kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

パソコンより、歩数計、芭蕉。

2014-09-06 20:25:18 | kaeruの「おくのほそ道」

 昨日の続き、まず昨日の数字です。

一緒に持っていても、

スマホでの歩数=10,798 に対して タブレット=6,877でした、

スマホ : タブレット = 100 : 63.4  です。

さて、今日は  スマホ=11,183 と タブレット=12,624 でした。

  昨日と同じように比率でみると 100 : 113 で、昨日と反対にタブの方

が多くなりましたが、かなり近くなったと言えます。

 両方とも1万歩をこえてますが、今日は何歩歩いたと聞かれれば、1万2千

をこえたよと答えるでしょう。

 きのう、「心当りがある」と言いましたが、昨日はタブレットをかなり大きなカバ

ンに入れ抱えるようにしていたのです。すると歩いている振動が伝わりにくかった

のでした。 カバンの中に他の物も入っていたのでより動きが伝わらなかったの

でしょう。

 今日は、タブレットが丁度納まるカバンに入れ替え、肩に吊るして歩きました。

 もう一つスマホとタブレットの数値の違いの原因は、その測定のやり方の違い

にあるようです。スマホは歩いた距離がGPSで計算され、それを歩幅(0.7m)

で除して歩数として掲示され、タブレットの方は歩いた「振動」を受けて、1歩毎

加算されているようです。

 大体そんなことで、この件については、落着させましょう。

 

 さて、芭蕉の歩き具合です。

■奥の細道の旅
○現在地 は依然として、雲厳寺

○次の目的地 那須

○次の目的地までの距離  0.5km

○次の目的地までの歩数 677歩で達成です。

(これは、5日現在の状況で、それが分かっていたら昨日中に700歩くらい歩い

たいたのに……。那須の677歩手前は那須ではないのでしょうか)

この図は2日のものと変わりありません、面白くありません。明日は那須着で少し

面白みのあるものを出したいと思いますが、はたして?


いきなりの雲巌寺。

2014-09-02 22:23:58 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅
○現在地
雲厳寺

○次の目的地
那須

○次の目的地までの距離
27.9km

○次の目的地までの歩数
那須まであと27.9km37,716歩で達成です。

 手持ちのスマホの 「からだライフ」 というアプリは 「奥の細道」 と称して、親切

にも芭蕉の旅程にそって歩いた状況を表示してくれるのです。

 このブログではこの道程を表示するのは三回目です。 三回目のスタートが何時

だったか見落としたマンマでしたので、今日までこのブログで出して来ませんでした。

今日、いきなりの雲巌寺からで、失礼します。

 今回の雲巌寺という寺がどういう所か、居ながらにして関心を持つことのできる有

難いアプリです。そして、インターネットを「雲巌寺」で検索すれば、これまたたちまち

地図も写真も目の前(の画面)です。

 

 でも、 これが「芭蕉の雲巌寺」?

 ここを訪れた人の感想もいくつかあり、多くが芭蕉の句

  木啄も庵は破らず夏木立  に触れています。

やはり「芭蕉の雲巌寺」を知るためには「おくのほそ道」に依ることでしょう。

 この庵は、芭蕉が教えをうけたことのある仏頂和尚が雲巌寺に構えていたもので、

「おくのほそ道」に、「縦横の五尺にたらぬ草の庵  結ぶもくやし雨なかりせば」

と仏頂和尚が書きしるしたという歌が記されています。

 意味は ーー たてよこが五尺(尺約33cm)にも足らぬ小さな草庵だが、その小庵を

造ることさえ、自分にとっては残念なことだ。もし雨さえ降らなかったらなぁ。——

(角川ソフィア文庫『新版 おくのほそ道』)

