■奥の細道の旅 (5/3着信)
○現在地 金沢に到着しました。
○次の目的地 小松
○次の目的地までの距離 3.0km
○次の目的地までの歩数 4,018歩で達成です。
地図で見ますと、ゴールが見えてきたかな、の所まできました。
右の石(句碑?)には「小松」という説明がついています。
今夜は到着報告だけにします。
お休みなさい、御機嫌よう。
■奥の細道の旅 (5/3着信)
○現在地 金沢に到着しました。
○次の目的地 小松
○次の目的地までの距離 3.0km
○次の目的地までの歩数 4,018歩で達成です。
地図で見ますと、ゴールが見えてきたかな、の所まできました。
右の石(句碑?)には「小松」という説明がついています。
今夜は到着報告だけにします。
お休みなさい、御機嫌よう。
■奥の細道の旅 (4/23日着信)
○現在地 倶利伽羅峠に到着しました。
○次の目的地 金沢
○次の目的地までの距離 45.9km
○次の目的地までの歩数 61,496歩で達成です。
また到着の知らせの着信を見落とすところでした。
「おくのおそ道」の「金沢の段」冒頭に
≪卯の花山 ・ 倶利伽羅が谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。≫
とあります。七月中の五日とは、十五日のことです。
「おくのほそ道」文中には触れられていませんが、倶利伽羅が谷は倶利
伽羅峠の谷で、寿永二年(1183年)木曽義仲はここで平氏の軍七万と
対峙しこれを破ります。数百頭の牛の角に松明をつけ突進させ、この勝
利によって義仲は一気に京都へ攻め上るとことになります。
芭蕉は義仲びいきで、後に自分の墓を義仲の墓と並べてほしいとし、
大垣市の義仲寺境内で義仲の墓の近くに作られているそうです。
木曽義仲は長野県の歌「信濃の国」 のなかで 「朝日将軍義仲も」 と歌わ
れていますが、その義仲をなぜ芭蕉がひいきにしたのか興味のあるところ
です。
芭蕉は 「おくのおそ道」 の中で「恋」にかんする事柄を三か所で述べて
いると上野洋三さんんは 『芭蕉自筆 「奥の細道」の謎』 で書かれてい
ます。
そのキーワードは「契り」。 (文中の太字はkaeru)
まず、「末の松山」 の段、こう書かれています。
≪末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を交はし
枝を連ねる契りの末も、つひ(終)にかくのごときと、悲しさもまさりて、(略)≫
解釈<有名な末の松山は、寺を建てて末松山(まつしょうざん)といっている。
松の木立の間々なみな墓原で、「末の松山波も越えなむ」と誓いあった比翼
連理の契りの果ても、ついにはみなこのように墓石と化してしまうのかと思え
ば、懐古の念の上に無常の想い加わり、悲しみの情もひとしおまさって(略)>
ここに 「恋」の成就も、最も悲観的な観念で、まず第1に提示されている、
との上野さんの指摘です。
第二は、「象潟」 です。この段には
象潟や雨に西施がねぶの花 をはじめ五句が詠われています。
その五句目が詞 「岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る」を付け、
波越えぬ契りありてや雎鳩の巣 曽良
<雎鳩は夫婦仲のよいものとされており、また男女の堅い契りを「末の松
山波越さじとは」と詠んだ古歌もあるが、文字通り波の越えてこない約束
があってのことか、ああして危ない岩の上に雎鳩が巣をかけている。>
末の松山では「契りの全否定=死(墓)」であったが、雎鳩の巣に託して
「危ない岩の上にありながらもかろうじてふみとどまるところに、(契りは)
認め直されている。」とは上野さんの述べているところです。
そして、第3が市振の段です。
象潟から市振の間に越後路が入っています。越後路と市振の段を結ぶの
が次の二句です。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
「おくのほそ道」を「恋」をテーマにして読むと、この二句と市振の段は大変
魅力的です。上野さんは芭蕉自筆の「奥の細道」1万641字を総点検しつ
つ読み解いていった方ですが、この市振の段について芭蕉が抱いたであろ
う思いをこんな風に書かれています。
≪芭蕉は、第二十三丁(市振の段の前=越後路)までを総点検した段階で、
(略)「末の松山」と「象潟」とが連結して作りなす「契り」の意味、「恋」のあり
方がまだ十二分に描き尽くされていないと感じた。
