20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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秩父困民党

2022年10月11日 | Weblog
            

秩父に住んでいる、従兄弟のKちゃんが、椋神社の写真を送ってくれました。
(上)
「この季節になると、秩父困民党のことが、頭をよぎります」と。
ということは、農民たちの蜂起は、秋の今頃?

記憶力のいいKちゃんは、私の100倍も、昔のことを覚えています。
「ジュンコちゃん、それは高校一年の時の話だよ。記憶違いだよ」と、拙blogを読んで、訂正メールをくれたりして、正しい昔の話を思い出すこともしばしば。

彼は父方の従兄弟ですが、先日、私が、母方の従兄弟のOちゃんのことを書いて、その時、二人は、早稲田の法学部まで一緒で、仲良しだったという話を書いて、懐かしく思い出したようです。

奥さんと二人で、椋神社に行って、吉田町の、龍勢祭りを見てきたと・・・。
元気そうな、Kちゃんの写真も添付してありました。

もう何年もあっていませんが、お変わりありません。

そのメールを、懐かしく読み、椋神社の話を夫としていました。
秩父事件を描いた、「草の乱」という映画を、丸の内でやったのを、夫と見に行ったことがあります。

私は秩父の生まれなので、秩父困民党の話も、本もたくさん読みました。

父が生きていた頃から、母が亡くなるまで、お正月と、夏休みには、姉夫婦一家、弟夫婦一家、我が家の一家。
全員が、母の家にお泊まりに行っていました。

その子どもの頃からの思い出があるので、息子が
「今度は、自分たちの子どもに、同じような体験をさせてあげたい」と、始まった、我が家での、年二回のお泊まり会です。
これは、もう母が亡くなってからの話ですが・・・。

秩父の家にお泊まりした翌朝は、義兄の提案で、「今回は、どこどこへ行こうと」と、
三台の車を連ねていろいろ見て歩きました。

ある時、椋神社へ行くことになりました。
秩父困民党の農民たちが、貧しさの中で、年貢をむしり取られ、生きることもままならなくなり、この椋神社に集まり、のちに蜂起します。

その蜂起のきっかけとなった、椋神社そばの、切り立った谷も見てきました。
痩せ細った、農作物など何もとれないような、山また山に囲まれた畑です。
こんな場所で、必死に作物を作り、生き抜いていくのは困難です。
桑畑を作って、養蚕業も細々とやっていました。
そこで作った製糸は、横浜港からフランスに輸出されていました。
ところが、世界大恐慌により、製糸の大暴落。
農民の困窮は、さらに深まります。

その場所は、山の端に陽が隠れてしまうと、凍えるような寒さです。

秩父市のご出身である、近代フランス史がご専門の、井上幸治 さんの『秩父事件 自由民権期の農民蜂起』も読みました。
井上さんは、もう20年くらい前にお亡くなりになってしまいましたが、東大を出て、平凡社の編集者。そして神戸大学の教授になった人です。

また秩父に在住されていた、中澤市朗さんも「秩父困民党」の研究者として、有名な人でした。
兄の市朗さん、弟さん、ご兄弟で、東大出身でした。
その弟さんに、私は高校生の頃、英語の家庭教師をしていただいていました。
ですから、よく存じ上げている方々です。

私たちは、その後、車で移動し、山の上にある、札所二十三番。音楽寺に行きました。
目的は、そこにある碑です。
農民蜂起の合図は、その音楽寺の鐘でした。
この鐘が鳴ったら、秩父のあちこちから、もちろん市内からも農民が一斉に蜂起する。
有名な話です。そしてその音楽寺には、一つの石碑がありました。

            

「われら 秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない」

見つめながら涙がこぼれました。
ずっと胸に刻んでいる、民衆の権力への、自らの誇りすら感じさせる、抵抗の言葉です。
コメント
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