kaeruのつぶやき

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蕪村の絵。

2014-11-09 23:49:13 | kaeruの「おくのほそ道」

 「蕪村の絵」とか名うってなにか大層なことを言い出すわけではありません。

もちろん読んでいる方もそれを期待しているわけではないことは承知しており

ます。 たまたま 「kaeruのおくのほそ道」道中で蕪村の 「奥の細道画巻」の

一枚を紹介したことを機に、蕪村についても触れたいと思いました。

 芭蕉、蕪村、一茶と三人の名を連ねると、芭蕉は 「おくのほそ道」 でのつな

がりがあり、一茶は信州の人という気持ちが強く各々なにかと気持ちが寄ります。

ところが蕪村は特に敬遠しているわけではありませんが、かなり離れた存在

でした。 ですからなおのこと、絵から受けた印象に気持ちが動きました。

 再度掲げますが、この絵について同じ頁にある説明文を紹介します、紹介済

みところもありますが重なります。

≪元禄二年の紀行を芭蕉が門人素龍に清書させたのは元禄七年四月、この

年十月に芭蕉は世を去った。それから八十数年後、芭蕉を崇拝していた蕪村

が 「奥の細道」 の全文を描き写し、十図内外の絵を添える絵巻物をいくつか

描き上げた。ここに収録した俳画は大阪府池田市の逸翁美術館本。その他、

京都国立博物館本、山形美術館本の三本が現存。≫

 

 昨日紹介しましたNHKのテキストのはじめに蕪村が自分の絵についてこん

なことを言っているという部分とそれについて講師(玉城司氏)の言葉を抜き書

きしておきます。

≪わたしの俳画(はいかい物之草画)は、なかなかのものだから、安売りする

な(安永五年八月十一日 几董(きとう)宛書簡)、と言うのも大人としてどうか

と思う。こんな感想をもたれた方も、多いと思います。ところが、不思議なことに、

いつしか蕪村の無邪気さに共感して拍手したくなってきませんか。≫

 これだけで拍手というのは難しいでしょうが、蕪村の持っている魅力は芭蕉

の求道者的は面に魅かれるのとは違うものを感じます。そういう蕪村を理解し

て、その人が崇拝したという意味から芭蕉を知るということも意味あることと

思います。

 とくに蕪村の俳画については、写真に句を配するうえで勉強になるのではと

思っています。


芭蕉に女の子があったなら……。

2014-11-02 19:33:22 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅

○現在地  平泉   

○次の目的地  中尊寺

○次の目的地までの距離  14.9km

○次の目的地までの歩数  20,334歩で達成です。

前回(2014-10-11)は仙台で「芭蕉隠密説」なるものについてつぶやいていた

のでした。その前(2014-10-10)は白石でした。その時1年前のブログが送ら

れていまして、それが那須でした。それである俳画を紹介しようと写真を撮ってお

いたのです、それがこれです。

絵の右下の文字は「那須野 馬を借りて那須の野原を行く」とあります。

馬に乗ってるのが芭蕉、後ろが曽良、あとについている男の子と女の子。

この女の子が曽良の句に詠み込まれその名を今に残している「かさね」

ちゃんです。

  かさねとは八重撫子の名なるべし   曽良

  (八重撫子=やえなでしこ)

 

この子の可愛さと馬を貸してくれた農夫のやさしさが心に残っていたの

でしょう、後日、もし自分に子があるなら、「かさね」と付けるいっている

そうです。

 この絵は芭蕉を崇拝していた蕪村が「奥の細道」の全文を書き写し、

絵を添えて絵巻物にしました。

 絵と説明はこの本によります。

(山と渓谷社刊 芭蕉紀行三百年記念企画 奥の細道)


続 仙台にて、芭蕉隠密説のこと。

2014-10-11 21:27:58 | kaeruの「おくのほそ道」

 まずは昨日の続きです。

≪しかし東北の外様の雄藩仙台伊達領に来ると、そう簡単に足を踏み入れ

ることはできなかった。口留番所が設置され、ここで入国手続きをしなければ

ならなかったのである。その国境の番所が越河(こすごう)にあった。

 番所の役人に「何者であるか、どこへ行くのか」を問われ、不審者でないと

わかると入判(手判、入切手、入手形、通手形などと書かれていることもある)

が渡される。これが入国許可を受けた証明書で、出国するときこれを見せない

と密入国者とみなされ、すんなり出国することはできなくなるのだ。仙台藩では

こうした番所が、国内すべての街道の国境近くに二十四ヵ所も設けられていた。

 (略)

 ~仙台城下の旅籠屋では、入判を持っていない旅人は正規の街道を通らな

いで来た怪しい者とみなし、一切泊めなかったようである。~≫

 

 さて、当時の仙台藩での旅人の置かれている一般的は状況の概略を頭に入

れていただいて、次の本について話を移します。

 

 これはアマゾンから写した本で帯がありません。帯に書かれていることが本の

内容を示しています、これです。

芭蕉はなぜ隠密になってしまったのか?

