お世話になります
テレビでは政治家が「絶対に間違いありません」などと言い、それを訳知り顔のコメンテータが意味のわからない言葉を羅列する
そんな薄っぺらいニュースをイマイチだと思い 朝はもっぱらラジオを聞いております
テレビでは手が止まってしまいますしね
今回のお題は「現象学~当たり前に潜む謎」であります
例によって武田鉄矢「今朝の三枚おろし」という毎日数分の帯番組の二週間分を耳から聞いただけをメモしました
(後からYouTubeで聞き直したりもしてますが)
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■月曜日
わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です
宮沢賢治
幽霊やUFOよりも“当たり前”に謎がある
不思議はもっと手前にある
たとえば 女性はどうして赤い口紅をするのか?
フッサールの「現象学」
あらゆる架空の物語は「これは真実である」と言うのが慣例になっている
皮肉の心理が私たちの日常の状態である
「確実に儲かる」「必ず貴方を幸せにします」
人は「確かさ」を懸命に伝えようとする
確かさを懸命に伝えようとすると、聞いている側は「この話、ちょっと危ないな」と思う
つまり
絶対に、、、必ず、、、確実に、、、本当に
というのは「危ない話」「信用できない話」の枕詞なのだ
本当に確かな話は「絶対に」や「確かな」という形容詞を必要としない
つまり 危なくない、信用できる と思った瞬間にその言葉を使わないのが当たり前である
絶対に、、、必ず、、、確実に、、、本当に
確かではない不安が潜んでいるのである
私たちは確かなコトについては、確かさをわざわざ強調しない
私たちは確かさが不安な時だけそれらの形容詞をつかう
それが日常における自明の真理なのである
■火曜日
バカラの細いワイングラスを2脚もらった、どこに飾る?
一番高いところに、見えやすいところに置きたがる
高いところや見えやすいところは、壊れやすい場所でもある
でもなぜ人はそうする傾向にあるのか
壊れるモノが値打ちがある
壊れないモノは値打ちを認めない 割れないガラス食器は安い
生花がなぜ高いか、いずれ枯れるから
人間は壊れるモノや、やがて消えていくモノに対して美しさを感じる
人間はそういう当たり前なところに謎を感じない
「りんごが木から落ちる」という当たり前の事実に誰も謎を感じない
ニュートンはその当たり前に謎を感じた
そして重力という科学的知見で説明した
重力で世界を説明することは世界では当たり前ではなかった
「子は親に似る」という当たり前は、遺伝子というもので説明されるが、それ以前は説明できなかった
当たり前の中に巨大な謎がある 真理が隠れている
■水曜日
現象学とは日常で素通りされるモノをテーマとして追及する
■木曜日
人間の平凡な暮らしの中に大きな謎がある
それを追求するのが現象学である
絶対に確かであると言われても人間は信じない
しかし疑いを持ってももそれ以上追及しない
永遠の愛を誓う
永遠に守れるかどうか悩む人はいない
絶対か否かの二者択一ではなく私たちはその確かさを程度の差のうちに見抜こうとする
人物の信頼度 どの椅子が壊れやすい 旅の安全
確かさを追及しすぎると動けない、息苦しくなる、不安になる絶対的な確かさは、生の進行を妨げ
絶対を追い求めると人間は不安になる
絶対的な確かさはどこにも無いのではないか
絶対を求めることは“生”の不確かさの不安に沈むことになる
絶対から距離を置く、忘れてしまうことが確かになる
疑いだしたらキリがない
■金曜日
健康についての様々な説、それに伴う疑問の数々
確かさを求める、だがその確かさを疑いながら
しかしそれを私達自身で確かめることが出来ない、そういう現代社会に生きている
その矛盾を解決することは出来ないから“当たり前”として生きている
健康に生きることを自転車乗ることに置き換える
とりあえず自転車のペダルをこぎ走りましょう、矛盾と言う自転車に乗って走りましょう