 句の意味も、同じ本から。

「あの寺をつつきこぼつといわれている木啄(きつつき)も、この草庵だけは破らなかっ

たのだ。そして、それは今、自分の目の前に鬱蒼たる夏木立の中に幽邃澄心(ゆうすい

ちょうしん)の別天地を存していることよ。」


ゴールがスタート。

2014-07-28 19:29:12 | kaeruの「おくのほそ道」

 タブレット購入の際通信方法を変えたらしく、スマホに「通信サービスはあ

りません」と表示されはじめ、「奥の細道」の進行状況が分からなくなってい

ました。ところが、24日に下のような知らせが入っていました。

■ 奥の細道の旅

おめでとうございます。全行程踏破しました。
初めからスタートする場合は、詳細画面から「再チャレンジ」を行なってください。

○スタート日  2013年09月03日

○ゴール日  2014年06月20日

○所要日数  291日

○ゴールまでの合計歩数  2,548,107歩


 なにもお目出度いことはないのですから、「おめでとうございます」 より 「おつか

さまでした」 とかいう方があっていたと思います。 291日要したということです

から平均8756歩、歩かなかった日もあったわけで一日1万歩という目安は達成

しているでしょう。

 ゴールになった大垣での最後の「別れ」についての長谷川さんの話も紹介しなけ

ればいけませんし、芭蕉の総歩行距離の「謎」についても何もわかっていません。

だとすれば、これで終わりにするわけにはいきませんので、三度目の「旅」に向かう

積りでした。 地図の方は、すでに深川に「スタート」の旗が立っています。

 ということで、

このように三度 「おくのほそ道」へ向かうようになっています。

 スタートは今日28日か29日になるのでしょう。


福井、再会のよろこび。

2014-06-15 21:28:07 | kaeruの「おくのほそ道」

 長谷川さんのテキストには「福井」について触れられていません。なにせ

100分間で古今東西の名著を語ろうという趣旨の番組のテキストですから

全面的に語れば内容が薄くなるでしょう。

 長谷川さんがこのテキストで分かってもらおうとしていることは、表紙に

「人生はかるみだ。世界はたえず変化する。しかし永遠不変でもある。」

と大きく書かれている部分です。

 それは最終の「大垣での別れ」について語るとき、まとめて論じられています。

ここ「福井」では「別れ」話でなく再会の喜びです。

 

 このところの本文をあげておきます。

≪福井(ふくい)は三里(さんり)(ばかり)なれば、夕飯(ゆうめし)したためて

(い)づるに、

たそがれの道たどたどし。

ここに等栽(とうさい)といふ古き隠士(いんじ)あり。

いづれの年にか江戸(えど)に来たりてよを尋(たず)ぬ。

(はるか)(と)とせあまりなり。

いかに老(おい)さらぼひてあるにや、はた死(しに)けるにやと人に尋(たず

ねはべれば、

いまだ存命(ぞんめい)してそこそこと教(おし)ゆ。

市中(しちゅう)ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいえ)に夕顔(ゆうがお)

へちまのはえかかりて、鶏頭(けいとう)はは木々(ははきぎ)に戸(と)ぼそをかくす。

さてはこのうちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(い)でて、

「いづくよりわたりたまふ道心(どうしん)の御坊(ごぼう)にや。

あるじはこのあたり何がしといふものの方(かた)に行(ゆき)ぬ。

もし用あらば尋(たず)ねたまへ」といふ。

かれが妻(つま)なるべしとしらる。

むかし物がたりにこそかかる風情(ふぜい)ははべれと、やがて尋(たず)ねあひて、

その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月(めいげつ)はつるがのみなとにとたび立(だつ)

等栽(とうさい)もともに送(おく)らんと、裾(すそ)おかしうからげて、道の枝折(しおり)

うかれ立(たつ)。≫

 

 インターネットで「おくのほそ道」を検索すれば原文も現代文も読めます。

 学生時代と違って、古文を現代文に訳す必要もないわけですから、文を味合っ

てください。

 鹿児島の方言を聞いてみてまったく意味が分からなかったのですが、たいへ

ん面白かったのです。そのとき なにかで読んだことを思い出しました。

 江戸時代幕府の隠密が各藩に内偵で入り込んでいたが薩摩藩に行った者でも

どって来た者がいない、というようなことを。

 もちろん、薩摩藩の武芸の高さがそこにはあるでしょうが、薩摩言葉に通じる

ことができず、見破られてしまうということでした。

 言葉は人と人を結ぶ、その心を結ぶものですから言葉そのものを丸ごと受け

入れたいものです。その人を、その地方(国)を、その時代をまるごと受け入れる

ように。


別れに扇引き裂く。

2014-06-14 19:33:02 | kaeruの「おくのほそ道」

 4月18日(2014-04-18) につぶやきましたが、長谷川櫂さんは、遊女と

の別れをはじめとして五つの別れが書かれていると述べています。 五番目・

最後の別れが終章の大垣での別れですが、その前に北枝(ほくし)との別れ

について触れられています。

 北枝は金沢の俳人で、金沢から天龍寺まで 「かりそめに見送りて、此処

でしたひ来る。(ほんのそこまでといって付いてきてくれた北枝も、とうとう

此処まで一緒に来てしまった)」。

 ここでの別れにのぞんで、

  物書て扇引きさく余波哉   

   (ものかきておおぎひきさくなごりかな)  

