散日拾遺

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イノック・アーデン

2020-11-10 09:37:15 | 読書メモ
2020年11月10日(火)
 築百年近く、戦災・天災を免れて堅牢ぶりを保っている旧家からは、片づけや掃除の度に何かしら意味ありげな古物が転がり出てくる。門をはさんで左右に納屋がある、その古い方の戸を開けてみると、むき出しの地面に黄色い木製の本棚が置かれ、数冊の本が埃をかぶっている。『裸者と死者』という字が見える。この家の誰が、どんな気もちでこの作品を読んだか、あるいは読まなかったのか。
 その傍らに置かれた薄い一冊は、包装紙でカバーが施してあり、厚く積もった埃がさらに包装をかけている。軽く吹いて舞い上がった塵が、曇ガラス越しの日差しの中をきらきら流れていく。裏表紙を開くと、そこに二人分の署名が筆跡の違った英字で記されてあった。発行年は昭和25年、案の条の掘り出し物である。

 中身は『イノック・アーデン』、詳細な注を付けて対訳は載せない、大学などの読本教材仕様である。お初に読んでみたいが、貴重な出土品を傷めたくないので、別に Amazon で古本を一冊購った。こちらは研究社から昭和59年に出たもので、初版は昭和27年とある。
 全 911行の原文を、日曜の校務出勤の行き帰りにゆっくり辿ってみた。こういう物語であることも知らずにいたが、夫の帰りを待ちわびて別の男性を受け容れる(あるいは受け容れない)というテーマは、オデュセウス/ペネロペ以来の古今東西で、数え切れないほど扱われてきたことだろう。それほど現実にあり得ることだったと思われる。
 桂冠詩人テニスン(Alfred Tennyson 1809-1892)の雅を味わう英語の力量はないが、Enoch と Philip の性格の描き分けや、異質な善良さの対比を味わうには十分である。白眉は774行以下、イノックの信仰による自制の場面で、テニスン自身が進化論による信仰の動揺を経験したことを思えば、ここに何ほどか自身の思いが重ねられているに違いない。
 Enoch の名は旧約聖書のエノクに由来する。エノクは聖書の登場人物中で最長寿とされるメトシェラの父であり、自身は「365年生き、神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」とある(創世記 5:23-4)。これを受けて新約には、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移された。神が彼を移されたので、見えなくなった。移される前に、神に喜ばれていた証しである。」と記されている(ヘブライ人への手紙 11:5)。このような旅立ち方をした人が、現に身近にあった。
 そのように祝福されたエノクの名を、詩人は主人公のために選んだのである。

And there he would have knelt, but that his knees
Were feeble, so that falling prone he dug
His fingers into the wet earth, and pray'd
'Too hard to bear !  why did they take me thence ?
O God Almighty, blessed Saviour, Thou
That didst uphold me on my lonely isle,
Uphold me, Father, in my loneliness
A little longer !  aid me, give me strength
Not to tell her, never to let her know.
Help me not to break in upon her peace.
My children too !  must I not speak to these ?
They know me not.  I should betray myself.
Never :  No father's kiss for me - the girl
So like her mother, and the boy, my son.'
(774-787)


 "A little longer !"
 ここに鍵がある。永遠に、ではない。いましばらく、もう少し、ただ一時(いっとき)忍耐する力を、全能の主よ与え給え!



Ω