とあわせて『センス・オブ・ワンダー』を高く評価していることが窺われる。茅ヶ崎教会の田村博先生も同協会の会員で、カーソンにたびたび言及なさっている。

 レイチェル・カーソンは生涯を独身で過ごし、1953年以降は作家のドロシー・フリーマンと深い友情を結んだ。『沈黙の春』執筆中から乳癌を患い、同書刊行の二年後に他界したのは上掲書の通り。遺言によって火葬に付されたのもアメリカでは珍しい。
 今年は没後60年にあたり、古書のサイトでも彼女にちなんで環境問題の特集が組まれたりしている。

 そういえば今朝の朝刊一面見出しは、原発の「増設」を認めるという経産省の方針を報じていた。列島全体が常に地震の危険に曝されているという国土の基本条件があり、実際に2011年のあのことがありながら、なお原発に執着できる精神構造は不思議という他ない。カーソンの警告とはやや別の方向から、沈黙の春の危険がわれわれを脅かしている。すぐそこに存在するさし迫った危険である。
写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/レイチェル・カーソン

Ω

6月15日 ジョン王が「マグナ・カルタ」に署名(1215年)

2024-06-15 03:03:40 | 日記
2024年6月15日(土)

> 1215年6月15日、イギリス王ジョンは貴族たちの突きつけた勅許状に署名させられた。これが63条からなる「マグナ・カルタ」(大憲章)である。その内容は、教会が国王から自由であること、課税には貴族たちの同意を必要とすること、自由民を裁判によらずに逮捕してはならぬことなどを含み、要するに国王も法のもとにあることを明文化したもので、これがイイギリス憲法の先駆けとなった。
 これほど国王の権限を制限された文書に署名させられたジョン王は、失政続きの「ダメ国王」だった。フランスに所有していた領地は奪われ、その奪還には失敗し、ローマ教皇との間にトラブルを起こして破門され、さらに国内では、重税を課して貴族や市民の反感を招くといった具合だった。
 「マグナ・カルタ」に署名させられた後も、これを遵守するような王ではなかった。結局、彼の死後、一部に修正を加えられ、1225年にようやく公布されている。
 その後「マグナ・カルタ」の存在はいったんは忘れられたが、17世紀になって、国王と議会との関係を明らかにした文書として再評価され、アメリカ合衆国の建国にも影響を与えた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.172

John
1166年12月24日 - 1216年10月18日または19日

 「ダメ国王」だからこそ「マグナ・カルタ」が世に残ることになった。名君・聖君に対して権力を制限することなど誰も考えないし、できもしない。これが歴史の面白さで、「最高権力者である国王も法の下にある」という原則はヨーロッパの歴史が見出した最良の伝統の一つである。『クアトロ・ラガッツィ』が記すとおり、天正遣欧使節らが目を見張ったのはローマ教皇庁の壮麗でもなければ、ヨーロッパ列強の軍事的充実でもなく ~ それらは安土城と信長を知る彼らに何ほどの驚きでもなかった ~ 「万民が法の下にある」というこの原則だった。
 ジョンはプランタジネット朝(アンジュー朝)第3代のイングランド王である(在位:1199年 - 1216年)。
 父・ヘンリー2世(在位:1150-1189)、兄・リチャード1世(獅子心王、在位:1189-1199)、さらには母・アリエノール・ダキテールまでも巻き込んだ骨肉の争いを、映画『冬のライオン』(1968年、イギリス)で夢中になって追った。
 父ヘンリーはピーター・オトゥール、母エレノアことアリエノールはキャサリン・ヘプバーンである。心動くまいことか。ああまた見たくなった!

