今日「kaeruのつぶやき」を少しさかのぼって見る時間があり、鹿児島の知覧へ行った時のことを考えていたもので、このブログの新聞記事を見て紹介しました。
本文の文字写ししておきます。
「特攻は美しいものではない」。太平洋戦争中、 飛行機で2度出撃し、機体故障で帰還した元特攻隊員桑原敬一さん(88) =横浜市瀬谷区=は「私たちにとっては志願ではなく事実上の強制だった。弱い者が犠牲になる戦争を二度と起こしてはいけない」と訴えている。
桑原さんは東京で生まれ、岩手県で育った。1942年、16歳で海軍飛行予科練習生に。45年2月、兵庫・姫路海軍航空隊で白い紙片と封筒を渡され「特攻隊への参加を希望するかどうか書け」と言われた。拒否したかったが「命令のまま」と書いて提
出。指名されたのは、その2日後だった。「死ななければいけないんだ」。巨大な力で押しつぶされるような感覚に襲われた。
沖縄戦が激化した4月、鹿児島・串良基地へ。 先に出撃が決まった同期生から「まだ死にたくない。代わってくれ」と迫られた。何も言えなかった。同期生はこわばった笑みを浮かべて飛び立ち、戻らなかった。
桑原さんにもその時がやってくる。 5月3日、翌朝の出撃が決定。800㌔爆弾を積んだ艦上攻撃機に3人で乗り込み、沖縄周辺の米艦に突っ込むため離陸。涙がぼろぼろこぼれた。
ところが、エンジンから異常音が聞こえ、黒煙が出始めた。
種子島の飛行場に爆弾を抱えたまま不時着。串良基地に戻ると、上官から厳しく叱られた。
1週間後、2度目の出撃。飛行中に油が漏れ、再び種子島に着陸使える飛行機がなくなり、翌日、解散命令が出た。その後、赴いた台湾で終戦を迎えた。息子と対面した母は泣いて喜んだ。
「上官は出撃せず、 上官に目をかけられている人間は指名されなかった。強者が弱者を矢面に立たせることを実感した」
元隊員の体験談には特攻を美化したようなものが多いと感じ、84年に「串良 ある特攻隊員の回想」を出版、自分が直面した苦悩や絶望をつづった。「面汚し」と非難されたが、桑原さんはこう反論する。「勇ましい建前で陶酔することは簡単だ。だが、戦争はそんなもんじゃない」
して、福島県と茨木県に何度も戦友会に行きました
その戦争の悲惨なことは・・私はお話として聞いて
当時の皆さんの軍人恩給の申請手続きなどをお手伝い
いろんな人たちの戦後の生き方を目の当たりにして
戦争というものを感じてきました。福島や茨城の戦友が
訪ねてくると 一晩中仲間の話や昔話に・・付き合い
ました。今は誰も居なくなりました。
夫々の戦争・・望む人はないが・・戦争は終わらない
れ5年間抑留生活をして来ています。当時のことは殆
ど聞いていません。一度ひ孫に向かって「爺は鉄砲を撃たなかった、兵隊を管理する内務班にいたから」と
いうようなことを話した場に私もいました。
戦争が拡大するなかで、当時大手の鉄鋼会社にいた義
父が収入のかなり減を受け入れながら公務員としての
警察官に職を替えたのは自分が兵隊にとられたあとの
家族の家計のためだったと聞いた覚えはあります。
戦争を考える、戦場に目を据えたままなら対立するも
のですが目を「敵」の銃後に向ければ、自分と同じで
国によって分けられておる普通の人がいます。それだ
けのことです、そこに目を向ければいいだけです。