たまには映画でも観に行こうかと思っていた日曜日ですが、その前日にドレンテ州に住む叔母を訪ねることに急遽決まりました。
叔母といっても、夫の叔母なので、正式には義叔母です。クリスマスカードのやりとりはあったのですが、私は一度も会ったことがありませんでした。昨年、私たちはクリスマスカードを送ったのですが、その返事のカードが金曜日に着きました。そこには、「喉頭がんになってしまって、放射線治療でいったん消えたのですが、クリスマス頃に喉の痛みが出て、お医者さんに行ったら、あちこちに転移していて、手の施しようがないとのこと」とありました。
それで、土曜日に夫が電話をかけて、日曜日に早速訪ねることになったのです。
空はねずみ色、雨が時折降り、風の強い悪天候の中、車で約2時間。叔母の家は、オランダの北東の端のほうにあります。
夫は子ども時代にその家にときどき遊びに行ったことがあり、叔父と叔母との良い思い出があるそうです。しかし、大きくなってからは会っておらず、今回の再会は20数年ぶり。叔父は9年ほど前にがんでなくなっており、子どもがいないので、叔母は一人暮らしです。
ドレンテの小さな町からも離れた、四方に畑や放牧地があり、道に沿って街路樹が並ぶ美しいドレンテの田舎に叔母の家はありました。
叔母は笑顔で迎えてくれました。居間に通してもらい、大きな窓がテラス側にあり、その窓からの風景は絵のように美しかったです。とても大きな自然の池が二つあり、緑の芝生と放牧場が広がっています。そこには一頭の羊が草をはんでいました。叔母の話では、もう一頭いるそうですが、木々に隠れているのか見えませんでした。
居間には、暖炉があり、薪をくべて暖をとっていました。とても静かで、外から時折風の音が聞こえ、暖炉の中で木が燃えるパチパチという音が聞こえる中、コーヒーを片手に約2時間話しました。
叔母は71歳。夫の父の妹です。しかし、夫の父とは数年前から些細なことで諍いがあり音信不通。もうひとり姉が居たのですが、すでに他界しています。
医師からは余命について「2,3週間から一年、人によって違うのではっきりとは言えない」と言われたそうです。飲み物は少しなら飲めますが、食べることはできず、直接胃に流動食をカテーテルで入れているそうです。それでも、思ったより元気で、車を運転して買い物にも行けるし、普通の生活ができているとのこと。ただ、だんだんとできることができなくなり、死が今年中に訪れるのはほぼ確実なことなのです。
叔母は「とても変な気持ちだ」と繰返し言いました。最近は、今まで付けてきた日記帳を読み返し、最愛の夫との思い出を反芻したりしているようです。そして、これまで大切にしてきた思い出の品や貴重品の始末をゆっくりとしているとのこと。死後、それらがノミの市などに出てしまうことを恐れているそうです。
私も4年ほど前に病気で死を身近に感じたときに、自分の個人的な品々(メモや日記など)を捨てなければと思いました。また同時に、捨ててしまうとほんとうに死んでしまうようで躊躇もあり、身体的にも捨てたりする所作が億劫なほど弱っていたので、結局捨てずにいましたが、叔母の気持ちが痛いほどよくわかりました。
71歳といっても一人で何でもでき、年寄りという感じはしませんでした。こんな困難な状況にありながらも、涙を流すこともなく、感情的になることもなく、たんたんと冷静に受け止め、話していました。
夫が昔の思い出を語ったり、叔父の話になると、うれしそうでした。
食べ物の話にもなりましたが、叔母はもう何も食べることができません。もう何も食べられずに、死を迎えるのです。キッチンも見せてもらいましたが、大きなキッチンに大きな冷蔵庫、冷凍庫。そこにはもう食品は必要ないのです。それでも、客人のためにクッキーなどは用意してあり、私たちはそれをいただきました。
声は少ししゃがれていて、時折咳き込みますが、ふつうにしゃべっていました。当面は、食べられないこと以外は大丈夫そうなので、少し安心しました。
