散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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6月19日:マルクス、イェニーと結婚(1843年)

2024-06-19 03:24:47 | 日記
2024年6月19日(水)

> 1843年6月19日、ドイツの思想家カール・マルクスは、イェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚した。マルクスは25歳。4歳年上のイェニーは29歳だった。結婚式はクロイツナハの小さなルター教会で、家族だけが隣席して行われた。
 結婚後のマルクス家の生活は、決して楽なものではなかった。極度の貧困と当局からの圧力に苦しみ、度々追放されて居所を変えている。その中で常に彼を支えたのが妻イェニーと、無二の親友フリードリヒ・エンゲルスであった。
 不幸なことにマルクスは、5人の子供のうち3人を幼くして亡くしている。人生のあらゆる悲嘆を共にした妻イェニーが69歳で先立った時、マルクスはエンゲルスに「私の思いはほとんど妻の思い出で占められてしまっている」 と嘆いている。
 だが、マルクスとイェニーの関係を複雑にしたのは、貧困や家族の不幸だけではなかった。マルクスはイェニーの召使いで、マルクス家とずっと苦楽を共にしたヘレーネ・デムートとの間にも子供を一人もうけているからだ。この息子、フリードリヒ・デムートはエンゲルスが認知し、その後養子に出されたが、とてもマルクス似だったという。
 ヘレーネは、イェニーの希望で、マルクス家の墓に葬られている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.176


Karl Marx
1818年5月5日 - 1883年3月14日

 マルクスの公認された子どもたち(二男四女)の悲劇的な生涯や、エンゲルスの婚外子と皆が信じ、自分でもそう思わされていたフレディ・デムートの比較的平穏な人生については、下記にそこそこ詳しく記されている。しかし、問題とすべきことは、そうしたスキャンダルとはもちろん別にある。ずっと前からよく分からずにいることで、それを言葉にする準備が依然として整わない。

Ω

6月18日:ド=ゴールが自由フランスを組織(1940年)

2024-06-18 03:44:26 | 日記
2024年6月18日(火)

> 1940年6月18日、フランス陸軍准将シャルル・ド=ゴールは、イギリスBBC放送を通じて、ドイツに対するレジスタンス活動を呼びかける演説をした。その四日前にドイツ軍はパリを占領し、17日にはフランスはドイツに降伏していた。ド=ゴールはイギリスに渡り、ラジオで「何が起ころうともフランスの抵抗の炎を消してはならない」と言う自由フランス結成の呼びかけを行ったのである。
 この最初の呼びかけは、彼が軍人で一般的には無名だったことから、それほど大きな反響はなかった。しかし、イギリスのチャーチル首相は、「彼は小さな飛行機でフランスの栄光を運んできた」と讃え、「イギリスと連合し、アメリカの産業協力によってドイツ軍を敗北させる」というド=ゴールの考え方に賛意を表したのである。
 この年の秋にはフランスの各植民地がド=ゴールのもとに結集し、武装組織自由フランス軍となって連合軍に参加した。その規模は当初八千人余りだったが、四年後には四十万人に膨れ上がり、ノルマンディー上陸作戦ではルクレール将軍率いるフランス第二装甲師団がこれに参加した。そして、1944年8月、ついにパリ解放を果たしたのである。
 その後、ド=ゴールは救国の英雄としてフランス共和国首相となり、さらに1958年12月には大統領となった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.175

 
Charles André Joseph Marie de Gaulle
1890年11月22日 - 1970年11月9日

 戦時に強い独裁者肌のリーダーで文才に恵まれていたあたり、チャーチル(1874-1965)とド・ゴールは妙に似ている。チャーチルはボーア戦争で捕虜となったが、便所の窓から脱走して名を挙げた。ド・ゴールの方は第一次世界大戦で捕虜となり、五回脱走を企てて五回とも捕まっている。全体戦争のさなかに脱走を繰り返しながら銃殺されもしないのが不思議なところで、戦争法規などというものは戦争をゲーム化し残酷さを希釈することによって、戦争という愚行を可能にするためにあるのではないかとも思われる。
 ルーズベルトはド・ゴールを忌み嫌い「あんな人間はマダガスカルの知事でもさせておけばよい」と吐き捨てたらしいが、これはルーズベルトが尊大傲慢の馬脚を現したというところ。チャーチルはどうだったか知らず、チャーチル夫人はド・ゴールの熱烈なファンだったらしい。
 イギリス国民は第二次大戦後にチャーチルをお役御免にしたが、フランス国民はド・ゴールを大統領に担いで第五共和制の舵取りを委ねた。何かと対比が面白く、『対比列伝』の現代版を編むなら「ヒトラー vs スターリン」の次あたりに「チャーチル vs ド・ゴール」が位置すること必定である。
 ド・ゴールは193cmの長身から「アスパラガス l`asperge」 と呼ばれた由。煮ても焼いても食えないこの巨魁の譬えにされたのでは、美味なるアスパラガスが気の毒に思われる。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/シャルル・ド・ゴール

