kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

鶴岡に着きました。

2014-02-02 21:25:12 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (2/2着信)

○現在地   鶴岡に到着しました。

○次の目的地   酒田

○次の目的地までの距離   17.5km

○次の目的地までの歩数   23,375歩で達成です。

 芭蕉は元禄二年六月十日(1689/7/26)、小雨のなかを馬に乗り鶴岡に着

いたとのことです。市内の日枝神社に芭蕉の句碑があるというので、Google

マップのストリートビューで見てみました。住所は鶴岡市山王町2-26で、案

内の文章には 「広い境内へ鳥居を潜って入る。右手の小さな太鼓橋を渡った

ところに弁天島、この島のお稲荷さんの祠のかたわらに、

  珍らしや山を出羽の初なすび     翁

の芭蕉の句碑が建つ。」 とあります。

(文章は 『芭蕉紀行三百年記念企画  奥の細道』 山と渓谷社刊によります)

この句は「おくのほそ道」本文には載っておりませんが、鶴岡の句会での芭蕉

の句です。

 ストリートビューでは鳥居は確認できたのですが、操作が拙いのか、もともと

鳥居までカメラが行っていないのか、境内どころか鳥居の前も見れません。

 文章によれば、「鶴岡は酒井忠直十四万石の城下町であった。~今も静かな

城下町の雰囲気を持っている。」と書かれています。二十年以上前の文章です、

今でも変わらぬただずまいなのでしょうか。

 

 長谷川櫂さんは

  暑き日を海にいれたり最上川

についてかなり行をつかって語っています、その分については明日にします。


月山を背にして。

2014-01-31 22:27:48 | kaeruの「おくのほそ道」

 昨夜、「期待以上の83歳」の続きを、と言いましたが都合で今夜は「おくの

ほそ道」の月山到達報告だけになります、明日から2月です(余り関係ありま

せんが)。

 ただ今夜も新月で旧正月の一月一日・元旦です。2014年1月1日も新月

でした。1ヶ月で2回月のはじめがあるという珍しい月だそうです。

 和暦でいえば、今日から新年です、おめでとうございます。

 若干、日射しは春の感じもします、雪国では雪に映える日差しにそんな感じ

があるのではないでしょうか。

 さて、「おくのほそ道」では到達した月山を離れて、鶴岡へ向かっているとの

こと、実際の月山上空は晴れていれば、寒の星のもとに、曇っていれば漆黒の

闇に姿が埋もれていることでしょう。あるいは雪に覆われそのうえを雪が降り積

もっているのでしょうか。

 

■奥の細道の旅 (1/28日着信)


○現在地 月山に到着しました。

○次の目的地  鶴岡

○次の目的地までの距離  12.6km

○次の目的地までの歩数  16,826歩で達成です。


続 月山にむけて。

2014-01-25 17:31:42 | kaeruの「おくのほそ道」

 芭蕉が羽黒山に着いたのは元禄二年六月三日(1689/7/19)、その日から

九日まで、六日に月山泊をした時を除いて六泊したそうです。このへんのところ

は岩波ジュニュア新書の 『おくのほそ道』 などを参考にして書いていきます。

 そして十日の昼前に羽黒山を離れるのですが、その間宿にしたのが羽黒山

南谷別院で、「おくのほそ道」に、

 六月三日、羽黒山に登る。(略)南谷の別院に舎(やどり)して、

憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。

 とあるところです。「憐愍の情~」、心細やかにもてなしてくれました、の意です。

その翌日(四日)の句会で

 ありがたや雪をかをらす南谷    と詠んでいます。

≪暑い夏の盛りなのに、この南谷では残雪があるのか、雪の香がする涼風が吹

いてくる。清浄な霊地の尊さが身にしみるようだ。 季語ー(風)かをる=夏≫

(角川ソフィヤ文庫 『おくのほそ道』)

 

 長谷川さんはこの句を含め、この章(出羽三山=羽黒山・月山・湯殿山)にある

芭蕉の句について、

≪芭蕉の句が四つあって二つに月が詠まれています。羽黒山と月山の句です。≫

と語りそれは、次の二つです。 

 涼しさやほの三か月の羽黒山

  雲の峰幾つ崩て月の山

「涼しさ~」の句について

≪羽黒山の「黒」の字が効いていて暗い夜空に細い月がほのかに浮かびあがる。

「ほの三か月の羽黒山」は現実、「涼しさや」は心の世界ですから古池型の句です。

 月山の山上で野宿をしたのは六月八日*です。日が暮れると頭上に半月(八日月、

上弦の月)がのぼっていました。≫ (* この間の芭蕉の旅日程に長谷川さんの記

述と岩波ジュニア新書本などと違いがあります)

