橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #272≪昆布礼讃≫

2013年07月08日 | EHAGAKI

Evernote_camera_roll_20130707_09241 お世話になります

最近「昆布革命」という商品を買いました だし昆布を細かく刻んだものですがこれを一袋(10g)を1リットルの水に入れて一晩

いいだしがとれ さらに2回までだしがとれる 残った昆布をオリーブオイルに漬け 様々な料理に使える と

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ということで 手間をかけずに美味しく頂いております

そんな今日この頃 一冊の本を買いました

敦賀の老舗昆布問屋 永平寺御用の奥井海生堂のご主人 奥井 隆氏の昆布を語った本です

昆布と日本人 (日経プレミアシリーズ)

昆布と日本人 (日経プレミアシリーズ) 価格:¥ 893(税込)

「昆布と日本人」目次
はじめに
第1章 昆布が礎となった日本の近代化
第2章 昆布商の140年
第3章 昆布とワインの意外な共通点
第4章 永平寺の御昆布司
第5章 母乳と同じ「うま味」がある
第6章 世界の美食の舞台へ
おわりに

今回のお題はその1と2

■「昆布ロード」 第1章 昆布が礎となった日本の近代化
■「しゃべるな!行くな!」 第2章 昆布商の140年

であります

■ ■ ■ ■ ■

■昆布ロード
第1章 昆布が礎となった日本の近代化

昆布の存在が日本の近代化の礎となった?

江戸時代後半に蝦夷地(北海道)で収穫された昆布が「北前船」(きたまえぶね)で日本海側から京都、大坂に運ばれるようになりました

近江商人のビジネス感覚で松前(北海道)と大坂を往復しながら寄港地で物資の売買!
その船荷の中で重要な地位を占めたのが昆布だったのです

それまで昆布は“薬”として貴重なモノだったようですが この西回り航路により蝦夷地から大坂に大量に・安く・早く・安全に安く供給され一気に食品としてポピュラーになりました

そしてその交易の中継地である敦賀で昆布を加工したのです

■松前藩
米がとれない=海産物を近江商人に売り米を得た

■近江商人
隣国の敦賀、小浜を利用し松前藩から海産物を仕入れ大坂、京都で売りさばき米やその他のモノを松前藩に売る そして途中の寄港地でも売買を繰り返し財を築いた

■薩摩藩
江戸城の修築、木曽川治水工事など幕府から莫大な出費を命ぜられた外様大名 領地は火山灰地で農業の生産性も低く常に財政は火の車

薩摩藩は鎖国下でありながらしたたかに琉球王国と貿易をおこなっていた その流れで琉球王国と貿易していた清国と密貿易を始める(=抜荷:ぬけに)

そこで中国から求められたものが昆布
内陸部に住む人々は慢性的にヨウ素が不足 甲状腺の病気を患う人が大勢おり ヨードやカリウム、カルシウムなどミネラル豊富な昆布が求められた

が 産地から遠い薩摩藩がそう簡単に昆布を入手できない

■越中富山の薬売り
薩摩藩が目をつけたのが同じ外様大名である加賀前田藩領内の越中富山の薬売り

全国に販売網を持っている薬売りに薩摩領内での営業を認める交換条件として蝦夷地の昆布の仲介を求めたのです

薬売りが漢方薬を入手する正規ルートは幕府の統制下にある長崎出島高価で種類や量も限られていた訳です

薩摩・琉球経由の密貿易で薬種を豊富かつ安価に入手するルートが確保出来る という両者の思惑が一致

■この密貿易により薩摩は藩財政の立て直しに成功 昆布貿易による莫大な利益が倒幕資金となり近代的な軍備を整えた新勢力が幕府を倒し明治維新を迎える

北海道から中国大陸までのびる海陸の輸送路を称して「昆布ロード」と呼びます

昆布ロードに沿ってヒトが動き モノが動き 様々な文化も伝わる人々の生活を変えた

つまり昆布が倒幕の立役者であった訳です
また北前船の船首たちは 明治以降の近代産業資本の礎となりました

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■ ■ ■ ■ ■

■しゃべるな!行くな!
第2章 昆布商の140年

老舗昆布店の営業方針(父親の口癖)は

「べらべらしゃべるんじゃない! 営業に行く必要はない!