               「奥の細道」というミステリーが始まる。

 芭蕉隠密説はそう珍しい話ではありません。しかし、芭蕉研究専門家で「芭蕉

は幕府隠密だった」と考える、たぶんまちがいなく日本で最初の専門家でしょう。

 これは素人の私が言っていることでなく著者自身・光田和伸氏がこの本の述べ

ていることです。しかし、

≪ この本は、芭蕉が幕府隠密だったことを論証して得意になるために書かれた

のではない。芭蕉がどうして幕府隠密になってしまったのか、その過程について

考えてゆく本である。いや、幕府隠密になってしまった日から、やっと私たちの

知っている芭蕉への道が始まったのだと考えている。もし、三十代の末に隠密に

なるということが起きなければ、芭蕉は文学史に名前を残すような存在にはなら

なかっただろう。 ~ 芭蕉という文学者がその後になしとげたことに比べれば、彼

が「幕府隠密」だったことなどということは、たいしたことではないとも思えてくる。≫

 

 私はこの本を一読して芭蕉の幕府隠密説に傾きかけています、歴史的知見が乏

しいので提示される「事実」を検証することができません。なるほどそう考える方が

合理的だと思えることがある、という程度ですから、かなり浅い理解ですが。

 それよりも私の心に届いて来るのは、

≪生きる。そして、自分の人生を実現する。そのことをめぐる運命と不思議について

考える一つのきっかけとして、この本が読者の胸に届けばさいわいである。≫

という著者の言葉です。

 一度きりの人生とはよく言われる言葉です。芭蕉も曽良も17世紀の江戸時代とい

う日本を生きた「時代の子」です。私たちも20世紀から21世紀をという時代の制約

を受けつつ生きている「時代の子」です。

 同時に17世紀と現代との違いを生きる個人として理解できる「子」でもあります、

それは自分の運命を切り開く可能性に満ちた時代を生きていることです。

 ならばこの時代を舞台として知り、「運命と不思議」を含め自分をどう実現するか

考えていきたいものです。


仙台にて。

2014-10-10 22:09:55 | kaeruの「おくのほそ道」

今日13時少し過ぎに届いたアプリによる報告は昨日までの状況です。

今朝は9000歩、午後も合せると1万4千歩を超えるでしょうから、仙台着は

確実でタイトルに誤りなしです。

 

芭蕉が仙台に着いたのは元禄二年五月四日(1689年6月20日)で、その

朝発った白石から十二里(48キロ)の道のりでした。

 

■奥の細道の旅

○現在地  白石

○次の目的地  仙台

○次の目的地までの距離  1.9km

○次の目的地までの歩数  2,579歩で達成です。

こう書いていると簡単に仙台領に入れたように思ってしまいますが、当時の

状況はそう簡単ではなかったようです。

金森敦子さんの本から。

「仙台」 旅人への警戒厳しい伊達領に入る

 入国許可がなければ宿泊お断り

 これまでの芭蕉と曽良は、ほとんど国境ということは意識してはいなかった

ろう。 江戸を出発してから福島領を出るまでの街道は、幕府直轄領か、関ヶ原

の戦以前から徳川氏に従った譜代大名の領地ばかりで、幕府に敵対する大名

はいない。 だから栗橋の関所の通行もごく簡単だった。 それぞれの国境いは

「これより誰それの領地」 といった牓示杭(ぼうじくい)が立っているだけである。≫

 しかし、外様大名の雄藩であった仙台伊達領ではそうはいかなかったのです。

そのへんのことは明日にします。


一年前の今日と今年の今日。

2014-10-05 22:05:50 | kaeruの「おくのほそ道」

これはgooブログから「kaeru-23さんの1年前の記事(2013.10.5)

として送られてきたものです。

芭蕉の足跡、四季を超えて。 2013-10-05 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (着信 10月5日)

○現在地  雲厳寺に到着しました。おめでとうございます。

○次の目的地  那須

○次の目的地までの距離  33.1km

○次の目的地までの歩数 あと33.1km44,315歩で達成です。

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅のなかでもっとも長く滞在したのは黒羽での13日間

ですが、この地に到着した三日目に雲巌寺を訪ねています。 曽良の「旅日記」に

「五日 雲岩寺見物。朝曇。~」とあり、元禄二年四月五日のことで、1689年5月23

日になります。 ここで芭蕉は

  木啄(きつつき)や庵(いほ)は破らず夏木立   と詠んでいます。

≪寺つつきと異名のある木啄鳥にも破られずに庵が残っていると詠じ、(庵に住んで

いた仏頂和尚への)高徳礼賛の意をこめる≫(岩波文庫『おくのほそ道』注)