前者は墓地を眼前にしての悲観的な「恋」の行く末であったし、後者は鳥
に仮託しての比喩的な「恋」の幻であった。これらには、「恋」本来あるべき、
現在(うつしみ)の人の「契り」の問題がなお映し出されていない。≫
肉声が聞え体臭や息づかいを感じさせる「恋」が描かれていない、とも。
≪生き生きとした人の恋のテーマを、ひとつの作品の形態を壊すことなく、
旅の記のなかにあてはめる。≫そのために第二十四丁(市振の段)は新た
に補われたものではなかったか、と提示して紀行文の伝統として「遊女」は
格好な登場人物であった、としています。
遊女の口を通じて語られる「定めなき契」こそ芭蕉の「恋」のテーマを最
もよく示していると上野さんは述べ、≪末の松山→象潟→市振と重ね合わ
せることによって、遊女の悲惨な契りは、通俗的道徳によって唾棄されるこ
となく、存分に同情において眺められることがわかる。≫として、≪伊勢参
宮を前提として語られることによって、それは神前に立とうとするものの懺
悔に洗われていることが分かる。≫、さらに
≪「定めなき契」――量的に甚大な契りのもつ不道徳の罪や、不安定な
生活のもたらす悲しみ、それらのことも、そこを通って初めて得る君たち
自身の懺悔によって、神明の真実に進み入る足がかりになったではな
いか。もう十分に浄化されているのだよ。芭蕉はそう語りかけつつ、「遊
女」を描いている。≫
こうして上野さんの言葉を書きうつしつつ感じるのは、上野さんが芭蕉
の手になった「奥の細道」の一字一字、手漉き和紙の一枚一枚、芭蕉が
貼った和紙を透かし見たりはがしたりする作業を通じて、明らかに芭蕉の
声を聞いたに違いないと思います。それが≪芭蕉はそう語りかけつつ≫
になったのでしょう。
一夜が明けて宿を出ようとする芭蕉に「遊女」たちは旅の不安を訴えて
後からついていかせて下さいと哀願するに、これを断り 「神明の加護、必
(かならず)つゝがなかるべし」と言います。この芭蕉による保証は自ずか
らなるもので、「あはれさ、しばらくやまざりけらし」という憐憫の眼差しに
見まもられつつ「遊女」を参宮の成就へと導いていったことでしょう。
ノートPCのデイスクの一つに空きがなくなって、二年ほど前上田に帰ったとき
甥に手を入れてもらいその後は何とか差障りなくなっていたのでしたが、それも
限度がきたようで何かと「不調」が重なります。 昨日の不調は今日の好調、にな
る筈がないのですが調子のいいうちにつぶやいておかねばなりません。
さて、「市振の段」の冒頭は「おくのほそ道」ではこんな書き出しです。
<今日は親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなど云う北国一の難所
を越てつかれ侍れば> 幾つかの難所を越えて疲れたので、(早めに寝た
のでしょうか)枕元に聞えてくるのは一間隔てた部屋での話声です。
新潟の遊女が二人と老いた男の声です。ここまで遊女に同行してきた老人は明日
はふる里に帰るので、手紙などを託している様子。
長谷川先生のテキストに、≪市振で遊女と同宿したこの話は実際にはなかっ
たフィクションです。なぜ芭蕉は話をこしらえてまで二人の遊女をここで出した
かったのか。≫とあります。
先生の解説をまとめると <仏教において女は罪深く極楽往生ができないと
されていました。そのなかでも遊女はもっとも罪深いものとして考えられてい
ました。芭蕉は「おくのほそ道」を四部分に分けて述べているという先生の見方
については前回紹介しましたが、第3部の「宇宙観の会得」という場から、浮世
に戻った芭蕉は≪ここで遊女を登場させて浮世の旅を象徴する幕開けにしよう
としたのです。≫
さて、その次の朝二人の遊女が芭蕉に同行を頼みます。二人は越後から
お伊勢参りの途中にあったのです。「おくのほそ道」の旅をしていた元禄二年
は20年に一度の式年遷宮の年でした。 彼女たちは昨夜も自らを<白波のよ
する汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
日々の業因いかにつたなし>と嘆いていたものです。
<>内意味(角川ソフイヤ文庫・ビギナーズ・クラシック「おくのほそ道」)=白波
のよせる浜の町で、遊女にまでおちぶれはて、家もない漁師の子のように住所不
定の身になって、夜ごとの客に身をまかせては日々を送るなんて、前世にどんな
悪行をした報いなのだろう、みじめすぎる」
