続 秋元不死男「歳晩秀句」
年を以て巨人としたり歩み去る 虚子
一年の歳月を “巨人” であると比喩した。年が暮れるとは、その巨人が歩み去ることだといった。地上の生きとし生けるものの小さな葛藤、生存の喜怒哀楽などは、年という巨人からみれば些細なこと、年はただ赴くままに、のっし、のっしと行くだけ、年のうしろすがたに非情を見よ、そういった俳句で、私の最も好きな句である。
行く年の山へ道あり枯茨 水巴
渡辺水巴のこの句も好きである。いままで見てきた主観のつよい歳晩俳句とくらべると、この俳句は極めて淡如、歳末の山道風景をさりげなく詠んでいる。しかし、縷々たる小径と枯茨の人気のない場所が、何か逝く年の情緒に纏綿してくる。こういう淋しい情景を歳晩の折に口ずさむと、人ごみでごったがえしている街の歳晩を忘れさせてくれる。
偶々歳晩という折に、秋元不死男の俳句に関する数句と鑑賞文を読むことができました。水巴の句の鑑賞文以外は鑑賞文全体の何分の一かの抜粋です、あらためて記しておきます。関心のある方が全文に読まれる機会があればと思います。
さて、本題の「冬の水」の例句の件へ。
1,冬の水木影うつして偽らず
2,ありのまま木影をうつす冬の水
《このふたつの句は、木影をうつした水は、いつわりがない、ありのままだ、ということを詠ったものである。つまり、水というものは何でもありのままにうつすもので、~いつわりもない正直なものであるーー、そういう、いわば理屈をもとにしてできた句と解される。それは、この句に「冬の水」ということばはあっても、じつは冬の澄みきった水の実体をつかもうとしている気合のないことでわかる。いわば冬の水は借りものにすぎない、作者の関心はべつのところにある。それがいまいった理屈なのである。》
このあと秋元不死男は、
我ものと思へば軽(かろ)し傘の雪 其角
朝顔に釣瓶取られて貰い水 千代女
を例に、《 これらの句には感傷が打ちだされている。しかしそれは、きわめて浅く俗にでている。だからつまらないのだ。浅く、俗にでているわけは、感傷が人情の浅い底からでていて、その人情が理屈でいわれているからだ。》と述べ《 理屈や人情は避けたほうがいい。詩のこころとは裏腹になりやすい。初歩のうちに理屈を俳句にしょうとして興味をもつと、とりかえしのつかないことになる。》と大変こわいことを述べています。
3以降について明日に。
俳句から遠のいて、川柳ならまだ17文字
ですが・・それを過ぎて、都都逸になって
しまいます。小学校三年生で出て来る俳句
たまたま今年私の孫が俳句を・・その奥深さ
難しさに、孫も頼りなげに私を見ていました
ありのままの中に季語が入れば・・最高です
一茶の句なんか一番身近に受けとってくれておじいちゃんはよく知っているなーと感心するでしょう。