ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(68)高野山<続>

2014-07-04 17:10:18 | 私の関西百山

【高野三山】

始めて三つの山(摩尼山、楊柳山、転軸山)を巡拝したのは1988年7月である。町内のハイキング同好会のメンバーで歩いた。摩尼山山頂(1004m)からの尾根道には咲き残ったササユリやホタルフクロが目を楽しませ、左手にこれから至る揚柳山が特徴のある姿を見せた。右手には紀の川越しに和泉葛城あたりか、霞んで見える。この時は楊柳山(1008m)から転軸山は割愛して、急坂を下ると高野槙の苗木畠のある一軒家にでた。三本杉を経て元の林道に出て奥の院・弘法大師の御廟に参詣して山行を終えた。

2005年、猛暑が続く8月初旬、河口慧海師の供養塔を尋ねる機会に、奥の院を囲む三山を二人で歩いた。奥ノ院参道を進み御廟橋から御廟を拝んで右に折れる。水向地蔵さんの横に「水行場」と「三山巡り参詣入口」の石標が並んでいる。「浄め橋」で玉川を渡り、門を出て林道を登り、急な登りで摩尼峠へ。摩尼山からはゆるやかな尾根道を行き、左手の展望が開けるところからは咲き終わったササユリが点々と続いていた。

黒河峠から急登になり、いったんゆるんだ傾斜を再び階段道を頑張ると揚柳山山頂に出た。

祠があり、前に「揚柳観世音」側面には「天保五甲年三月」、と「摩尼山二十丁、転軸山二十丁」の石標が立っている。三角点はこの祠の後ろにあった。いったん下った後、スギ林の中を登り返す。木のベンチと道標があるピークから、かなり急な階段道の下りになる。

下りきった所はT字路になっていて、「左奥の院、右・久保、北又へ」「粉種(子継)道」の標識がある。この子継峠から左へ下る道は、少しじめじめしている。沢沿いになり、小さな木の橋を何度か渡って草原に出た。ようやくT字路になった車道に出て、横断してスギ林の中の階段を登る。

いったん勾配がゆるみ再び急登になると弥勒菩薩の祠がある転軸山頂上。奥の院へ下る道を見送って、女人道の通る南西尾根を転軸山森林公園に下る。急な坂道から薄暗い林の中に入る。シャクナゲの群落を過ぎ、池の横を通ると急にバスの通る舗装路に出た。しばらく道を探してウロウロしたが、杉林の中の玉石を敷いた道に出て、供養塔が並ぶ区域に入る。

 

慧海師の供養塔は一の橋近く、参道に建つ「雪山道人慧海師供養塔」という石標から三区画奥にある。下部に「慧海」という大きな文字を刻んだ五輪塔で、横に由来を記した銅板を埋め込んだ大きな石標があった。

今年(2014)5月、丸屋夫妻と4人で三山を巡った。10年近くの間に辺りの様子が変わっていて摩尼山への登山口へ行くのに少し戸惑った。摩尼山からは以前の尾根道を行かず、左山腹に道が付けられている。展望も樹木の間から辛うじて楊柳山の姿をちらりと見ただけに終わる。楊柳山で昼食の時、女性を含む6人の若者グループが登ってきたが、他には誰にも出会わない貸し切りの山だった。子継峠から杉林の中を細い流れに沿って下る道はうんざりするほど単調で長く感じる。奥ノ院の方からくる車道を渡って、三山最後の転軸山への登り道になる。ゆっくりと登りつめて山頂に立つ。奥ノ院への下り道は通行できなくなっていた。

シャクナゲやシロヤシオの咲く南西尾根を転軸山森林公園に下る。今回も少し戸惑ったが、中之橋霊園の横からスキー場の下にでて石畳に道に入るとすぐに一の橋から来る御廟への道に合流した。前に探した『我国最初のヒマラヤ踏破者、日本チベット学の始祖』(墓碑銘による)河口慧海の墓に詣で、中の橋へ参道を歩いて三山歩きを終えた。