 「雲の峰~」について、

≪もはや夜になって今はこの月山を月が照らしているばかり。昼間の青空にさかん

に湧きあがっていた入道雲は果たしていくつ崩れたのだろうかというのです。雲の峰

といい月の山といい、壮大なスケールで天空つまり宇宙を描き、その転変に心を動か

されているのです。

 この句は「月の山」が現実、「雲の峰幾つ崩て」が夜になって昼の空を想像している

心の世界です。これも同じく古池の句を発展させた句です。≫

 このあと、日光での

 あらたふと青葉若葉の日の光

をあげて、月山という山の名前と月に照らされている「月の山」と、「日光」という地名と

「日の光」=太陽の光という二重のイメージをもっていることを述べています。


出羽三山、過去・現在・未来。

2014-01-24 21:58:54 | kaeruの「おくのほそ道」

 長谷川櫂さんの『おくのほそ道』から少しはなれますが、こんな記述が見

られましたので、紹介させて下さい。

 書かれたは堀切実先生で(現・早稲田大学名誉教授)の『おくのほそ道

 永遠の文学空間』(1996年・NHK出版)です。

≪山形県の中央部にある月山・羽黒山・湯殿山の、いわゆる出羽三山は、

推古元年(593)に能除太子により開かれたと伝えられ、本地仏としては、

月山に阿弥陀如来(過去)を、羽黒山に観世音菩薩(現生)を、そして湯殿

山に大日如来(未来)を当てていることから、別名を「死と再生の山」といわ

れています。≫

 そして羽黒の修験道などについて語って

≪ヨーロッパ文明のような “人間が自然を支配する” という考え方でなく、

“人間が自然に帰一する” という考え方――仏教でいう「山川草木悉皆成

仏」の思想が、そうした修行体験によって、直感できるそうです。自然と生

命が通じ合うのでしょう。≫と述べておられます。

 

 私たち夫婦が羽黒山頂の出羽三山神社を詣で五重塔へと降ったのは

2011年の夏でしたが、「おくのほそ道」のことなど頭になく、五重塔もその

場に立って国宝であることを知る、という有様でした。それでも塔のただず

まいはこうしてPCに向かいながらも思い浮かべられます。

 同じ道でも建物でも、山川海でも知って見るのと、知らずに見ているのと

ではその理解に大きな差ができるでしょう。その場その物の過去現在そし

て未来へも思いを発することができるかに関わってくると思います。もちろ

ん「知る」内容の量と質にかかわることでしょうが。

 同時に、そこで「知る」ことが自分の人生と縄なう関係でありたいと思いま

す。その場の「過去・現在・未来」を自分の「過去・現在・未来」とどう一体の

ものとして受けとめられるか。そのつなぎ目としての「知識」でありたいもの

です。

 

 長谷川さんの「おくのほそ道」に行く前にかなり長い道になりました。その

部分も長くなりそうですので、明日に。

 風邪がはやっております、早めの……(kaeruには生姜湯がいいようです)。


月山に向けて。

2014-01-23 21:07:55 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅   (1/23着信)
○現在地 最上川に到着しました。 
○次の目的地  月山
○次の目的地までの距離  35.1km 46,872歩で達成です。

国宝五重塔 【http://ja.wikipedia.org/wiki/羽黒山五重塔】

Wikipediaの「羽黒山五重塔」のリード部分を記しました。

≪山形県にある山岳修験の道場である月山、湯殿山、羽黒山を合わせて

出羽三山という。このうち羽黒山には三山の神を祀る三神合祭殿があり、

そこへ至る参道の途中、木立の中にこの五重塔が建つ。近くには樹齢

1000年、樹の周囲10mの巨杉「爺杉」がある。≫

 長谷川櫂さんのこの場での話は明日記したいと思います。

 孫の行っている高校で風邪がはやり、孫もダウンしたとか。別に一緒に

暮らしているわけではありません、うつるわけもないのですが少し調子が

悪くなってきました。風邪など付き合うことでもありませんので、熱い生姜

湯でも飲んで寝ることにします。

おやすみなさい。


五月雨と大河を詠む、芭蕉と蕪村。

2014-01-15 22:06:33 | kaeruの「おくのほそ道」

 冬のさなかに、「五月雨」の句の話に冷たさを倍する思いですが、ご勘弁

をねがって昨日の続きです、あらためて最上川の句を、

  五月雨をあつめて早し最上川

 

