散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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善と非悪と

2021-06-23 16:16:26 | 日記
2021年6月23日(水)

 つまりそういう次第で、悪は与しやすく善は甚だ遠い。仕方がないので、自分の悪が下火になっていることをもって、さしあたり善の代わりに繕っておく。人は知らず、自分はそうだ。
 以前にも書いただろうか、「ジキルとハイド」のテーマを「善と悪の相克」だと言ったら、読んでいないことがたちどころにバレる。スティヴンソンの原作の中でハイド氏はまぎれもない悪人だが、ジキル博士はとりたてて善なる人ではなく、良識ある一般市民という程度のものである。それを対比したのがスティヴンソンの炯眼というものだ。

 「あれであいつは、決して悪いやつではない」などというのは何も言ってないのと同じだと、これは高校時代の超悪友Rの警句の一つだったが、思い返せば仰せの通り。とりたてて悪人ではない者が、状況次第で盗人にも人殺しにも化けるのが、人なるものの標準形である。決して化けない非悪の人は既に善の大家だが、誰がそうなのかはその時が来てみないとわからない。
 「大きな悪は姑息な善に勝る」というのもRの託宣の一つだった。大きな悪は大きな善に転化する可能性をもつが、姑息な善はいつまでたっても姑息なままで役には立たぬという趣旨だったろうか。寝言を言ってる間に、気づけば周りは姑息なのやら大きなのやら、内も外も悪だらけの真っ黒けである。

 善とは何か。ピラトは「真理とは何か」と言ったのだが、善と言い換えてもたぶん大きくは違わない。イエスを極刑から救おうと彼なりに努めたピラトは、決して悪いやつではない。

Ω

『箴言と考察』から

2021-06-23 15:16:38 | 日記
2021年6月23日(水)
 沖縄慰霊の日、76周年。当ブログを綴り始めて3000日。
 新聞の一面は「赤木ファイル」開示の件。雅子夫人の志が実を結ぶよう切に祈る。故人と夫人とのためばかりではない、この国のためでもある。

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 ずっと捜していた言葉にようやく行き当たった。記憶の中でわずかに修正されていたために、何度見ても見過ごしていたのである。小さな錯誤が大きな破綻につながるのは、こんな事情かも知れない。

 「何人も、意地悪であるだけの力をもたないかぎり、親切な人としてほめられる資格はない。そんな意味以外の親切はどんな親切も、ほとんどつねに、怠惰か、さもなければ意志の衰耗にすぎない。」
ラ・ロシュフコオ『箴言と考察』237

 「意地悪/親切」を「悪/善」に置き換えた同旨の警句が、確か『ツァラトゥストラ』にあったように記憶するが、この記憶もあてにはならない。
 ついでのことに『箴言と考察』から、忘れないうちに抜き書きしておこう。

22 哲学は、過去の禍と将来の禍にはたやすくうち勝つが、現在の禍は哲学にうち勝つ。

44 精神の強さとか弱さとかいうのは、うまい物言いではない。それは実のところ、肉体機関の配置がうまく行っているとか行っていないとかいうだけのことだ。

226 あまりにも性急に恩返ししようとするのは、一種の忘恩行為である。

266 野心や恋愛のように激しい情熱ばかりが、ほかの情熱に打ち克てると思うのは誤りである。なまけ心は、どんなにだらしなくはあっても、しばしば情熱の覇者たらずにいない。それは、人生のあらゆる企図とあらゆる行為を蚕食し、人間の情熱と美徳とを知らず知らずのうちに破壊し絶滅する。

330 人は他を愛するかぎり、他の罪を赦すものだ。

357 量見の小さい連中は、小さなことにひどく気を悪くする。量見の大きな人は、小さなことを一つもらさず見きわめて、それに気を悪くなどしない。

328 人を羨む心は、人を憎む心よりもっと始末におえない。

376 羨望の情はほんとうの友情によって、媚を弄ぶ心はほんとうの愛によって破壊される。

 どれもこれも耳が痛い。次のものは珍しく訳がヨレている。こういうのを見ると原語を確認したくなるが、どう訳しても難しいに違いない。

621 つねに親切であるためには、われわれに意地悪くしたら必ず罪の報いがあることを、他人が信じている必要がある。

 書き抜いたものの中でいちばん「こたえる」のは「怠惰」に関するものだが、どうやら作者自身も同様であったらしい。末尾近くに珍しく長文の項目がある。

630 なまけ心こそは、あらゆる情熱のうちで、われわれにとって全く未知のものである。その激しさがそれと感じられなくとも、その引きおこす損害が人目の及ばぬ深みにあろうとも、それはあらゆる情熱のうちで最も激しく、かつ最も毒々しいものなのである。もしわれわれがその力を注意深く見つめるなら、なまけ心は折あるごとに、われわれの感情と、利益と、快楽とを左右していることがわかる。それは、どんなに大きな船をも阻むことのできる小判鮫(註)である。いささかもゆるがせにしてはならない仕事にとっては、暗礁にも大暴風にもまして危険な大凪である。なまけ心にひかされて静かに腰を据えているのは、魂のひそかな楽しみであるとはいえ、それはいかに熱心な詮索をも、いかに根強い決意をも、突如として遮るのである。かような情熱が真にいかなるものであるか、人をして知らしめるためには、こう言わなければならない。なまけ心とは、静かに満ち足らえる心を思わせるもので、それがなまけ心に対してそのあらゆる損失を慰め、またあらゆる利益に代わるのである、と。

 註: 小判鮫(remora)は頭部に粘着盤を持っているところから、大船の進行をも阻むという古伝説があったという(岩波文庫版、内藤濯訳)

François VI, duc de La Rochefoucauld, 1613 - 1680
(https://ja.wikipedia.org/wiki/フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー)

Ω