






2020年2月5日の投稿です。
いきなりですが引用です
◇ ◇ ◇ ◇
現代は、あらかじめ用意された住居が
個人の好みで建てられる時代である。
それは昔とは逆に人間関係を規定し
個人や家族を隔離し、社会のつながりを分断している。
今一度、人間どうしの豊かな関係が見える住まいを
考えなおすときが来ているのではないだろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
山極寿一著(朝日新聞出版)
長年、住宅販売を生業としてきたモノとしては大きなテーマであります
今回のお題は「住いの意味」
このEHAGAKIのメール以前、まさしくハガキで出していた時のネタ
そして山極寿一氏の著書からであります
◆実家の記録(LS HAGAKI Vol.33 2000.11.13 から)
◆住まいの意味(ゴリラからの警告「人間社会ここがおかしい」から)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
LS HAGAKI Vol.33 2000年11月13日
面白いものを発見しました
私の実家の新築工事を、祖父が克明に記録していました
それによると
計画及設計:昭和35年9月
工費予算:金参百萬円
施 工:橋長弥一郎
大工棟梁:清藤好濤
旧家取潰:昭和36年2月15日
起 工:昭和36年2月14日
上 棟:昭和36年3月15日
竣 工:昭和36年10月20日
落成式 :昭和36年12月17日
工費:3,366,259円
追加: 974,995円
合計: 4,341,254円
支払先/摘要:金額
枚方木材/木材一式:1,455,722円
石井窯業所(瓦熊)瓦一式(葺手間共):259,748円
津田組/栗石、砂利、砂:39,100円
土方建材店/セメント、ブロック:29,400円
矢田商店/壁土:7,200円
関本建材店/タキロン波板:2,700円
小阪タイル/タイル工事一式:74,786円
清藤大工/賃金:346,000円(↓出務表あり)
清藤大工/釘、金物一式、プラスタイル其他:23,483円
清藤大工/手傳賃金:19,000円
清藤大工/建築許可申請書代:5,000円
奥村建具店/建具一式:629,000円
古川天下堂/ニス、ペイント塗装一式:46,700円
谷川金物店/トタン板、ラス網:2,300円
和田金物店/タキロン波板:3,600円
大宅ブリキ店/銅版、戸置け、トタン張り一式:92,225円
松村左官/左官賃金、材料一式:113,760円
加門製畳所/畳一式:53,350円
山口電気商會/電気工事一式:51,000円
津田工業所/水道工事一式:16,530円
吉川酒店/瓦斯工事及び器具:11,800円
丸公商店/土管、便器其他:6,385円
吉川洋家具店/応接セット其他:77,470円
小計:3,366,259円
玉田、千松/石工賃及び一ツ石代:4,200円
吉田幸次郎/壁下地竹:5,000円
高槻建材店/曲り土管其他:800円
浜田建材店/換気鋼:540円
松原石材店/手水鉢穴堀及び沓石削り:4,200円
扇屋家具店/応接セットカバー:8,500円
近所お礼/酒、砂糖:13,500円
上棟式費(↓写真及び明細あり):112,170円
落成式費:39,170円
造園植繁其他:722,000円
片山塗装店/ペンキ塗装一式:65,000円
小計:974,995円
合計:4,341,254円
※それぞれの支払い先別にすべての明細が記録されていました
かなりの量(全66ページ)がありましたが割愛させて頂きます
まぁ、当時でも請負契約による工事が
多くなっていたらしいですが
この様に施主がそれぞれの業者さんに直接発注する
というのが本来の建築の姿なのでしょうか
とてもこのハガキでは書ききれませんが
木材や瓦を始めとするほぼすべての明細や
大工さんや手伝いの人の出勤簿
御祝いの明細から、おやつに頂いた「おはぎ」の数まで
記入してありました(日本酒1本510円 等)
当時、私は2歳でほとんど覚えておりませんが
午前・午後、それぞれ1回の休憩や昼食時、大工さんに
お茶やお菓子・酒・ビール等を出していました
(その後に見た建築現場や植木屋さんとオーバーラップしていると思いますが)
杉や檜の樹の匂い
のんびりと仕事をしている様な大工さんの
鉋掛の時の真剣な表情
祖父もこの「自分の家を建てる」ということに
「楽しみ・喜び」を感じていたんだなぁ
ということを、このささいな発見で確信できました
家を建てたり買う人にはもっと
プロセスにおいて「楽しみ」が必要ではないか
売る立場の我々には
「買うことの楽しみ」を含めて買っていただく感覚
そしてそれを「美学」としてこだわることが必要ではないか
と、現在の商人・職人として感じている今日この頃です