 雲巌寺は 【栃木県大田原市雲岩寺27】 で Gm のストリートビューで見ますと、路

面に県道321号線と白く書かれた道に面して朱塗りの太鼓橋の欄干が見えます。

ただ、写真の時期は夏と思われます、多分今は、紅葉へと移りつつあるのでしょう。

 

さて、今日の着信は、

■奥の細道の旅
○現在地
白石に到着しました。おめでとうございます。
次の目的地目指してがんばりましょう。

○次の目的地
仙台

○次の目的地までの距離
23.9km

○次の目的地までの歩数
仙台まであと23.9km32,423歩で達成です。

 

 

 昨年は2回目の「おくのほそ道」歩きだったと思います。

この二つを並べても殆ど意味が無いのですが、昨年もこんなことをつぶや

いていたよ、と教えてくれたので載せておきました。

 なにか意味を見いだそうと思ってみたのですが、色々他にあってここに止

 まっていられません。

 白石宿に泊まったのは元禄二年五月三日(1689年6月19日)、前日泊まっ

 た斎川宿(飯坂)から七里二十八丁(約31k)を時々の小雨のなか歩いて

 きました。(金森敦子『芭蕉「おくのほそ道」の旅』)  


横着報告。

2014-09-28 20:56:35 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅
○現在地

福島に到着しました。

○次の目的地  飯塚

○次の目的地までの距離  35.9km

○次の目的地までの歩数  48,725歩で達成です。

 本人が信州散策を楽しんでいる間に、ここまで来ていました。

福島ですから、ひと言語っていくべきですが、明日の準備もあり今夜は

到着報告ならぬ横着報告でご勘弁願います。


ここまで来ていました、kaeru芭蕉。

2014-09-16 20:48:49 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅
○現在地 須賀川に到着しました。

○次の目的地  郡山

○次の目的地までの距離  12.4km

○次の目的地までの歩数  16,790歩です。

芭蕉がじっさに須賀川に着いたのは元禄二年二十二日(1689年5月9日)です。

ここで、七泊しています。kaeruの「おくのほそ道」もいきなり雲巌寺からはじめま

たのでここらで、スタートまで戻って芭蕉の歩きを追ってみたいと思います。

 

7月29日に、アプリからメールが届いたいました。 この日に深川をたったのでした。 

■奥の細道の旅   ○現在地  深川   ○次の目的地  千住

○次の目的地までの距離  9.9km  ○次の目的地までの歩数  12,493歩で達成。

随時、芭蕉の足取に触れていきたいと思います。

 現在の深川は、

深川芭蕉庵跡 - Google マップ で。

こちらは、古池や…… の句碑、モダンな蛙です。

 

この写真はこちらから、クリックしてみて下さい。

http://senbonzakura.skr.jp/05hosomichi/13tokyo/003fukagawa/fukagawa.html


続 ・ 那須といえば……。

2014-09-08 13:12:43 | kaeruの「おくのほそ道」

 PCの御機嫌の良い間に昨日の続きに入ります。

 那須与一については、 http://ja.wikipedia.org/wiki/那須与一 で、

 この二枚はWikiに掲示されているものですが、那須与一が屋島で扇を射ち落

す姿で、時は1185年です。

 

 

 この時射ち落ちされた扇を、芭蕉が見たという話が今日の本題です。

 那須で泊まった芭蕉と曽良は、翌日(元禄二年四月十九日・1689年5月16日)

午前11時頃、温泉神社(ゆぜんじんじゃ)へ参詣にまいります。そこで、『曽良日記』

によると、「宝物ヲ拝。与一扇ノ的〇残ノカブラ壱本。~」と記さています。

 念のために経た歳月を記せば、扇が射落されてから約500年後です。

 

 それから約260年後、温泉神社の宝物殿を訪れた井本農一さんはこう書かれ

ています。

 ≪私たちも宝物殿をのぞいてみた。扇は地紙が全部なくなって、骨だけ残ってい

る。だが、与一が射た扇の的は、「空に上がりつゝ、しばし中空にひらめきて」、やが

て海中へ颯(ひょう)と落ちてしまったはずなのだが、後で海岸へでも流れついたの

を拾ったのだろうか。たぶんこれは与一の所持していた檜扇(ひおうぎ)ということ

であろう≫。

 なお、先の『曽良日記』からの引用文も井本さんの本(角川選書『おくの細道をた

どる』)によります。