3 木々の枝こまごまとある冬の水
4 冬の水平らかに木影うつしをり
この二つの俳句について《 これらの句になると理屈はない。冬の水に木影がうつっているという自然の事実を描いているだけで、つまり見る眼がもとになっている。こういう句を写生の句という。》と述べます。そして真の写生という立場からみてどうかと論をすすめます。
《 真の写生とは、まず則天去私に立って事実を尊ぶということから始まる。尊ぶということは対象をいかに深く、鋭く見るか、ということである。深く鋭くみるということは、そのものの内部にはいることである。内部にはいるには、そのものの生命に、自分の心の真実がふれなければだめだ。》
《 だから、写生の眼はカメラのレンズとは違う。ただ状態を写すのではない。実体をつかむのだ。それが人間の眼である。人間の眼は対象を尊重すればするほど、対象のなかにはいらなければならぬ。はいるには心のはたらきが自然に生じなければならない。ただ、ものをありのままにスケッチする、そいいうのではない。それは軽い技術の練習であ》ると述べています。
その上に立って《 これらの句をみると、観察している眼が皮相なのにきがつくのである。~要するに、かかる冬木水映の、自然のもつ透徹した静けさの重み、つまり生命がこの句ではとらえられていないのだ。それは作者の心が対象のなかに、じっとはいりこんで実相をつかもうとしていないからである。そこにこの句のものたらさがある。ひとことでいえば心がないのだ。》
《 スケッチの写生で終ってしまっては、詩に昇華されず、一種の報告になる。観察して深くて感動するところがあって、それがおのずからことばの表現を産むのが詩だからである。感動のない観察は、よし対象の真は描けても、作者の心象とか風懐とか、大きくいって、自己の人間的要請というものは示せない。》
このあと5、6、7について語る部分が続くのですが、これから小父さんの所で年越し蕎麦、そして森山神社へ、初詣参拝者をむかえますので、この後は来年に!
これを読んでおられる頃はもう 明けまして…でしょうか(笑。
ともあれ、今年は大変お世話になりました。
来年もまたよろしくお願いします。
本格的な寒さに向かいます。 お風邪など召されませんよう…
良いお年をお迎えください。
22時から森山神社です、午前3時頃帰宅でしょう。その頃はひげさんは夢の中、蛙が餅を食べている夢を見たらそれはワタシです。
来年も宜しく!
つい口がモノを言い出します。
実体をつかむ・それが人間の眼・・
これには異議はありませんが、
私の場合はその実態を掴む能力が
無いので・・止む無くカメラに
その瞬間を・・その瞬間を撮ると
同時にその前は? その後は?? と
想像できるような一枚をなかなか
撮れません。
ましてやその実態を見て五七五に
なんてとても無理な話・・なので
写真で・・と屁理屈を・・信州人
らしいでしょう。
今頃は 森山神社でしょう。
神社で二年参りのお迎えを・・
ご苦労様です。風邪なぞに負けずに
お勤めを・・良いお年をお迎えください
ハイ、私も年越しそばを食べて無事年を越す準備を整えました。
ひげさんの宝くじを当てにしないで鹿児島で会えるのを楽しみに待つことにしましょう。ありがとう、そして来年もよろしく。
カメラの性能の進化と技術の発展で、撮影者の心をどう映像化するかという点では格段の進歩があるのではないでしょうか。
写真が芸術分野のなり、広範な人々が参加してきてる現在ではレンズも言葉となってきているとは言えませんでしょうか。
今年も、の「も」を何重ににも強調して、よろしくお願いします。