お世話になります
セルロースナノファイバー(CNF)
御存じでしょうか
鋼鉄の5倍強く、5分の1の重さで熱にも強いうえ、炭素繊維(カーボンファイバー)の6分の1程度のコスト、プラスチックよりもさらに軽くて、透明材料にもなる
そんな夢のような素材の原料が「樹木」
どんな樹木や植物からもセルロースナノファイバーの原材料であるセルロースを得ることがでる
この新材料が社会で本格的に活用される時代を迎えれば、日本は再生可能な素材の資源大国になる
(京都大学生存圏研究所の矢野浩之教授が長年の研究開発の末に開発)
という明るい話題を知りました
柔らかい木、硬い鉄 そんな単純なモノではないんですね
そしてその素材は“生物”である、ということ
今回のお題は
生物多様性 - 「私」から考える進化・遺伝・生態系 (中公新書) | |
本川 達雄 | |
中央公論新社 |
「生物多様性」
私から考える進化・遺伝・生態系
本川達雄 著 中公新書
多岐にわたるこの本、まずは「序章」から
いつものようにメモの羅列ですが、お時間のある時にでも眺めて頂ければ幸いです
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■ たくさんの環境とさらにたくさんの生物
地球上にはイヌとかネコとかヒトとか異なる種約190万種存在する
植物より動物が圧倒的に多く、高等植物1種あたり10~30種の動物がいる計算になる
その動物の4分の3は昆虫が占める 190万種は学問的に記載されたものだけの数で未発見のものが10倍以上は存在すると見積もられている
地球上の生物なんだから数ぐらい解るだろ?
動物として思い浮かぶ哺乳類や鳥類はほぼ100%わかっている
陸上植物も80%はわかっている
ところが昆虫や細菌となるとわかっているのは全体の10%程度
土の中でうごめいている線虫にいたってはほんの数%しかわかっていないだろうと見積もられている
■ 衣食住
●衣
木綿は綿、絹は蚕、ウールは羊、皮のコートは馬や牛など、人類は長い歴史の中で、ずっと動物の皮や植物繊維でつくったものを身にまとっている
二十世紀には、石炭や石油でつくるナイロンなどの化学繊維が出てきたが、石炭も石油も、元をたどれば生物由来
●食
我々が食べるものは、すべて生物
多様な種の中から、稲や麦のような育てやすく、たくさん実をつける植物を選び出し、主食とした
種が多様だから目的にかなうものを選ぶことができる
生物は種内に多様な変異をもっているからこそ、その中から栽培にに都合の良い新種を選び、改良することが可能であった
主食以外にも、種が多様だから、空腹を満たすだけでなく、食卓を多彩にし、楽しむことが出来る
● 住
我々なじみの木造住宅は、ずばり木材、植物である
コンクリートの材料の石灰岩は石灰の殻ををもつ生物たち、有孔虫(単細胞生物)、サンゴ、貝、ウニやウミユリ、石灰藻などの殻が堆積してできたもの
鉄筋の元になった鉄鉱石もシアノバクテリア(ラン藻)がつくったと言る
太古の海には鉄が大量に溶けていた シアノバクテリアが光合成によって酸素を発生させ、酸素と鉄が反応し酸化鉄となって沈殿し、縞状鉄鋼石を生成し、それを掘り出して使っている、鉄も生物由来と言っても間違いではない
■ 著者の体験
宇宙関係の学会でこんな意見が聞かれた
「生物学は地球という限られた場所に住んでいるものだけを取り扱っている、普遍性がない。宇宙に生物がいることえを証明してはじめて生物学も普遍的なもの、つまり真の科学になれるのだ。」
余計なお世話だ
地球と言う特殊なものなどどうでもよい、と言われた気がしました
地球は宇宙の中のちっぽけな星であり、各生物は、その中のごく狭い範囲に住んでいるさらに特殊なものだからと、地球も生物も貶める主張に聞こえました
特殊とは、かけがえのない特殊なのです
極端な普遍主義をふりまわすこのような科学観は、自分自身が現実に拠って立つ、かけがえのない場であるご当地や、自分自身をも大切にしない自然観・世界観を助長しがちです これではまずいな、と思いますね
■ 歴史性・ご当地主義 Vs 科学という普遍主義
地球には歴史があり、生物にも歴史があり、人間にも歴史がある 歴史は同じことが繰り返されない、一回きりの出来事の連続
巨大隕石落下により大絶滅が起こったあと、絶滅した種が復活した訳ではない
だから将来また巨大隕石が来ても、以前とまったく同じことは起こりえない
一回きりとは、かけがえのないことを意味する
生物はまた「ご当地主義」できわめて狭い地域に分布している
その生物にとってのご当地は、かけがえのないもの
地球上のほとんどの場所が、そこに住む生物ににとってのご当地
このように生物とは、一回きり・その地域限定であり、二重にかけがえのない大切なものである
ところが科学においては、いつでもどこでも繰り返し起こる普遍的なことを取り扱う
法則性が発見できるというのはそういうこと
ある特定の場所でしか起こらないことは、普遍的ではない特殊なことであり、科学的に無価値なものとして取り扱われている
生物は繰り返しのきかない歴史の中に住んでおり、その土地だけに住み、、他のものとは違った存在である
だからかけがえが無く、きわめて大切なものだ、という主張は科学の世界ではなかなか受け入れられない
ここでいう科学は、物理学を典型とする科学のことで、これがほとんどの科学者の持つ「科学というもののイメージ」ではないか
各生物に歴史があり、特定の場所にしか住まないからこそ生物多様性がでてくる
しかし、ういう生物多様性とは、科学とは極めて相性の悪いものとなっている
■ 普遍 Vs 個物
現代人は、個々の自然や生物を大切にしない極端な普遍的科学主義と、私個人だけを大切にする極端な個人主義の二つを信奉して生きているように思う
自分のことを含んで考える時は、自分のことしか考えないごりごりの個人主義・利己主義。
そして自分の外側を考える時は、分子やグローバルスタンダードしか考えない超普遍主義。
その二つの見方しかなく、その中間のことは無視しがちなのが現代人の特徴である
そこが問題なのだと強く感じる
多様性とは普遍性と正反対の概念
唯我独尊的に考える現代人にとって、自分の外の有象無象のものとちに、そもそも興味を持ちにくくし、普遍主義からはそれらを大切にしようという発想も出てきにくいもの
個人と普遍との中間のものたちは、なかなか立つ瀬がない、これが現代である
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ということでした
「生物」 → 「人間」
「科学」「普遍」 → 「グローバル」
と置き換えると、現代のかかえる問題点を語っているように思えてなりません
ではまた