 この扇には芭蕉が発句として先の句を書き、北枝が脇句を記します。それを

二つに裂き発句の部分を北枝が持ち、脇句の部分を芭蕉が持つのです。

今でも別れがたき者同士が所縁のものを二つに分け各々が懐にする、その光

景です。

 芭蕉はこのあと、5キロ以上も山に入って永平寺を訪問します。

 この章に出てくる天龍寺も永平寺も古刹ですが、そのことにあまり触れてい

ないのは、この別れに焦点をあてるためで、この句を引き立たせています。


敦賀着、その前に永平寺、福井がありますが……。

2014-06-07 20:30:16 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (6/7)

○現在地  敦賀に到着しました。

○次の目的地  色の浜

○次の目的地までの距離  51.0km

○次の目的地までの歩数  68,391歩で達成です。

 前回(5/25)は全昌寺着で、次の目的地は永平寺でした。 この間PCの

不調などあり永平寺につぎ福井着も報告なしに来てしましました。

 敦賀から色の浜(種の濱)までかなりの距離がありますし、このところ当

地も雨で歩くことがすくなくなっていますので、色の浜着まで日数がありそ

うです。 その間に、永平寺と福井について「つぶやく」ことにして、ここでは

長谷川櫂さんのテキストから「敦賀の部分」を記します。

 ≪芭蕉は中秋の名月の前日(旧暦八月十四日、敦賀に到着しました。

この夜はきれいに晴れて十四日の小望月(こもちづき)を仰ぐことができま

した。 芭蕉は月のあかあかと照らす気比(けひ)神宮にお参りしました。≫

 この部分を「おくのほそ道」本文より。

≪~十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。

  その夜、月殊晴(ことにはれ)たり。「あすの夜もかくあるべきにや」

いへば、「越路(こしじ)の習ひ、猶明夜(なおめいや)の陰晴はかり

たし」と、あるじに酒すゝめられて、けい(気比)の明神に夜参す。

 十四日の夜のみごとな月のもとで、芭蕉が 「あすのよるもこんな風に

照るでしょうか」 と聞けば、宿の主は 「北陸地方の天候は変わりやすさか

ら、明日八月十五日の空が曇るか晴れるか予測は難しいです」といわれま

した。 さて翌日の夜の空模様は、本文によると、

≪ 十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)

   名月や北国日和(ほくこくびより)(さだめ)なき

 テキストより、

≪「北国日和定なき」の「定なき」は表の意味は北国の天気のとりとめなさ、

変わりやすさのことです。しかし、この言葉は本来、人の運命の定めなさを

いう言葉です。この「定なき」とはこれまでみてきた人の世のさまざまな別れ

をひとまとめにした芭蕉の感慨です。この言葉は日和のことをいいながら、

そこに定めなき人の世に対する芭蕉の嘆きの声がひそんでいます。≫


曾良との別れ……。

2014-05-28 17:53:27 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅  (5/25着信)

○現在地  全昌寺に到着しました。

○次の目的地  永平寺

○次の目的地までの距離  21.8km

○次の目的地までの歩数  29,192歩で達成です。

 途中山中温泉着がありました。この間メールの表記の仕方が変わり、

アプリ関係は別表記になっていることに気づかずにいました。20日に着

信していました、記録だけしておきます。

 

 例によって、長谷川櫂さんのテキストの一文です。

≪山中は温泉の町です。芭蕉は曾良とも別れることになります。曾良が

お腹をこわし、先に発つことになったのです。(略)≫

 このあと 「おくのほそ道」 本文が続きますが、ここではそのなかの句を

記しておきます。

   行き行きてたふれ伏とも萩の原     曾良

  (テキストは縦書きで、「行き行きて」は「行/\(繰り返し記号)て」)

≪曾良の 「行/\て」 の句は芭蕉を残して一人旅立つときに詠んだ別れ

の句です。これから先に旅立ちますが、かりにどこかで行き倒れになると

しても、そこもきっと萩の花ざかりでしょうというのです。言葉の調べも情景

もいい句です。それに答える芭蕉の句……≫

  今日よりや書付消さん笠の露          芭蕉 

≪きょうから私は君と別れて一人旅するのだから笠に書きつけた同行二人

(ににん)の文字を消さねばなるまい。これも別れの句です。≫

 芭蕉が全昌寺に着くと、前の晩に曾良が泊まっていて芭蕉に句を残して

いましした。

  終宵秋風聞やうらの山              曾良 

  (よもすがらあきかぜきくやうらのやま)

