橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #275≪戦争の話≫

2013年09月09日 | EHAGAKI

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お世話になります

「風立ちぬ」を観ました
賛否両論いろいろ意見もあるようで私はその議論に違和感を感じます

何か宮崎 駿さんの戦争についての考え方を二者択一で方向性を決めたいかのように感じます

まず その前にエンターテイメントとしての映画 ラブストーリーであり その背景として 戦争に向かう時代があり 主人公の夢があり

もう少し余裕を持って映画を語り そして現在を語るべきだと思うのですが余裕の無い時代なんでしょうか

余裕の無い時代は怖い と愚考いたします

毎年戦争について最も考える8月が終わり 9月に入りましたがまた新たな戦争についての話題が絶えない今日この頃です

身近に聞いた戦争体験が今回のお題であります

■東京単身赴任“ kanpai”さんのお母様への取材
=聞き伝える為にも と録音してインタビューされたそうです

■京都 ヨシィさんの戦中、戦後のお話
=京都の「馬町爆撃を語り継ぐ会」で「記念碑」創る活動に奔走されておられます

ともにfacebookから

■ ■ ■ ■ ■

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■東京単身赴任 kanpaiさんのfacebook(8/4)より

母親に戦争の話を聞いてみた。

母親は昭和4年(1929年)生まれの84歳。
終戦の年は16歳なので、戦争の記憶を語れる最後の年齢かもしれない。母親の記憶があいまいなので、名称等は間違っているかもしれない。

西脇の女学校の時に、女学生の学徒動員で川崎航空機の明石工場の寮に入った。

寮で朝1時間だけ勉強して「歩調とれ!」との号令でバスに乗って工場門に入る。そこから気筒(きとう)部行きのバスに乗り込んだ。

気筒部とは飛行機のエンジン部分を組み立てるところで、そこの検査部門に入れられた。野田工場?から来たという女学生さんに検査の仕方を教えてもらう。

組み立てられたエンジンにホースで水を入れる。ピューと水芸の様に水が噴き出す。水の出ないエンジンは10台に1台もない。

心の中で「こんなことで飛行機ができるんやろか」と思いながらも、黙々と不合格として処理する。

仕事中は、長い日本刀を腰から下げた将校さんがいるので、私語もできない。不合格のエンジンは、土山の東亜金属に送り返す。

ある日、空襲が来そうなので、気筒部は東洋紡績の二見工場へ移ることになり、トラックで移動した。その紡績工場では、軍需工場として引き渡すための整理作業が行われていた。

食堂が垣根で隠されており、そっと中を覗いてみると、真っ白な大量の白米が炊かれていた。おそらく、食堂に置いていた食料を最後に従業員が食べたのだろう。

その後、明石の川崎航空機に空襲があり、二見の工場も危険なので防空頭巾をかぶって山の中へ逃げ込んだ。

目と耳を両手でふさいで、爆弾の落ちる音と爆発音を聞いていたが、そっと目を開けて明石の方向を見た。

大量の花火を見ている様で、明石の空が真っ赤になっていた。

空襲のあとは、電線に人肉が引っかかっていたりしていたらしい。

野田の女学生さんは逃げられたのか。その後は西脇の野村の織物工場に移った。

西脇や社(やしろ)のような田舎でも空襲警報はよくあった。空襲警報があった時、佐保神社の裏山から崖を転げ落ちて逃げたこともあった。

田んぼの中で機銃掃射を受けて亡くなった人もいた。ウーという警報が鳴ると、家中の電気を消して、真っ暗な中でご飯を食べた。

今、よく生きていると思う。今思い出しても、短かかったのか、長かったのか、生きた心地がしなかった。

※川崎航空機明石工場空襲は昭和20年1月19日、犠牲者263名、全国から来ていた学徒勤労報国隊16名、女子挺身隊8名も犠牲になった。

追伸:
調べてみるとエンジンは岐阜工場で組み立てられていた飛燕のものでした。当初からエンジンの油漏れが問題の飛行機だった様です。なんか納得・・・それと野田工場は野田高女の聞き間違いです。川重野田工場は戦後の工場でした・・・