しかし、よくなるという希望がなく、だんだんと悪化するだけだということを受けとめなくてはならないことは、とてもとても辛いことだと思います。
私の場合は、それでも良くなるという希望があったからこそ、頑張れたのだと思います。
叔母はとても強い人だなと思いました。でも、強いとかそういうことではなく、そのような状態になったら、人はそれを受けとめる以外に他に方法はないのも真実です。
「あと1年もすれば、この家が他人の手に渡り、他の人がこの居間からこの池と羊の風景を見ているのかと思うと、不思議な気がする」と言っていました。
自分がこの世から居なくなって、自分の周りの物もすべて処分されてしまうということを見つめながら、死を待つ時間というのはどういうものなのでしょうか。まだ家族や、残された人々のことについて思いがあり、その人の中で自分は生きると思える人もいるのでしょうが、自分が死ぬことで自分とそして最愛の夫の思い出も、一緒に過ごした家も思い出の品も何もかもこの世からなくなってしまってと考えると余計に辛さが増してしまいます。
全身に転移し、痛みに苦しむようになったら、安楽死の処方も考えているそうです(これはオランダでは認められています)。そうやって、自分の死後の所持品の始末だけでなく、自分の死期までも自分で采配しなくてはいけないことに悲しさを感じないわけではないですが、それはそれで一人の人間として立派な終わりの付け方だとも思います。
オランダの老人はよく「Mooi leven(美しい人生、良い人生)を持った」と言います。だからもう死んでも後悔はないという意味合いです。私は帰りの車の中で夫に訊きました。叔母は、Mooi levenを持ったのかと。夫は、「そう思うよ。ただ、もっとKees(叔母の夫)と長く一緒に居たかったというのはあると思うけど…」
もし機会があれば、また叔母を訪ねることがあると思います。別れ際には、「Tot ziens(じゃ、またね)」と言って別れました。
今は、ひじょうに複雑な気持ちです。
体調はそこそこ良好です。まだ風邪は全快していません。
叔母といっても、夫の叔母なので、正式には義叔母です。クリスマスカードのやりとりはあったのですが、私は一度も会ったことがありませんでした。昨年、私たちはクリスマスカードを送ったのですが、その返事のカードが金曜日に着きました。そこには、「喉頭がんになってしまって、放射線治療でいったん消えたのですが、クリスマス頃に喉の痛みが出て、お医者さんに行ったら、あちこちに転移していて、手の施しようがないとのこと」とありました。
それで、土曜日に夫が電話をかけて、日曜日に早速訪ねることになったのです。
空はねずみ色、雨が時折降り、風の強い悪天候の中、車で約2時間。叔母の家は、オランダの北東の端のほうにあります。
夫は子ども時代にその家にときどき遊びに行ったことがあり、叔父と叔母との良い思い出があるそうです。しかし、大きくなってからは会っておらず、今回の再会は20数年ぶり。叔父は9年ほど前にがんでなくなっており、子どもがいないので、叔母は一人暮らしです。
ドレンテの小さな町からも離れた、四方に畑や放牧地があり、道に沿って街路樹が並ぶ美しいドレンテの田舎に叔母の家はありました。
叔母は笑顔で迎えてくれました。居間に通してもらい、大きな窓がテラス側にあり、その窓からの風景は絵のように美しかったです。とても大きな自然の池が二つあり、緑の芝生と放牧場が広がっています。そこには一頭の羊が草をはんでいました。叔母の話では、もう一頭いるそうですが、木々に隠れているのか見えませんでした。
居間には、暖炉があり、薪をくべて暖をとっていました。とても静かで、外から時折風の音が聞こえ、暖炉の中で木が燃えるパチパチという音が聞こえる中、コーヒーを片手に約2時間話しました。
叔母は71歳。夫の父の妹です。しかし、夫の父とは数年前から些細なことで諍いがあり音信不通。もうひとり姉が居たのですが、すでに他界しています。