自転車を主題にせず、前に進み、目的地に向かっているコトを主題にしましょう
それが自転車に乗っているコトを最も確かにすることのコツなのです
不自然な時にだけ思い出すモノ=現象学的還元
失敗した時、忘れ物をした時にだけ「私」を意識する
うまく行ってる時、そこに「私」は意識していない
■月曜日
不自然な時にだけ出てくる「私」
確かさを当たり前のモノが支えている、流れの中でその構造を見ている
サイコロの1の裏は6だと知ってサイコロをみる
「私」とはへまをした時にのみ現れる(自分で意識する)
人間は間違った時だけ個性的である
人間は間違った時に個性が生まれる
私達は流れの中で現れてくる現象なんだ 流れてくる構造
映画を見る
CGか否か 私達はすぐわかる
■火曜日
本物そっくりのCG画面 私たちは一発でわかる
本物とそっくりに作っているはずのCGを見抜きハラハラどきどきしない
車が衝突し、空から飛行機が落ちてくる! 何がおきても驚かない
「アナと雪の女王」は人間そっくりだがCGであることは解っている
CGの動きは数式により動いている
あまりにも矛盾がない、CGには裏を感じない
確かさを支える当たり前には表れていないものが広がっている
サイコロ、家、そこには裏(見えないモノ)があると思う
CGが本物そっくりでも、裏や匂いがない
暖炉で火が燃えていても熱を感じない
CGの世界はアテが外れる可能性がほとんどない
CGの画面を見ている限り何も考えなくてもいい
裏を考えなくてもいい世界、のりしろを感じない
そのことを私たちは知っている
■水曜日
CG画面は規則正しく動くが、しばらく見ているとそれは人の計算で描かれた絵だと気づく
ハリウッド版ゴジラはリアルであるが飽きる
円谷版ゴジラにリアルさを感じる
ハリウッド版ゴジラはゴジラ以外の何ものでもない
しかし、ゴジラ以外の何ものでもないゴジラを見ててもゴジラを感じない
円谷のゴジラは中に人が入って演じている
であるから時には人間のような動きをする(アテがはずれる)
その時私たちは、それを修正して見る
ゴジラは様々なモノに見える 人間のようであり、ワニのようであり、ゾウのようである
どこにでもあって、どこにも無いゴジラという現象で見えてくる
多様な結びつきの現象のかさなりあいを本質として取り出す
ハリウッド版ゴジラは、ゴジラにしか見えない それはゴジラだから
円谷のゴジラは様々なモノに見えるので頭の中で修正しゴジラとして見る
イメージが出来る
円谷のゴジラは毎回、形が変わってきている 我々はそれをも見込んで見ている
CGのゴジラは一回見ると忘れてまう
円谷のゴジラは何かに結びつくので忘れない
■木曜日
コロッケのモノマネは何故面白いのか?
デフォルメするから面白い それは結びつきがあるから
恐竜の森進一
ロボットの五木ひろし
様々なコトが結びついているから“本質”を感じる
森進一が歌っても誰も笑わない
それは森進一本人であり何者にも結びつかないから
コロッケの森進一は、様々な結びつきを感じるから笑える
本質というものは多様な結びつきの現象である
結びつきを持たないモノは本質から遠くなる
生きていることを忘れないと生きていけない
うまく行ってる人は私(自我)を忘れている
私は実態ではなく媒体である
美味しいモノを食べてる時、私を忘れている
私とは現象である
■金曜日
自我とは出来事によって再構成されたものである
最初から自我はいる、と自我は主張するが、自我などというものは出来事が過ぎ去ると形を失うのである
フッサール
自我=私
私というのは時々思い出す私である
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ということでした
フッサールの現象学を少しネットで調べましたが、とても読む気になれない難解さでありました
ちょいと“シンドイ”テーマの比較的分かり易い言葉をメモしてみましたが難しいですね
すいませんでした
ラジオでも半ばあきれながら2週続けておられました
ではまた