コメント)
IT氏
過酷な体験をされたんですね。今の日本の繁栄は、先人の方々のおかげです。深く深く感謝し、次世代にこれを伝え、心に刻むことが使命です。
8月4日 20:40

WH氏
私の父も昭和4年生まれの軍国少年でした(今なお健在です)。父は、海軍兵学校に志願し、最後の卒業生として江田島の寄宿生活を送りました。

祖父は旧制中学の教師で、教え子を戦場に送り出す役割をしていたそうですが、戦争に勝ち目がないことは分かっていたそうで、息子が海軍を志願した時、「お前が行くことは無かろうに」と泣いたそうです。

しかし、兵学校では、訓練する兵器もなく、海軍も敗戦後の復興を視野に、英語教育に力を入れていたそうです。

昨年、江田島の見学に行きましたが、父の上の学年までは、卒業写真が残っていました。多分、多くの卒業生が死地へ赴いたのでしょう。父の代だけは写真がありません。ある意味、幸せなことだったのではないかと感じました。

いずれにせよ、父自体は、それほど悲惨な経験をしなかったようで、あと1年、生まれるのが早くても遅くても、運命は大きく違っていただろうと思います。

母は昭和10年生まれで、学童疎開経験者です。田舎の人にいじめられたりひもじい思いもしたようですが、幼かったせいか、戦争の悲惨さに直面したという感じではないかも知れません。
8月4日 23:11

MH氏
ウチの母も4年生まれです。学徒動員で仁丹をつくらされ、3月の大阪大空襲で家を灼かれ、末弟(つまり私の叔父)を背負って火の海を逃げ、命からがら祖母の実家に疎開し、やはり辛いめに遭ったそうです。

こんな話を孫の世代に伝えようにも、聞く方はほとんど実感出来ないでしょうね。
8月5日 19:51

MB氏
お袋さんも大変な時代を生てきたんだね。僕の父も尋常小学校を出て、一人で大連の満鉄学校に入って、その後、ハルピンで終戦を迎えたらしい。ロシアの進軍から命からがら栄養失調になりながら必死で引き上げ船に乗って門司についたらしい。

あまり多くを語らないが、その分、大変な目にあったたんだと思う。
8月5日 23:42

kanpai氏
いろいろ調べるうちに、空襲で犠牲になった女学生16名の中に野田高女の1名も含まれるいう記述がありました。

母に検査の仕方を教えてくれた人かは分かりませんが、悲しい気持ちになります。
8月6日 21:04

IT氏
うちのばあさんは昭和3年生まれ愛知県の知多半島の半田の工場で飛行機の翼を磨いていたそうです・・・このとき空襲で同級生を一人亡くしたとか・・・・戦争はいけません。
8月7日 11:01

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■京都 ヨシィさんのfacebookより

■8月5日
広島・長崎の原爆の日が近づくと、何時もその時代の「私」が思い出されます。

縁故疎開で、当時宇治の「チベット」といわれた、電気:水道・ガスもない炭山【現・宇治市炭】にいました。

新聞も3日に一度の配達で、「広島に残虐な特殊爆弾が落ち大きな被害がでた」と知ったのは9日だったと思い出します。

新聞を読んだ人が「白色の着物を着ていると被害が少ない」と話していました。当時は、家々は暗幕(黒いカーテンのこと:カーテンは敵性語で使用禁止)をしなければ叱られた時代、今度は「白?」ということ、変なことだと思ったものです。