Ω

6月17日:大森貝塚を発見したモース博士、初来日(1877年)

2024-06-17 03:30:03 | 日記
2024年6月17日(月)

> 1877年(明治10年)6月17日、アメリカの動物学者エドワード・シルヴェスター・モースが初来日した。 彼の専門分野は貝類で、日本に多種類の腕足類が生息することを知り、研究のためにやってきたのである。しかし来日の翌々日、彼は思いがけないものを発見する。汽車で横浜から東京へ移動する途中、大森で線路脇に貝殻らしきものを見かけたのだ。3ヶ月後の9月16日、モースはさっそく発掘調査を開始する。日本初の考古学の発掘調査だった。
 モースは若い頃、学者というよりは、コレクターとして貝の収集を始めた。絵が得意だったことから製図工として働きつつ貝の収集をしていたのだが、その見事なコレクションが多くの愛好家や研究者に知られるようになり、動物学の研究者となった。来日したのも純粋に収集のためだったが、東京大学の教授の職につき、以後三回来日して1880年まで教鞭をとっている。
 進化論を日本に紹介したのもモースである。また、神奈川県の江ノ島に臨海研究所を創設し、腕足類の研究にも貢献した。
 彼のコレクターとしての収集品は、「モース・コレクション」として、後年彼が館長を務めたセイラム市のピーボディ博物館に保管されている。「偉大なる日本の友」モース博士は、多くの日本の学生に、好奇心と探究心が学問の原点であることを教えた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.174

Edward Sylvester Morse
1838年6月18日 - 1925年12月20日

 モールス信号のモールスと原語の綴り・発音は同一である。京浜東北線で大井町の一つ南が大森で、この駅名を見ると決まってモースと貝塚を連想する。大森駅のホーム中央付近には「日本考古学発祥の地」という碑があり、縄文土器の形をしたブロンズ像が置かれている。数年前に写真に撮ったはずだが探し出せない。
 腕足類という海中の生き物に御執心の人物が、いわばその遺骸の人為的な集積である貝塚を見てピンときたというのが、何度聞いても不思議である。この人物の「好奇心と探究心」はどんな質のものだったのか。たとえば南方熊楠と対面する機会があったとしたら、話は弾んだか弾まなかったか。
 
> 父は会衆派教会の助祭で厳格なカルヴァン主義者だったが、母は夫の宗教的信念を共有しておらず、子供の科学への興味を奨励した。

 会衆派のカルヴァン主義者というのがあるんですね。何しろこの両親の対照が面白い。『種の起源』の刊行は1859年だからモースは満21歳だった。それが両親との間で話題にのぼることはあっただろうか?
 近代に入ってからは、キリスト教信仰と科学的な世界観は敵対的な文脈で語られるのが相場になっているが、このこと自体、信仰のあり方に対して大きな宿題を投げかけている。戦国末期のカトリック宣教師らは(地動説は別として)当時最新の自然科学的知識を携えて来日し、仏教勢力との争論にあたって大いに駆使した。また、この部分に対する日本の庶民の好奇心の強さと理解力の高さを、感銘をもって記してもいる。科学を包摂できない信仰に何の魅力があるだろうか。

 人柄は、その行動から自ずと知られる。
 1923年(85歳)、関東大震災による東京帝国大学図書館の壊滅を知ったモースは、全蔵書を東京帝国大学に寄付する旨、遺言を書き直した。二年後に他界した後この遺言は忠実に実行され、一万二千冊の蔵書が東京帝国大学に遺贈されている。溥儀が紫禁城内の膨大な量の宝石を義援金として贈ったことを思い出す。

 下記の逸話が面白い。やはり並のつくりではなかったのである。

> 左右の手で別々の文章や絵を描くことができる両手両利きであった。『Japan Day by Day』に掲載されたスケッチも両手を使って描かれたもので、両手を使うので普通の人より早くスケッチを終えることが出来た。講演会でも、両手にチョークを持って黒板にスケッチを描き、それだけで聴衆の拍手喝采を浴びるほどであった。脳を献体するという彼の遺言は、両手両利きの脳のからくりを研究してほしいというモースの希望によるものである。

資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・S・モース

Ω

6月16日 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の連載が始まる(1962年)

2024-06-16 03:14:29 | 日記
2024年6月16日(日)

> 1962年6月16日、アメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンは『沈黙の春』という題名で「ニューヨーカー」紙上に連載を始めた。『沈黙の春』は、「湖水のスゲは枯れはて、鳥は歌わぬ」と言うキーツの詩の引用から始まる。当時アメリカで日常的に行われていた農薬の大量散布が環境に及ぼす影響を論じた警告の書であった。連載終了後、9月27日に単行本として出版されたが、刊行当日に四万部が売れたという。
 連載が始まると賛否両論が巻き起こった。中でも農薬を製造する薬品会社からは強い反発があり、出版妨害もあった。しかし、この問題について初めて知る機会を得た大衆は、彼女を支持した。マスコミもこぞってこの問題を取り上げ、ついには当時の大統領ケネディが直属の科学諮問委員会を設けて調査し、『沈黙の春』の内容がデータとして誤りのない事実であることを確認したのである。
 この本の刊行の二年後、カーソンは癌によって56歳で死去した。今日地球規模で環境汚染は問題となり、さまざまな運動が行われている。われわれの地球を守るという行動の、その最初の扉を大きく動かしたのは、『沈黙の春』という一冊の本であった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.173

