「蕪村の絵」とか名うってなにか大層なことを言い出すわけではありません。
もちろん読んでいる方もそれを期待しているわけではないことは承知しており
ます。 たまたま 「kaeruのおくのほそ道」道中で蕪村の 「奥の細道画巻」の
一枚を紹介したことを機に、蕪村についても触れたいと思いました。
芭蕉、蕪村、一茶と三人の名を連ねると、芭蕉は 「おくのほそ道」 でのつな
がりがあり、一茶は信州の人という気持ちが強く各々なにかと気持ちが寄ります。
ところが蕪村は特に敬遠しているわけではありませんが、かなり離れた存在
でした。 ですからなおのこと、絵から受けた印象に気持ちが動きました。
再度掲げますが、この絵について同じ頁にある説明文を紹介します、紹介済
みところもありますが重なります。
≪元禄二年の紀行を芭蕉が門人素龍に清書させたのは元禄七年四月、この
年十月に芭蕉は世を去った。それから八十数年後、芭蕉を崇拝していた蕪村
が 「奥の細道」 の全文を描き写し、十図内外の絵を添える絵巻物をいくつか
描き上げた。ここに収録した俳画は大阪府池田市の逸翁美術館本。その他、
京都国立博物館本、山形美術館本の三本が現存。≫
昨日紹介しましたNHKのテキストのはじめに蕪村が自分の絵についてこん
なことを言っているという部分とそれについて講師(玉城司氏)の言葉を抜き書
きしておきます。
≪わたしの俳画(はいかい物之草画)は、なかなかのものだから、安売りする
な(安永五年八月十一日 几董(きとう)宛書簡)、と言うのも大人としてどうか
と思う。こんな感想をもたれた方も、多いと思います。ところが、不思議なことに、
いつしか蕪村の無邪気さに共感して拍手したくなってきませんか。≫
これだけで拍手というのは難しいでしょうが、蕪村の持っている魅力は芭蕉
の求道者的は面に魅かれるのとは違うものを感じます。そういう蕪村を理解し
て、その人が崇拝したという意味から芭蕉を知るということも意味あることと
思います。
とくに蕪村の俳画については、写真に句を配するうえで勉強になるのではと
思っています。