数日後、親戚の人が「広島」で戦死されたとしりました。私の妹と同い年の娘さんがいるので可哀想だと思ったものです。

その数日後「ソ連は満州に攻め込んだ!」とも聞いたのです。内心で「日本は危ないのでは・・」
国民学校6年生は思ったのです。

コメント)
OH氏
当時私は北朝鮮のカンコウというところにいたそうで、3歳で何も覚えていません。両親と妹は死亡したそうです。
8月5日 15:10

ヨシィさん
想像も出来ない大変な目にお会いになってたのですね。
8月5日 15:35

OH氏
ヨシィさん ありがとうございます。戦後の貧しい時代の親のない子にはつらいものがありました。
それだけに、日本のリーダーの昨今の言動には許せないものを感じます。
8月5日 16:31

■8月11日
戦後、京都は文化都市で爆撃は(されなっかた)しなかった。が通説になっている。

多くの日本人はそう思われているようだ。だが、大阪や東京の大空襲より前、昭和20年(1945)1月16日深夜に京都市東山区馬町が爆撃され、死者42名がでた。

倒壊家屋、負傷者も多くでたが秘密保護の「箝口令」で外部には伏せられていた。

付近にある現京都女子学園の学生寮被爆した。三十三間堂,恩賜(現・国立)京都博物館、妙法院が直近にある、住宅地の馬町にである。

清水寺は北東700米 当時、国民学校5年生だった私達はその年の4月に学童疎開させられた。

爆撃はその他、西陣など数か所あり死者も出て、慰霊碑がつくられている。

が、馬町の爆撃は忘れられた形であった。東日本大震災で石碑の忠告で被害が少なかった地区があると知り、忘れられた「馬町爆撃を語り継ぐ会」が出来た。
http://www.ma5.fiberbit.net/umamachi/

今、来年1月16日に建立除幕式ができるよう「馬町爆撃地のモニュメント」造る運動が進んでいる。ご協力を。

京都地域は多分15日までに(NHK京都TV)放映されると思う。ご覧ください。(あつかましい投稿で堪忍しとくりゃす)

コメント)
US氏
シェアさせてください。
8月11日 20:19

NM氏
私もずっと京都なのですが馬町の空襲の話は聞いたことがあります。ちゃんと語り継がれそうですね。大切なことです。
8月11日 22:52

■8月15日
68年前の今日、国民学校6年生だった。祖父が病気で疎開地から、家に戻っていた。

祖父が、正午にレジオで「重大放送」ある。店先のレジオで聞いて知らせろと命じられた。

正午に陛下の放送だと説明後

「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲二忠良ナルナン爾(ナンジ〉臣民二告グ・・・」の昭和天皇のお声による「終戦の詔書」を聞いた。

レジオの音声は聞き取り難く、お言葉も難しく、何のことか判らなかった、只何か大変なことだろうと察し、祖父に告げると近くの「新聞屋のおじさんに聞いてくれ」と

そして日本の敗戦を知った。

祖父は、声を出して泣いた。

【天気は今日のようにジリットする暑い日だった】

その晩は、前日までの暗がりがウソの様に、家々の明かり、街路灯も点利、町全体がキンキラと輝いて見えた。

終戦の詔書=天皇禦印とその当時の大臣の署名なるもの(勿論コピー)が手元にあり18日から店に展示します。

コメント)
MY氏
戦争を経験された方にしか分からない事実がありますよねー たくさん語っていただきたいですし、二度と同じ事を繰り返さないようにしたいものです*
8月15日 17:10

■8月17日
子供のころ、しなと言われる中国へ行き、補助憲兵をしていた店の丁稚さんが(私のお守役)帰国除隊して来た。(国民学校3年生のころ)

その人から中国の人たちが首を切られる、切られた姿の写真を見せられた。怖いなぁと思ったが「敵」や!で終わった。

当時は「敵」なら何をしてもよい世相だった。それに反する発言すら出来ない時代。

少なくとも現在の教育は当時と大きく変わっている。惨いことは惨いと感じ言えるはず。

「臭いものには蓋」でなく「臭いものは臭いといえる」だろう。見せない、隠すのは真実を真面にみる目を覆うことになると私は思う。

コメント)
MY氏わずか70年ほど前は、そういう時代だったんですね… 恐ろしいです(>_<) インターネットを使って、誰でも情報発信出来る現在、二度と同じ事が起こらないように、願います☆
8月17日 19:34