 「おくのほそ道」の本文は

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。

=最上川を舟で下ろうと思い、大石田という所で舟遊びによい晴天を待った。

とありまして、ここ大石田で土地の俳人たちと句会を催しています。

 その場で詠んだのは   

  さみだれをあつめてすゞしもがみ川    でした。

 長谷川櫂さんの文章より。

≪『おくのほそ道』ではこの「すゞし」を「早し」に直しています。なぜあらためたの

か。二つの句はどうちがうのか。

 歌仙(大石田での句会)の発句として詠んだとき、芭蕉はまだ舟に乗っていませ

ん。つまり岸から眺めた最上川の印象が「すゞし」です。さらにこの「すゞし」は土地

の人々への挨拶でもあります。

 一方、『おくのほそ道』に入れた句は舟に乗りこんで最上川を下りながら詠んだ

句です。「早し」は激流を下るときの最上川の印象です。

 蕪村にも五月雨と大河を詠んだ句があります。

 さみだれや大河を前に家二軒 

 二つの句には芭蕉と蕪村の資質のちがいがはっきりと出ています。芭蕉は舟に

乗って激流に乗り出し、大河と一体になっています。その結果、句には躍動感が

あふれています。

 一方、蕪村は大河の岸辺から、というよりは空中の一点から大河と二軒の家を

眺めています。梅雨の大河を詠んでいいるのですが、ここにあるのはあくまで静か

な一枚の絵です。芭蕉の句と比べると、動と静のちがいがあります。蕪村は芭蕉

の句を十分意識してこの句を詠んでいまし。芭蕉は「五月雨をあつめて早し」と詠

んだが、私は五月雨の大河はこの句だというわけです。≫

 続けて長谷川さんは、蕪村は本業の画家の目、芭蕉は本業の歌仙の感覚があ

ふれていると述べています。 歌仙とは連句の一形態で、連句とは参加者が長句

(五七五)と短句(七七)を交互に詠みあうもの、全部で三十六句つづける連句を

歌仙といいます。


新庄から最上川へ。

2014-01-14 22:40:39 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (1月13日着信)

○現在地  新庄に到着しました。 

○次の目的地  最上川

○次の目的地までの距離  60.4km

○次の目的地までの歩数  80,601歩で達成です。

 

  「おくのほそ道」の章は立石寺の次に最上川になります。長谷川櫂さんの

『松尾芭蕉 おくのほそ道』でも「芭蕉と曽良は立石寺をあとにすると、出羽

三山へ向かいます。この二つの聖地をつなぐのが最上川です。」と書かれて

います。 そして、次の句について蕪村の句などと比較しつつ解かれています。

 五月雨をあつめて早し最上川

 その部分を明日紹介したいと思います。


冬の蝉。

2014-01-03 21:59:42 | kaeruの「おくのほそ道」

 蝉といえば夏、そして芭蕉の句と立石寺です。

  閑さや岩にしみ入蝉の声

  (しずか)       (いるせみ)

 「kaeruのおくのほそ道」もその立石寺に着きました。 (12月31日着信)

立石寺に到着しました。  次の目的地  新庄

○次の目的地までの距離  60.7km  歩数 81,028歩で達成です。

 芭蕉がここに立ち寄ったのは元禄二年五月二十七日(1689/7/13)で、

当初予定になく 『おくのほそ道』 本文に「人々のすすむるに依って」と書か

れている通りです。

 もし人がすすめなければ芭蕉は立石寺に向かうこともなく、当然この一句

も詠まれることもなかったなどというのは無駄話で、要は芭蕉の俳諧人生に

おいて詠まれるべくして詠まれた一句だということです。

 その辺のところを長谷川櫂さんは、≪芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にう

ねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづい

ています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑

さ」を感じとった。本文の「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として」、あたりの美し

い景色はただひっそりと静まりかえって、とはそういう意味です。

 このような「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地

の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのです。(略)

 この句は古池の句によく似ています。

 古池や蛙飛こむ水のおと

 古池の句は「蛙飛びこむ水のおと」という現実の音を聞いて「古池」が心の中

に浮かんだという句でした。山寺の句は、「岩にしみ入蝉の声」というこれも現

実の音を聞いて心の中に「閑さ」が広がったといっている。つまりこの句も古池

の句を発展させた句です。≫

 

 長谷川さんは芭蕉は「古池の句」を詠むことによって会得した俳諧の境地を

深めていく過程として「おくのほそ道」の文学性を見ています。芭蕉が「古池の

句」を詠んだのは「おくのほそ道」への旅に立つ三年前です。その「古池の句」

を生みだすまでに芭蕉の人生の半ばがありました。

 「古池の句」に至るまでの研鑚とそれを受けての「おくのほそ道」の旅、その

旅を通じての芭蕉の到達していく境地。 蝉が夏木立のなかで鳴くに至るまで、

数年の地中での生存を要したことに比してもよいでしょう。

 この寒空の山中のさらに土の中、数か月あとの夏空へむけての準備の過程

の幼虫がいます。


尾花沢 -ある財界人と俳句ー

2013-12-28 20:39:59 | kaeruの「おくのほそ道」

 これは直接「尾花沢」に関係することではないのですが、昨日の「豪商」

との関係でここに置いておきます。なお、昨日「-豪商と風雅ー」とタイトル

しましたが、一般的に「豪商と風雅」を語っているわけではありませんので、

「ある」を加え訂正しました、今回も同じ趣旨です。

 