ここで、芭蕉が二人の願いを受けて道中を共にする話でしたら、≪単なる人情話で
終っていた≫と先生は述べて、≪ところが芭蕉は、「只、人の行にまかせて行くべし、
神明の加護、かならず恙なかるべし」とそっけなく断ってしまう。この非情な仕打ちに
よって遊女たちのあわれさはいよいよ深まることになる。「哀さしばらくやまざりけりし」
とあるとおりです。≫と書かれています。
この段の一句 一家に遊女もねたり萩と月
(ひとつやにゆうじょもねたりはぎとつき)
長谷川先生の書かれていることの概略は以上ですが、この部分の芭蕉自筆の「奥の
細道」の写真をみて「おや」と思ったことがあります。
この写真の下は 『芭蕉自筆 奥の細道』 の「市振の段」の部分で頁の変わった
左側がそうで、上にのせたあるのが同じ部分です。本は 『角川ソフィアヤ文庫・
新版 おくのほそ道』。この違いを一言でいうと、自筆本では
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡に横たふ天の川
の二句は「市振の段」の冒頭に位置付けてられています。下の文庫版ではこの
二句は前の段「越後路」の終わりにおかれています。このことにつついては芭蕉
研究の第一人者の上野洋三さんの書かれた 『芭蕉自筆 「奥の細道」の謎』に
かなり詳しくのっていますので、明日紹介したいと思います。
またまた不調、繋がらないのです。「別れ物語」故に切断したのか?
この段、芭蕉と遊女との出会と別れの場。一句も含めて実話風に書かれていますが作り話だそうです。芭蕉が話を作るまでして述べたかったのは何か、遊女二人と旅の俳人二人の出会いと別れの物語は、明日のパソコンの調子によります。神の御加護があります様に!
長谷川先生のテキストは机上の積み重ねられた紙に間にありました。
タイトルに 「最初の別れ」 と入っているのは先生の 「おくのおそ道」 構成
全体の区分からきています。このブログでの書き方が「テキスト」 のつまみ食
いのようになっていましたので、ここで全体の構成について触れておきます。
全体を四つに部分分けしています。
第1部=「心の世界を開く」。 「古池や蛙飛びこむ水の音」 が「蕉風開眼の句」
といわれるのは、それまで言葉遊びであった俳句にはじめて心の世界を開い
たからで、芭蕉はその三年後の「おくのほそ道」でその世界を存分に展開した
かったのです。 旅程でいえば江戸を立って白河の関まで、この部分を長旅の
ための禊だと述べられています。
第2部=「時の無常を知る」。東北の歌枕を訪ね平泉の跡に立ち 「時の無常
迅速」 を胸に嘆きとして抱きます。「夏草や兵どもが夢の跡」です。旅程では
白河の関から尿前の関までがこの部分です。
第3部=「宇宙と出会う」。尿の関から市振まで、山寺、出羽三山、最上川、
日本海に沈む太陽と荒海に浮かぶ佐渡に天の川。 この旅程を通じ太陽
も月も変転極まりないが、同時にそれを貫いているものは不変の「閑さ」で
あり、動と静その両面を「不易流行」という言葉でとらえます。
第4部=「別れを越えて」。市振から大垣までの旅程は五つの別れが組み
込 まれています。
1、市振での遊女との別れ。 2、金沢では一笑との別れ。 3、山中で曽良と。
4、天竜寺では北枝(ほくし)との別れ。そして最後に5、大垣でのわかれです。
それを通じて芭蕉は 「かるみ」 という人生観に到達していきます。
遊女との別れについてもかなり長くなりそうなので、この後は明日にします。
今日は「kaeruのおくの細道」として長谷川先生の「市振」の章を紹介する
予定でした。ワイコマさんのコメントに「明日を楽しみにしましょう」と言われて
いまして大変恐縮なのですが、先生のテキストが見当たりません。
机の上にあった筈なのですが、どこかに紛れ込んでしまいました。それが
ないと手も足も出ませんので、次の機会に(明日探せたら明日にでも)したい
と思います。
タイトルは日野原重明先生のお名前を 『ランドセル俳人の五・七・五』 の帯
に先生の推薦の言葉を見た時、思ったもので直接には雑誌「俳句」の平成22
年9月号に関連します。この写真は同誌の日野原重明先生と俳人・金子兜太
氏の対談です。
見出しの「俳句療法」に関するところを対談のなかから紹介します。
金子「私は昨年(平成21年)、90歳になりましたが、先生は卒寿を
過ぎてから俳句をはじめられましたね。」
日野原「私は勧められて俳句療法学会の名誉会長となりました。~」
金子「~。俳句をはじめて、何が変わったことはありますか?」