KY氏
シナ人はそれ以上の事を「通州」で日本人や朝鮮人に・・・合掌
8月17日 21:36

ヨシィさん
通州事件も尼港事件も残虐な事です。でも、いずれも派兵された日本の軍隊がからんでいます。海外に軍隊を出した結果から起こったこと、お気の毒で哀悼の念をもっていますが、2度とそういう事にかかわらない日本であって欲しい。

憲法を大事にしたい気持ちでシェア致しました。あの写真を見た時代の私は「神国の子・赤子」だと教えられ、そう思わされていました。
8月19日 12:24

※松江市の「はだしのゲン」問題にふれて

■8月20日
敗戦の時、国民学校6年生であった私は、出征した父との面会に行った時、この写真※とそっくりな光景を何度か見た。

その頃の「大きくなれば兵隊になって、陛下とお国に命をささげる」べきとの教育を受けていて、格好が良いに姿に憧れに似た感情を持った。

敗戦で価値観が大きくかわり、平和と民主々義の新憲法ができた。国民の祝日にまでして多くの国民は喜び歓迎した。戦争の無残がなくなり、自らの力が政治に反映する。。。

その世代が少なくなり、最近の姿をみていると、前の戦争前夜のような感じがする。

この写真を見て「ゾーと」した。軍隊を持たない憲法は完全に無視されている。我が孫たちが戦争に巻き込まれないように、年寄りでも頑張ろうと思う。

※「自衛隊運用、制服組に移管 来年度にも、文官部局は廃止」報道に使われた写真

■8月23日
今日、宇治市炭山のお寺の施餓鬼に加わり、山の中腹にある「先祖」からの墓地のにもお参りした。

足元から「蛇」が出た。このあたりでは蛇を「くちなわ」、蝮(まむし=毒蛇)を「はむ」という。

その話を、私がその地に戦時疎開をしていた時の同級生につげると「近頃は、くちなわ(蛇)が猪が食べるので少なくなった」と言う。

昔沢山いた蛍はと聞くと「居ることは居るのだかパラパラ見えるくらい」と。(電気ガス水道もなく)昔は宇治のチベットとよばれた「村」も生態系が大きく変わていた。瑞穂の国がスコールの南洋になってきた。怖いこと。

コメント)
FS氏
私の母もヘビを「くちなわ」と言ってました。出身は京丹後ですが。でもヘビがイノシシを食べるって!ホンマかいな(@_@;) ん?逆か…(?_?)
8月24日 13:34

ヨシィさん
地元のお年寄りが言っていたのですが・・・私が疎開していた時代その地は電気も無い村、稲の穂が稔る前、田んぼを猪よけの竹柵で囲み、夜は時々「獅子おどし」のためカーバイトを使って大きな音で防いでいました。

最近は陶磁器団地ができて、人家も増え、猪や山林から出られないので「蛇を食べる」という構図だそうです。真偽は不明です。調べてみますが、、、。
8月24日 13:44

■8月28日
京都も爆撃された!1945年1月16日深夜、B29一機が飛来、東山区馬町に爆弾を投下した。

死者、負傷者も倒壊家屋も多数でた。戦時は緘口令で外部に知らされ、戦後は、アメリカは文化を尊重して爆撃をしなかったとさせられた。

一昨年地域から「爆撃の記録を残そう」と「馬町爆撃を語り継ぐ会」が設立され、来年(2014)1月16日までに資金集め「爆撃地の碑」をつくり除幕式を計画中。
http://www.ma5.fiberbit.net/umamachi/

そのことがNHK京都テレビで8月29日夕6時から始まる「京いちにち」の番組の中で放映される。ご覧戴くともに、ご支援をお願いしたい。9月下旬~10月中旬に集会も開く予定ご参加を