(2000.11.13)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
住いの意味
ゴリラからの警告「人間社会ここがおかしい」から
人類進化700万年、定住をはじめたのはつい最近
1万2千年前に農耕や牧畜が起こる前は
移動しながら暮らす狩猟採集生活
サルや類人猿には奇妙な住居の歴史がある
最も原始的なサルたちは夜行性で
木の洞に安全な寝場所をつくり、そこで子育をする
原猿類はオスもメスも単独で暮らし
それぞれなわばりをもって対立している
交尾期になるとオスとメスが短期間いっしょになる
その後は再び別れ、出産後もメスは単独で子どもを育てる
子どもを置いて食物を探しにくため
寝場所はくり返しもどれるように、なわばりの中心部につくる
夜から昼の世界に進出しはじめると
サルたちは鳥に対抗するために体を大きくし
群れをつくって食物を探すようになる
原猿類が食べているような昆虫や樹液では
大きな体を維持できない
果実や葉を主食とするようになり
群れで広い範囲を遊動する様になる
そのため
巣を捨て広い範囲を移動しながら
毎晩違った木の上で眠るようになる
サルたちには
木の上で安定した姿勢で眠れるように尻だこが発達
赤ちゃんにも生まれたときから母親にしがみつく能力が備わる
人間に近縁なゴリラやチンパンジーなどの類人猿になると
さらに体が大きくなる
体を支えるべッドを木の上につくる必要が生じる
今でもすべての類人猿が、毎晩樹上に一人用のべッドをつくって眠る
樹上のべッドは、地上性の大型肉食獣から身を守り
安眠を保証してくれた
毎晩つくり変える簡単な造りで数分のうちに完成させてしまうが
とても頑丈でめったに落ちることはない
類人猿は生まれつきべッドづくりの能力をもつ
動物園生まれの個体でも、材料をあたえるとべッドをつくろうとする
しかし
人間はいつのころか、このべッドをつくる習性を失う
古い人類の遺跡からべッドは見つかっていない
熱帯雨林を出て草原に進出した人類
危険な肉食獣を避けるため、洞穴や岩壁など
べッドの材料が得られない場所で寝た
単独のべッドで寝るより
安全を期して家族や仲間と寄り合って寝る道を選ぶ
やがて家族や共同体が単位となる住居へとつながる
べッドは家のなか、親子や夫婦がいっしょのべッドで眠る
耐久性があり、何度も同じベッドで眠る
日本人はベッドを使わず、畳の上に布団を敷いて寝た
類人猿のべッドにあたる人間の構造物は
家であり住居のほうがべッドより古い
最近になって2次的に
べッドがつくられるようになったと考えられる
住居と住居の配置は家族間や集団間の社会関係
すなわち共同体の構造を反映していた
著者が子どものころ
まだ大工さんが家を建て左官屋さんや畳屋さんといった
いろんな職人たちの共同作業であった
棟上げのときには近所に餅を配り
近隣の住人が家のなかまで入ってきてあれこれ見てまわる
ところが
現代は、あらかじめ用意された住居が
個人の好みで建てられる時代
それは昔とは逆に
人間関係を規定し、個人や家族を隔離
社会のつながりを分断
今一度
人間どうしの豊かな関係が見える
そんな住まいを考え直す時ではないか
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ということでした
住い、人類という広い範囲はともかく
日本、日本人にとっては、転換期であることは間違い
と、愚考する次第です
ではまた
本年よろしくお願いします
吾唯知足
ルーカスフィルム(ディズニー)とジブリが
共同制作した短編が「禅」だったり
昨年10月、孫2号君が誕生し、禅に通じる名前であったり
禅に関する本を数冊眺め、この言葉を改めて見直した次第です
吾唯知足(われただたるをしる)
精神的に自給自足
満足する気持ちをもつ
もっともっと、と言い出すとキリがない
「このへんで」と精神的な自給自足を達成すれば
人とは比較しないで済むので心は穏やか
千利休
食事は飢えぬほどにて足ることなり
水を運び、薪を取り、湯を沸かし、茶を点てて
仏に供え、人にも施し、そして我も飲む
花を愛で、香を焚き、皆々祖仏の行いのあと、学ぶなり
「南方録」より
ということで
正月気分に若干ですが水を差す話題であります
白米を食べるから太る、のではなく
白米を食べて、運動しないから太る
参考図書)
「江戸っ子の食養生」
車浮代:著(ワニブックスPLUS新書2022/5/20)
https://amzn.to/3PTNDnG
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
◆江戸
家康がやってきた1590年頃、家は100軒ほど
家臣が集まり、参勤交代で大名やその家臣、それらの屋敷が必要