 1972年の春、高校に入って最初の生物の授業の際に教科担任の岡村先生が一冊の本を推薦してくださった。『生と死の妙薬』という邦題で、これが『沈黙の春』の訳本だった。

  

 50名弱の同級生の中で、すぐに読んだのはたぶん一人だけ。ときどき話に出てくるRという友人で、生態学や人類学など地球規模でものを言いたがり、一方では無類の昆虫好きという彼の性癖にぴったり合致したのだろう。僕は購入したものの長らく読まずに放ってあった。『沈黙の春』がどうして『生と死の妙薬』に化けるか、そのことの方が気になっていたかもしれない。僕らが高校を出る頃には改題されて文庫入りし、以来『沈黙の春』で通っている。

 レイチェル・カーソン(Rachel Louise Carson、1907年5月27日 - 1964年4月14日)には信奉者が多いが、尤もなことである。レイチェル・カーソン日本協会というものがあり、『沈黙の春』とあわせて『センス・オブ・ワンダー』を高く評価していることが窺われる。茅ヶ崎教会の田村博先生も同協会の会員で、カーソンにたびたび言及なさっている。

 レイチェル・カーソンは生涯を独身で過ごし、1953年以降は作家のドロシー・フリーマンと深い友情を結んだ。『沈黙の春』執筆中から乳癌を患い、同書刊行の二年後に他界したのは上掲書の通り。遺言によって火葬に付されたのもアメリカでは珍しい。
 今年は没後60年にあたり、古書のサイトでも彼女にちなんで環境問題の特集が組まれたりしている。

 そういえば今朝の朝刊一面見出しは、原発の「増設」を認めるという経産省の方針を報じていた。列島全体が常に地震の危険に曝されているという国土の基本条件があり、実際に2011年のあのことがありながら、なお原発に執着できる精神構造は不思議という他ない。カーソンの警告とはやや別の方向から、沈黙の春の危険がわれわれを脅かしている。すぐそこに存在するさし迫った危険である。
写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/レイチェル・カーソン

Ω

6月15日 ジョン王が「マグナ・カルタ」に署名(1215年)

2024-06-15 03:03:40 | 日記
2024年6月15日(土)

> 1215年6月15日、イギリス王ジョンは貴族たちの突きつけた勅許状に署名させられた。これが63条からなる「マグナ・カルタ」(大憲章)である。その内容は、教会が国王から自由であること、課税には貴族たちの同意を必要とすること、自由民を裁判によらずに逮捕してはならぬことなどを含み、要するに国王も法のもとにあることを明文化したもので、これがイイギリス憲法の先駆けとなった。
 これほど国王の権限を制限された文書に署名させられたジョン王は、失政続きの「ダメ国王」だった。フランスに所有していた領地は奪われ、その奪還には失敗し、ローマ教皇との間にトラブルを起こして破門され、さらに国内では、重税を課して貴族や市民の反感を招くといった具合だった。
 「マグナ・カルタ」に署名させられた後も、これを遵守するような王ではなかった。結局、彼の死後、一部に修正を加えられ、1225年にようやく公布されている。
 その後「マグナ・カルタ」の存在はいったんは忘れられたが、17世紀になって、国王と議会との関係を明らかにした文書として再評価され、アメリカ合衆国の建国にも影響を与えた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.172

John
1166年12月24日 - 1216年10月18日または19日

 「ダメ国王」だからこそ「マグナ・カルタ」が世に残ることになった。名君・聖君に対して権力を制限することなど誰も考えないし、できもしない。これが歴史の面白さで、「最高権力者である国王も法の下にある」という原則はヨーロッパの歴史が見出した最良の伝統の一つである。『クアトロ・ラガッツィ』が記すとおり、天正遣欧使節らが目を見張ったのはローマ教皇庁の壮麗でもなければ、ヨーロッパ列強の軍事的充実でもなく ~ それらは安土城と信長を知る彼らに何ほどの驚きでもなかった ~ 「万民が法の下にある」というこの原則だった。
 ジョンはプランタジネット朝(アンジュー朝)第3代のイングランド王である(在位:1199年 - 1216年)。
 父・ヘンリー2世(在位:1150-1189)、兄・リチャード1世(獅子心王、在位:1189-1199)、さらには母・アリエノール・ダキテールまでも巻き込んだ骨肉の争いを、映画『冬のライオン』(1968年、イギリス)で夢中になって追った。
 父ヘンリーはピーター・オトゥール、母エレノアことアリエノールはキャサリン・ヘプバーンである。心動くまいことか。ああまた見たくなった!

Ω