コメント)
KH氏
島津製作所も日本輸送機も機銃掃射受けてますよね・・父親も伊根で少年期に空襲とグラマンのパイロットから面白半分で追いかけ廻され機銃で撃たれもう少しで死ぬ所だったそうです。

馬町の空襲は余った爆弾を破棄するために適当にバラまいたと当時のB29のパイロットの証言を聴いてますが・・・
8月28日 19:46

■8月30日
京都も爆撃をされた。1945:1:16深夜、東山区馬町が爆撃された。死者41名、倒壊家屋も多かったが、戦後京都は文化都市で爆撃はしなかったという説がながされ、その影響で先記の爆撃のことを京都市民でも知らない形で来た。

一昨年、爆撃の記録を残すために「碑」を創ろうとの話が出て「馬町爆撃を語り継ぐ会」2014:1:16に序幕できるように「記念碑」創る事になった。

その事が昨日:NHK京都放送で放映され、読売新聞も取りあげてくれた。十月にその資金募集のため会合を開くことにしている。
http://www.ma5.fiberbit.net/umamachi/

■9月1日
色々と仕事が、たて込み制作が遅れましがヤット「とんからりん:9月号VOL168]ができました。
http://www.sosake.jp/html/uploads/pdf/187.pdf

ヒョットしたら1日遅れも覚悟したのですが何とか出来て、1時30分から、近くの読者(サカタニ友の会会員様)宅に、手配りでお届けします。

今日は、京都は雨で雷もなっていて、自転車でなく歩きで配付です。
(メール便は4時の回収でチョッと遅れます)

これで約8千円経費が節約できます。

小商売人はこの様な「始末;節約」をしないと駄目だと、子供の頃から教えられ、今や身にこびり付いてしまいました。

大きな事故を起こし迷惑を掛けた会社の「エライ人は家族共々海外へ行ってる」とか聞きました。どんな神経をお持ちなのでしょうかねぇ。

コメント)
MS氏
そもそも「商(売)人」としての自覚がないのです。史上最悪の原発事故起こしたなんて言うのは論外、もってのほかです。ふつうは客からの苦情があれば、いつ・どんな時でも対応し、必要であればすぐに出向くのが普通でしょう。

まず相手の言い分をよく聞いて、自分に非があればきちんと詫びる。そうして必要な対処をしてこそ、ホンマモンの商売人と言えるのだと思いますね。他人の人生を踏みにじって、自らは安楽に過ごすなんてのは、「商売人」としてはもとより、人としてどうかしてます。
9月1日 13:29

■9月7日
東京の人たちの「オリンピック開催」がきまってハシャグ様子をTVでみた。

その東京を電力でささえた「東北」は、今も原発事故で苦しんでいる。家族、友人を亡くし、今も自宅に戻れずにいる人たちは、まだ悲しみを持ち続けているだろう。

私たちは何を置いても「東北の復活」を最優先ですべきではなかろうか?。

それが日本人としての正義だと思うのだが・・

もし今、啄木がいたら、はどんな詩を書くだろうか?

■ ■ ■ ■ ■

ということでした

私も子供の頃 祖父や父、母から色んな話を聞いておりましたが随分記憶が断片的な話となってしまってます

今を生きる大人が伝えなければならないコトだと強く感じる次第です

ヨシィさんの京都七条の「サカタニ」は地域の酒屋さん
今はファミマとイベントスペースも運営されておられます

そして「地域とお客様のお役に立つ店をめざして!とんからりん」という友の会ニュースを毎月発行しておられます

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サカタニ
http://www.sosake.jp/

東山七条、京阪七条駅からすぐ
1階にファミリーマートを、2階に集・酉・楽サカタニをオープン。

誰でも気軽にくつろげる オープンスペース 「集・syu」
本物のお酒をお勧めする お酒のスペース 「酉・yu」
様々なイベントを催す イベントスペース 「楽・raku」
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イベント目白押しです ぜひお立ち寄り下さい

                       ではまた

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