 財界人の自選句集の 『財界歳時記』(日本能率協会・昭和六十三年刊)

という本のなかの古館六郎の下に(俳号・曹人)とありましたので、この人な

ら記憶にあると思いました。

 所持本に 『古館曹人 句会入門』 があり、そこの俳人としての紹介。

「大正九年、佐賀県に生まれる。五高時代に兄麦青の指導で俳句を始め、

東大ホトトギス会で山口青邨に師事。昭和二十八年俳誌「夏草」同人。現

在「夏草」代表。俳人協会副会長。(略)」(平成元年刊・角川選書)

 財界人としては、「昭和二十一年学徒出陣復員後太平洋炭鉱入社。四十

三年取締役。四十五年太平洋興発常務取締役。同副社長。五十八年退職」

とあります。

 

 その古館氏の「句作の動機ーープロの道」と「俳句と経営――虚と実」。

 (『財界歳時記』 202、203頁)

 ◎ 「句作の動機――プロの道」

≪ 私は五高時代から句作に入ったが、井泉水に心酔する父と風生門の兄

の影響であった。第二の動機は京大に入って山口青邨先生に入門したとき。

第三の動機は会社を引退して俳句に専心しようと決意したとき。趣味から脱

してプロになることであった。プロとは芭蕉や子規の後を追うことでなくて、芭

蕉や子規の志したことを、自分の志にすることである。俳句や歌仙(連句)の

句会を繰り返して、句会が理想的な創造的チームづくりであることを発見して

その開発に十年が経過した。≫

 

◎ 「俳句と経営――虚と実」

≪芭蕉の言葉に、<虚に居て実を行うべし><実に居て虚に遊ぶべからず>

という虚実の教えがある。実は現実で掌の上にあって見えるもの、虚は現実

を取巻くもろもろのもの、例えば宇宙・未来・神・真理・美など。経営学でいうと

未来指向のことである。私がかって会社の役員になって最も困難だったのは

未来指向であった。長期計画は過去から今日までの実績(現実)の上に将来

を積み上げるのではなくて、未来の仮設(虚)から今日の行動を決するもので

あった。難しいのは頭ではなくて如何にして未来指向を実行するかにあった。

俳句は眼前の薔薇を見て、その美しさを詠むのではなくて、薔薇の美しさ(虚)

に身を置いて眼前の薔薇(実)を詠む。これができれば俳人は一人前なので

ある。≫


尾花沢 -ある豪商の風雅ー

2013-12-27 21:54:47 | kaeruの「おくのほそ道」

 芭蕉が尾花沢で頼った清風は、紅花問屋であり大名に貸し付けするほど

の金融業も営む豪商でした。山形盆地一帯の紅花を集荷し京都を主な出

荷先としていたので、清風は京や江戸に出かける機会が多く俳諧師とも付

き合い俳人としても名を知られ、芭蕉との付き合いも当時で十年近くになっ

ていました。

 芭蕉は「おくのほそ道」で、清風を「かれは、富めるものなれど、心ざし、い

やしからず」と評しています。「清風さんは、お金持ちだけれども心は卑しくな

い珍しい人物ですよ」と。『徒然草』で兼好が「むかしより、かしこき人の富め

るはまれなり」といっていますが、そのまれなる人だと言うのです。

 

 清風の話を「おくのほそ道」からずれて少し。

  (金森敦子著 『芭蕉「おくのほそ道」の旅』・より)

≪清風はこれから三年後に家督を相続し、清風の代で(紅花問屋)島田屋は

大いに発展する。清風は剛胆さの持ち主でもあったようだ。 元禄十五年(17

02)には江戸品川で紅花を焼いたと見せかけて実はカンナ屑(染めたおが屑

とも)を焼き、紅花の値をつり上げて巨利を得たとか、吉原の遊女高尾大夫を

仙台侯と争ったとかの話は、いかにも元禄期の大商人にふさわしい華やかさ

がある。

 芭蕉が訪れてから十七年後の夏、江戸から来た二人の俳人が紹介状を携え

て清風を訪ねた。ひどい土砂降りの夜のことだった。ところが清風は、「今は俳

諧をやめているし、その紹介状を書いた人にも心当りがない」とピシャリと戸を

閉めてしまったという。

(略)

 その後に尾花沢を訪れた旅人は「清風のことを尋ねしに、今は孫の代にて家

も衰え、風雅の道はしらぬ人といいぬ」と記している。≫