街づくりの → 一旗あげようと人が集まる
男女比 4:1 →幕末になりやっと1:1
超過密の大都市
江戸時代中期以降の人口は100万人
その頃パリは50万人
ロンドンや北京は70万人
江戸の人口の半分は武士、半分は町人
現在の23区より狭い江戸の居住地の60〜70%は武士の住まい
15%は寺社、残りの15〜25%に」町人たちは暮らしていた
裕福な商人は表長屋
庶民は裏路地
九尺二間(2.7m×3.6m)の裏長屋
約6畳が基本形
◆明暦3年(1657年)
1月18日から20日にかけて「明暦の大火」が江戸を襲う
江戸城本丸をはじめ多くの武家屋敷
400町とも800町とも言われる町屋が消失
死者は、当時の人口30万人のうち11万人に及んだとも言われている
その復興の為、全国から職人が集められた
市街地再開発、隅田川東岸の深川エリアの開発が行われた
インフラ整備、防災対策として両国橋や永代橋が架けられた
防火線として広小路が設置された(上野広小路など)
しかし
江戸城本丸は再建されることは無かった
膨大な資金が投入された復興は、人の習慣に影響を与えた
◆一日三食
それまで一日二食が普通であったが、とにかく体を使う
そこで戦国武将並に、庶民まで一日三食が根付いていく
また
物流がよくなり照明油が出回り
起きている時間が長くなったのも一因
◆そこでの料理の特徴
1.冷蔵庫がない →旬の素材をその日の分だけ買い食べる
→新鮮、栄養豊富、エコ
2.燃料費が高い→料理に時間をかけない→栄養を壊さない
→時短簡単レシピ
3.調理法は切る・焼く・煮る=油を使わない
→ヘルシー
4.4つ足食の禁止→肉を食べたとしても少量
→がん予防、胃腸に優しい
◆米好き
成人男性は1日5合の白米
これは武士や富裕層だけでなく裏長屋住まいの庶民も含めて
1日真面目に働けば、銀シャリが腹一杯食べられれる
それが江戸っ子の自慢であった
居候 三杯目には そっと出し
庶民でも真面目に働けば「お天道様と米の飯はついて回る」という土地柄
しかも
江戸っ子が食べていたのは、玄米や雑穀米ではなく銀シャリ
長屋には定期的に搗き屋(つきや)と呼ばれる商人がやってくる
住人はそれぞれ米を持ち寄り、臼と杵で搗いてもらう
そんな精米法なので銀シャリと言っても糠の成分も残っている
それでも
◆「江戸わずらい」なる奇病が流行
脚気、ビタミンB1不足が原因
玄米や混ぜ飯がほとんどだった地方の人はあまりかからなかった
その後
「糠漬け」がブームとなり江戸わずらいも激減したとか
◆一汁一菜
ご飯と香の物(漬物)に汁物とおかずが一品づつ
これはご飯をいっぱい食べるため
◆暮らしそのものが運動
白米は太る?
白米などの糖質を多く摂る→糖尿病
江戸の成人男性に糖尿病はあまり無かった
体質が違うのか?
たかだか200年で遺伝子は変わらない
違いは運動量
様々な職業が出てきた
よほど身分の高い人以外はほぼ徒歩での生活
日々の暮らしそのものが運動であった
その活動源が白米
白米を食べると太る
ではなく
白米を食べ運動しないから太る
◆ダートマス大学ナサニエル・ドミニー博士の研究チームは
2007年に炭水化物を分解して糖にする酵素である
アミラーゼ遺伝子は民族により違うことを発見
日常的に炭水化物をあまり摂らない民族
アミラーゼ遺伝子数:平均4〜5個
対して
日本人は平均7個
◆厚生労働省の公表資料によると
1950年
国民1人1日あたりの摂取エネルギー2098kcal
うち穀類エネルギー比率77%
炭水化物の1日量418g、白米にしてお茶碗6杯以上
2010年
国民1人1日あたりの摂取エネルギー1849kcal
うち穀類エネルギー比率43%
炭水化物の1日量258g、白米にしてお茶碗4杯弱
摂取エネルギーも炭水化物の摂取量も大幅減
なのに
肥満や糖尿病の大幅増
銀シャリばかりを悪者にするんじゃないよ。
こんなにうまいもん食わねえなんて
人生損ってもんだぜ。(江戸っ子談)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ということでした
もう一つ大事な要素、食物繊維につあては、また改めて
以前
白米より玄米
江戸の人は白米を食べていたから脚気になった
なら、バランスの良い玄米だ
みたいなコトを書いたりしておりました(下記リンク)
この本を読むと
今の白米と当時の白米は違う
という、少し考えれば解るコトが書かれていました
やはり二択のデジタル思考より
どこまでも曲線のアナログ思考が大切
と、フィルムカメラにフィルムを装填している2023年元旦であります
新年になっても油断出来ないCOVID-19であります
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様ご自愛下さい
ではまた