Ω



6月14日 柳田国男『遠野物語』出版(1910年)

2024-06-14 03:03:40 | 日記
2024年6月14日(金)

> 1910年(明治43年)6月14日、民俗学者、柳田国男の『遠野物語』が聚精堂から出版された。発行部数は350、定価は50銭だった。
 遠野物語の冒頭は「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり」という一文で始まる。
 柳田が話を聞き出した佐々木鏡石は、本名は佐々木喜善(きぜん)という。鏡石は雅号で、敬愛する泉鏡花から一字を取り、釜石の石と組み合わせたらしい。岩手県上閉伊(かみへい)郡土淵村に生まれ、文学を志して二十歳の時に上京し、哲学館に通った後、早稲田大学師範部の聴講生となった。その頃交友のあった水野葉舟が柳田と親しかった関係で柳田と出会うのである。
 佐々木が訥々と語る話に興味を持った柳田は、毎月二日の夜に彼を家に招き、遠野に伝わる昔話や伝説、世間話を丹念に聞き書きしていく。その記録を整理して出来上がったのが『遠野物語』である。
 『遠野物語』は、公刊時は知人・友人に寄贈されたに過ぎず反響も少なかったが、現在では日本民族学の古典として高い評価を得、多くの読者を獲得している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.171


柳田 國男(やなぎた くにお)
1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)
写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/柳田國男

 「冒頭」とは、初版序文のことである。

 この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをろ訪ね来たり。この話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話し上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思ふに遠野郷にはこの類の物語なほ数百件あるならん。わえわれはより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。

 「陳勝呉広のみ」には驚いた。「王侯将相寧有種也(王侯将相いずくんぞ種あらんや)」、 「平地人」のおさまりかえった学堂を一撃せんとする意気の軒昂たること。そして実際、『遠野物語』は恐ろしく面白いのである。

 山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛といふ人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りてゐたり。顔の色きはめて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。後の験にせばやと思ひてその髪をいささか切り取り、これを綰(わが)ねて懐に入れ、やがて家路に向かひしに、道の程にて耐へがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立ち寄りてまどろみたり。その間夢と現との境のやうなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち眠りは覚めたり。山男なるべしといへり。

 たとえば芥川は『遠野物語』を知っていただろうか。彼が『宇治拾遺物語』や『今昔物語』に取材したように、『遠野物語』に想を求めるということは成り立つものだっただろうか。

Ω

桜桃忌

2024-06-13 03:33:21 | 日記
2024年6月13日(木)

> 1948年(昭和23年)6月13日、太宰治は愛人の山崎富栄とともに玉川上水に投身自殺した。最後の新聞連載となった『グッド・バイ』の執筆のため、同日6日から家を空けており、家族が異変に気づいたのは、14日だった。すぐに捜索願が出されたが、通行人によって遺体が発見されたのは6日後の19日の早朝で、この日は奇しくも太宰の39歳の誕生日にあたっていた。太宰はワイシャツにズボン、富栄は黒のツーピース姿で、二人は離れないように、互いの脇の下から紐で固く結び合っていた。
(中略)
 『グッド・バイ』は5月15日から書き始め、下旬に十回分を渡したが、すでに不眠症と喀血のため、生きるに耐えられない状態に陥っていたという。
 太宰が友人の伊藤春部に残した遺書には、伊藤左千夫の「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という歌が記されていた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.170

(1948年2月頃撮影)
太宰治、本名 津島修治
1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日

作品:
『ロマネスク』『道化の華』『ダス・ゲマイネ』『燈籠』『富嶽百景』『黄金風景』『女生徒』『新樹の言葉』『葉桜と魔笛』『八十八夜』『畜犬談』『皮膚と心』『俗天使』『鷗』『春の盗賊 』『女の決闘』『駈込み訴へ』『走れメロス』『古典風』『乞食学生』『きりぎりす』『東京八景』『清貧譚』『みみずく通信』『佐渡』『千代女』『新ハムレット』『風の便り』『誰』『恥』『十二月八日』『律子と貞子』『水仙』『正義と微笑』『黄村先生言行録』『右大臣実朝』『不審庵』『花吹雪』『佳日』『散華』『津軽』『新釈諸国噺』『竹青』『惜別』『お伽草紙』『パンドラの匣』『十五年間』『冬の花火』『春の枯葉』『雀』『親友交歓』『男女同権』『トカトントン』『メリイクリスマス』『ヴィヨンの妻』『女神』『フォスフォレッスセンス』『眉山』『斜陽』『如是我聞』『人間失格』『グッド・バイ』
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/太宰治

Ω