営業で行った商売は必ず営業でひっくりかえされるのだから。 良質の昆布をお客さんに送っていれば必ず報われる。」

長い付き合いの顧客に品質のよい商品を黙って送る 仕入れ先ルートも固定されていて安定して供給されていたので産地である北海道に一度も行ったことがなかった

「老舗の昆布問屋」「永平寺さんの御用商」としてテレビでもよく取り上げられる奥井海生堂 しかし 戦災によって家財を失い 地域や取引先の協力で再建 という大変な苦労がありました

記録映画の取材依頼が 撮影中のスタッフにその内容を聞くと

「消えゆく業界」そのスポンサーは大手の科学調味料メーカー!
それを聞いた父親は撮影途中に「出ていけ~!」

2008年 うまみ発見100周年のキャンペーンで味の素の幹部にその話をされたところ“大笑い”に 今では仲良くされているようです

・ライフスタイルの変化で昆布の消費が減る
・環境の変化で昆布の供給が不安定になる(減る)

営業に出る 東京で昆布を売る

「どんなに立派な利尻昆布でも東京の人は買いませんから、無理ですよ。東京で売れるのは日高昆布だけです。」 「関西のような昆布文化が東京では浸透しない」

という築地の昆布商 それが当時東京での認識でした

北前船で蝦夷地から上方へ運ばれ 上質な昆布から売れ 量が多かった日高昆布が上方から江戸に送られた という当時の流通に起因するとか

関西=昆布出汁 関東=鰹出汁 瀬戸内=いりこだし

「昆布文化のない東京だというのならば、昆布文化を絶対に定着してみせる。」と決意

西武池袋本店の食品バイヤー内山 晋さんに出会う
時代は80年代「不思議、大好き。」(1982)「おいしい生活」(1983)の頃

デパートの食品売り場に女性社員は配属されると すぐ退職してしまうような時代

食品売り場を変えたい ~今のデパ地下につながる最初の動き

物産展の目玉に出店してほしい と内山さんが敦賀まで訪ねてこられる 父親は断る 

内山さん

「ちょうど世の中が一段落し、時代も豊かになり、これからは本物志向、健康志向の世の中になり、昆布が改めて見直されます。 この絶好のタイミングで昆布の老舗の奥井さんにぜひ出店して頂き、東京に本物の昆布を紹介してほしいのです」

3日目 父が首を縦にふる

■その後の内山さん

NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 で取り上げられています

■父から「品格のある昆布商としての立場をわきまえろ」といわれ続け、昔から扱ってきた昆布だけを売ろうとしたことが、結果的によかったと思います。

目の前の売り上げを求めて近道をせずに、遠回りをしたことが、奥井海生堂の歴史が染まる暖簾を守ることにつながったのだと思います。

これは「第2章 昆布商の140年」の締めくくりの文章です

物産展以降 奥井さんは2つの新しい方針を実践されました

■消費者に会う
「昆布の使い方が解らない」という声をきき・・・ とにかく販売の現場に出向き 話を聞いた

■生産者に会う
北海道の生産者に会いに行き交流を深めた

奥井さんはこのことにより昆布に沢山の物語を作り まさに昆布文化を広めたのです

■ ■ ■ ■ ■

ということで「昆布と日本人」ほんの一部を切り取りレポートしました

老舗という権威に胡坐をかかず 変化を見極め 方針を変化させ時代を作ろうという気概

そして受け継がれてきた老舗としての“品格”を崩さないバランスに説得されつつ読みました

この手の本は 研究者やジャーナリストの方が書かれる場合が多いと思うのですが当事者が書かれたモノは すごく魅力的に感じる次第であります

                       ではまた