日野原「俳句を作ることは自分を支えになる。生きがいを起こすし、ポ
ジティブになる。いつもならぼやーっと見ているような景色でも、ああ、
来月の句会には出さなくちゃならないと思うと、手帳を開いて、ちょちょっ
とテーマを、音楽でいえばモチーフを三小節くらい書くとか、そういうプロ
ダクティブな気持ちを持って生きるようになる。先ほど音楽療法の話をし
ましたが、短い俳句の中にも似たような効果があると思います。」
この対談に関して次の文庫を紹介しておきます。
日野原先生は日本音楽療法学会の理事長で、雑誌の対談の中でもこ
のようなお話をされています。
「音楽というものが脳に対していろいろな力があることもだんだんわかっ
てきました。 自閉症の子供、あるいは認知症の老人に音楽療法ははっ
きり効果があるのです。パーキンソンの患者に音楽療法として、ワルツを
踊らせると筋肉の緊張がなくなる。 脳に働くホルモンが出るのでしょう。
今、詳しく研究中です。そんなわけで、今まで西洋の音楽や詩が好きだっ
たけれど、ふとしたきっかけでこの歳になって俳句にもタッチをするように
なったのです。」
■奥の細道の旅 (4/13着信)
○現在地 市振に到着しました。
○次の目的地 奈呉の浦
○次の目的地までの距離 9.7km
○次の目的地までの歩数 13,000歩で達成です。
この間、「kaeruのおくのほそ道」をUPしていないなーという気持ちはあった
のですが、気をつけて見直しをしていませんでしたら、道中の難所・親知らず
着を抜かしていました。地図は省略して到着記録だけ付けておきます。
市振りでの長谷川先生の話は明日紹介したいと思います。
■奥の細道の旅 (3/29着信)
○現在地 親不知に到着しました。
○次の目的地 市振
○次の目的地までの距離 61.0km
○次の目的地までの歩数 81,705歩で達成です。
■奥の細道の旅 (3/25着信)
○現在地 能生に到着。
○次の目的地 親不知
○次の目的地までの距離 7.9km
○次の目的地までの歩数 10,581歩で達成です。
右の海岸は「親知らず」で、アプリに付いていたものです。
この間は区間が近いので、到着着信の間が迫っています。一昨日には直江津着の
案内が届いていました。
■奥の細道の旅 (3/23着信分)
○現在地 直江津に到着。
○次の目的地 能生
○次の目的地までの距離 10.6km
○次の目的地までの歩数 14,191歩で達成です。
■ 奥の細道の旅 (3/18着信)
○現在地 出雲崎に到着。
○次の目的地 直江津。
○次の目的地までの距離 25.6km。
○次の目的地までの歩数 34,272歩で達成です。
出雲崎で俳句といえば芭蕉の名と “荒海や” が挙がるわけですが、それ
はそれとして「出雲崎 俳句」で検索をしましたら、『磯見漁師』 という句集
が紹介されていました。
( http://www2.odn.ne.jp/~chj13670/newsub114.html )
斉藤さんは昨年米寿を迎え今でも一人で海に出る現役漁師です。 斉藤
さんが船を出すのは、俳人芭蕉が「荒海や佐渡に横たふ天の川」の句を詠
んだ越後・出雲崎の海です。
サイトに紹介されている俳人・黒田杏子さんの「言葉」を転写させてもらいます。
思い出す 亡妻の旧姓 遠花火 斉藤凡太
花を待つ 追伸多き 戦友(とも)の文 斉藤凡太
今回、凡太さんに句集をまとめ、出版することをお薦めしたのは私です。86歳現役漁師の句集はめったにないと思います。選者として、この十数年間、身体を張って海上で仕事をされる漁業者の毎週の投句作品に私は励まされました。
菊地信義さん、石井隆司さん、鈴木忍さん、深津健司さん等多数の皆さんからご協力いただきました。
平成24年4月8日 仏生会 まどかな月を眺めながら 黒田 杏子
また、昨年7月にNHKラジオ深夜便で放送された時の一文も読んでみて下さい。
≪斉藤さんは17年前に妻を亡くしてから俳句を始めました。今やその俳句を
生きがいにして、「凡太」という俳号を持ち、著名な俳人・黒田杏子さんからの
評価も高く、地元新聞で多くの句が選ばれています。≫
なお、放送の概要が下記のURLのブログ(「明日への言葉」)で分かります。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/87.html
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/872.html