医師からは余命について「2,3週間から一年、人によって違うのではっきりとは言えない」と言われたそうです。飲み物は少しなら飲めますが、食べることはできず、直接胃に流動食をカテーテルで入れているそうです。それでも、思ったより元気で、車を運転して買い物にも行けるし、普通の生活ができているとのこと。ただ、だんだんとできることができなくなり、死が今年中に訪れるのはほぼ確実なことなのです。
叔母は「とても変な気持ちだ」と繰返し言いました。最近は、今まで付けてきた日記帳を読み返し、最愛の夫との思い出を反芻したりしているようです。そして、これまで大切にしてきた思い出の品や貴重品の始末をゆっくりとしているとのこと。死後、それらがノミの市などに出てしまうことを恐れているそうです。
私も4年ほど前に病気で死を身近に感じたときに、自分の個人的な品々(メモや日記など)を捨てなければと思いました。また同時に、捨ててしまうとほんとうに死んでしまうようで躊躇もあり、身体的にも捨てたりする所作が億劫なほど弱っていたので、結局捨てずにいましたが、叔母の気持ちが痛いほどよくわかりました。
71歳といっても一人で何でもでき、年寄りという感じはしませんでした。こんな困難な状況にありながらも、涙を流すこともなく、感情的になることもなく、たんたんと冷静に受け止め、話していました。
夫が昔の思い出を語ったり、叔父の話になると、うれしそうでした。
食べ物の話にもなりましたが、叔母はもう何も食べることができません。もう何も食べられずに、死を迎えるのです。キッチンも見せてもらいましたが、大きなキッチンに大きな冷蔵庫、冷凍庫。そこにはもう食品は必要ないのです。それでも、客人のためにクッキーなどは用意してあり、私たちはそれをいただきました。
声は少ししゃがれていて、時折咳き込みますが、ふつうにしゃべっていました。当面は、食べられないこと以外は大丈夫そうなので、少し安心しました。
しかし、よくなるという希望がなく、だんだんと悪化するだけだということを受けとめなくてはならないことは、とてもとても辛いことだと思います。
私の場合は、それでも良くなるという希望があったからこそ、頑張れたのだと思います。
叔母はとても強い人だなと思いました。でも、強いとかそういうことではなく、そのような状態になったら、人はそれを受けとめる以外に他に方法はないのも真実です。
「あと1年もすれば、この家が他人の手に渡り、他の人がこの居間からこの池と羊の風景を見ているのかと思うと、不思議な気がする」と言っていました。
自分がこの世から居なくなって、自分の周りの物もすべて処分されてしまうということを見つめながら、死を待つ時間というのはどういうものなのでしょうか。まだ家族や、残された人々のことについて思いがあり、その人の中で自分は生きると思える人もいるのでしょうが、自分が死ぬことで自分とそして最愛の夫の思い出も、一緒に過ごした家も思い出の品も何もかもこの世からなくなってしまってと考えると余計に辛さが増してしまいます。
全身に転移し、痛みに苦しむようになったら、安楽死の処方も考えているそうです(これはオランダでは認められています)。そうやって、自分の死後の所持品の始末だけでなく、自分の死期までも自分で采配しなくてはいけないことに悲しさを感じないわけではないですが、それはそれで一人の人間として立派な終わりの付け方だとも思います。
オランダの老人はよく「Mooi leven(美しい人生、良い人生)を持った」と言います。だからもう死んでも後悔はないという意味合いです。私は帰りの車の中で夫に訊きました。叔母は、Mooi levenを持ったのかと。夫は、「そう思うよ。ただ、もっとKees(叔母の夫)と長く一緒に居たかったというのはあると思うけど…」
もし機会があれば、また叔母を訪ねることがあると思います。別れ際には、「Tot ziens(じゃ、またね)」と言って別れました。
今は、ひじょうに複雑な気持ちです。
体調はそこそこ良好です。まだ風邪は全快していません。