≪「終宵」の句、一人旅の淋しさに昨夜はついに寝つけず、一晩中、裏山の

秋風を聞いていました。これもまたしみじみとした別れの句です。本文(にあ

る)の「一夜の隔、千里に同じ」は一夜であろうと、すれちがってしまえば千

里も離れいるのとかわらないというのです。≫


 【蛇足】 以前読んだ小説に 「一夜の契り、千年を満たす」 という意味の言

葉がました、思い出しましたのでメモとして。

 


那谷の段。

2014-05-17 22:29:32 | kaeruの「おくのほそ道」

那谷寺に到着しました。 (5/17着信)

○次の目的地  山中温泉

○次の目的地までの距離  2.8km

○次の目的地までの歩数  3,749歩で達成です。

 山中温泉に向かう道すがら那谷寺に立ち寄ります。

 「おくのほそ道」本文。

<山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が岳跡に見なして歩む。左の山際に

観音堂あり。(略)奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、萱葺きの小堂、岩の上

に造り掛けて、殊勝の土地なり。

  石山の石より白し秋の風 >

 

 長谷川さんはこの場所についてなにも語っていませんので、ここでは記され

ている 「石山の」句についてだけ触れておきます。 この石山は那谷寺の立つ

石山のことだという解釈と近江の石山寺のことだという説とがあるようです。

 那谷寺も石山寺も行ったこともない私にしてはどちらでもいいのです、要は

秋風を「石より白し」と言い切ったところを受けとめておけばいいことだと思い

ます。初夏の風のなかではなかなかその点を感じるのは難しいでしょう、おぼ

えておいて秋になったら風の中に立って口にしてみましょう。


小松といふ所にて

2014-05-13 22:31:04 | kaeruの「おくのほそ道」

 小松にはかなり以前に到着していたはずで、いまさら「到着しました」は間

の抜けた話ですので省略します。

 次の目的地は 那谷寺

 次の目的地までの距離  11.0km

 次の目的地までの歩数  14,736歩で達成です。

「おくのほそ道」本文には前回の

  塚も動けわが泣く声は秋の風

に続いて

   ある草庵にいざなはれて

 秋涼し手ごとにむけや瓜茄子

   途中吟

 あかあかと日はつれなくも秋の風

の二句のあとに

  小松といふ所にて

 しをらしき名や小松吹く萩薄

とあります。

 

 ここ(小松)で多太神社に参り、源平合戦で討ち死にした斎藤実盛(さねも

り)の兜を見ます。 以下、長谷川さんの文章より。

≪実盛は初め源氏方の武将でしたが、のちに平家方につきました。そこで

木曽義仲を迎え撃つために北陸路へ出陣したとき、やはりかつての主方に

刃を向けるわけで疾(やま)しさがないわけではない。そのとき実盛は七十歳

を超える老武将でした。おめおめと生きすぎたからこんな情けないことにな

ると内心悔やんでいる。そこでこの一戦を死に場所と決め、老武者とあなど

られないよう白髪を黒々と染めて討って出て討ち死にします。≫

 そして、本文の句

  むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす

 について、

≪一笑の墓前にささげた「塚も動け」の慟哭の余勢がここまで及んで「むざん

やな」と実盛を悼んでいるようにきこえます。ここで芭蕉がみているのは、か

たや若すぎた死、かたや生きすぎたと悔やむ死です。どちらも無残な死です。≫ 


会わずの別れ。

2014-05-04 21:02:32 | kaeruの「おくのほそ道」

 塚も動け我泣声は秋の風 (つかもうごけわがなくこえはあきのかぜ)

これは「金沢の段」におかれている句です。

 

芭蕉が金沢に着いたのは、≪金沢は七月中の五日也≫とある通り七月十

五日です。この地では一笑という俳人と会うことを楽しみにしていました。

≪一笑と云うものは、この道にすける名のほのぼの聞へて、世に知る人も

侍りしに、去年の冬早世したりとて、≫

一笑は十歳代から俳人として活躍し、芭蕉の門下に入ったのはこの旅の二

年前ほどでした。 <一笑という俳諧の道に熱心であるという評判が、いつと

はなしに広がって世間にも俳諧を通じて知る人があったものを、昨年の冬に

若死(36歳)してしまった>

 芭蕉は一笑の初盆の法要に招かれます。

 一笑の墓前にささげたこの句は慟哭の一句です。

 長谷川さんの文章より、

≪ふつう人の別れはまず出会いがあって次に別れるのですが、一笑とは出会っ

てもいないうちに別れていた、別れともいえないあっけない別れでした。≫

 一笑の死は元禄元年十二月六日で辞世の句として

 心から雪うつくしや西の雲    を遺しています。