昨日の寅さんは「第7作 奮闘篇」でした、観たあとこの作品がなかなか奥行きの深いものだった、と感じてこの本、
や、吉川孝昭さんの
を見ていたらますます感じるところ多くなりました。
結局まとめることが出来ず、さらにこちらも気になりまして、
挑戦者・藤井聡太六冠危ない❗️ に気が奪われかけて……、こちらの「つぶやき」が危なくなりましたのでそっちは目をつぶります。
「男はつらいよ 第7作 奮闘篇」の冒頭は1970年代の集団就職の少年少女の姿が映し出されます。
ここの場面について『みんなの寅さん from 1969 』ではこう書かれています。
第七作『奮闘篇』の冒頭、新潟県は越後広瀬駅での集団就職の少年少女と両親、祖父母との別れの場面に、寅さんが居合わせるというエピソードがあります。(略)この冒頭シーンは、渥美清さん以外は、すべて普通の人たちです。学生もお母さんもおばあちゃんも、見送りの人も、このシーンは現実世界に寅さんがいたら? という実験が行われているのです。
ここを読みながらkaeruが上田の高校を失業し伯父の紹介で決まった東京神田の本の問屋に向けて旅立ったときのことを思ったのですが、まったく記憶にないのです。集団就職ではありませんが、確か卒業前にすでに東京に出ていたと記憶しています。卒業式に出た記憶はないのですが出たとすればいったん上田に帰って来たのでしょう。
この少年少女の場合、何人か同じ仕事先であったり一緒の旅立ちだが就職先では一人という子もいたでしょう。何れにしても一人一人にとって学生生活から別の、本格的な社会的奮闘努力に向けての旅たちです。
『みんなの寅さん』のめくりながらもう一つの「奮闘努力」の有り様を知りました。それは映画画面ではなく山田監督のシナリオづくりの段階です。『みんなの寅さん』に次のような監督の文章が紹介されています。
六十九年の八月に第一回の「男はつらいよ」が始まって以来、この「純情篇」に至るまで、何と驚くなかれ六本の脚本を、もちろん森崎東君や宮崎晃君の協力を得ながらでは私は書き続けて来たのである。全く逆さにしても血も出ないというのが現在の状況であろう。
『男はつらいよ 純情篇』のシナリオが掲載されたキネマ旬報1971年1月10日号増刊「男はつらいよ 大全集」に載せられたものだそうです。逆さにしても血も出ない、これほどの奮闘の結晶としての「奮闘篇」だったらこそ『みんなの寅さん』の佐藤利明さんは山田監督がこう言っていたと紹介しているのでしょう。
あるとき、山田監督に「男はつらいよ」シリーズのベスト3を選んで頂いたことがあります。もちろんランキングは、ぼくら同様、その時々によって大きく変わると思いますが、その時、山田監督が迷わず選んだのが、この第七作『奮闘篇』でした。
さて、名人戦はこんな状況です、
この姿は投了表示の直後です、渡辺名人踏み止まり反転攻勢にか。