散日拾遺

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幸運と祝福と

2020-08-06 09:16:02 | 日記
2020年8月6日(木)
 関千枝子著『広島第二県女二年西組』を天声人語が紹介している。
 「著者の関さんも西組の生徒だったが、体調が悪くて欠席したために、死を免れた。著書でこう問いかけている。生き残った自分は「運のよい子」だと言われる。では、原爆で死んだ人たちのことは「運が悪かった」というのか。」

 似たことを家庭の内外で何度も考えた。その年代に生まれながら偶然の結果として戦場に赴くことなく、一発の弾も撃たずに終戦を迎えたことを、たぐいまれな「祝福」として回顧する信徒がいた。彼のポイントは自分が殺されずに済んだことよりも、人を殺さずに済んだところにある。その点でも他の点でも、きわめて良心的であり倫理的でもある人柄については、よくよく知っていた。
 それでもなお彼の喜びに与することができないのは、心ならずも銃を担い敵を殺した同世代人のことを思うからである。彼らは祝福から漏れたのか、祝福とはそのように差別的なものなのか、祝福に漏れるとは薄められた呪いに等しいものであるだろうに。
 この問題は実は至るところにある。なぜ自分はその病にかからず、彼がかかったのか。なぜその場所にいたのが彼女であって、自分ではなかったのか。自身の息災を感謝するのは当然だが、それを祝福と意味づけるには躊躇がなければならない。大事な意味をもつ躊躇である。
 自分の受くべき災いを、その人々が代わりに負ってくれたという認識、無事であった自分には、その人々から託された役目があるという意識。それらと撚り合わせることなく、宙に浮いた祝福を語ることに価値は見出せない。

 被爆からコロナ罹患まで、深く通底する歴史の教えである。

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