お世話になります
マクドナルド マックやマクドと短くして表現しますが、英語でも短くする表現があるそうです
アーサー・ビナードさんによると
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McDonald'sの頭のMcを切り取って使うことがある。独立した名詞としてではなく、接頭語としてだ。「簡単で型にはまった」「安直で粗悪」、つまり「ファーストフード的」な意味をそえるわけだ。
例えば、うわべだけを伝えるニュース番組を McNews と揶揄したり、右から左への画一的な教育を McEducation と呼んだり、それから賃金が安くて昇進できない袋小路的な仕事を McJob とも言う。
McJob はぼくが高校生の頃、すでに使われていたが、米国の出版社が2003年、それを英語辞書に掲載した途端、マクドナルド本社から猛烈な抗議を受けた。「飲食店で働く人への侮辱だ」ということだ。
ぼくは抗議するぐらいなら貴社の労働条件を改善したら、と逆に提案したくなった。
「日々の非常口」アーサー・ビナード著(新潮文庫)
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ということで今回のお題は「食卓」
不思議な映画 映画として不思議な作品を観ました

以下、映画のパンフレットから
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■イントロダクション
知られざるインドの聖地、ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院)に500年以上受け継がれる「無料食堂」と、毎日10万食分の豆カレーをまかなう「聖なるキッチン」の舞台裏を初公開!
インドのシク教総本山にあたるハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院) では、毎日10万食が巡礼者や旅行者のために、すべて無料で提供されている。
そこは宗教も人種も階級も職業も関係なく、みなが公平にお腹を満たすことができる「聖なる場所」だ。
想像すらつかない沢山の食事は、毎日どのように用意されているのだろうか?
スクリーンに映し出されるのは、驚くべきキッチンの舞台裏と、それに関わる人々の一切無駄のない神々しい手さばき。
もちろん、近代的な調理器具は使わず、全てが手仕事で行われている。
「みんなで作って、みんなで食べる」
現役シェフの監督がおくる、古くて新しい食卓のかたち
監督は、自らも移動式キッチンのシェフとして腕をふるうベルギーのフィリップ・ウィチュスとヴァレリー・ベルト夫妻。
黄金寺院で何世紀にも渡って続く「聖なるキッチン」のコンセプトに感銘をうけ、映画の制作を決意。
訪れた人があらゆる差別や偏見を気にせず、同じ鍋のごはんをいただく“大きな団らん” と、それを支える人々の無償の労働。
その姿はファストフードやコンビニ弁当による「ひとりご飯」が当たり前となってしまった私たちに、「食」という人の営みの原点を思い出させてくれる。
インド黄金寺院で古くから伝わる食卓の風景に、心解きほぐされる極上のショートトリップ・ドキュメンタリー。
■10万食に必要な量
◆小麦粉 2,300kg
◆豆 830kg
◆米 644kg
◆茶葉 50kg
◆牛乳 322リットル
◆薪 5,000kg
◆ガスボンベ 100本
◆食器 300,000セット
◆調理人 300人のボランティア
■10万人の食堂「ランガル(=無料食堂)」のルール
◆寺院に入る前は、手を洗い、靴を預け、足を清める
◆宗教、階級はもちろん、女性、男性、子どもがすべて一緒に座る
◆ターバンまたは、タオルを着用(レンタル有)
◆残さず全部食べること、お代わりは自由
◆使った食器は指定の場所へ戻す
◆酒、たばこ、革製品の持ち込みは禁止
◆一度の食事を5,000人でとるので、譲りあいを忘れない
■なぜ、無料で食事を提供しているの?
シク教とは、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクは弟子、グルは導師を意味する。このグル・カ・ランガル(共同食
堂)は、シク教の“宗教、カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人々は平等である”という教義を守るため
に考案された500年近く続いている習わしだ。
しかし、ここは悲劇の地としても知られている。一つ目の悲劇はイギリス支配時代の1919年。 令状なしの逮捕、裁判抜きの投獄を認める
「ローラット法」の成立に反対したインド人たちが、抗議のために黄金寺院の脇にある広場に集結。
イギリス軍は見せしめのために、非武装の彼らに対し発砲し、400人以上が死亡する惨事となった。
もう一つは、1984年、当時の首相インディラ・ガンディーに対するシク教徒の過激派による反政府運動が起こる。
激しい衝突のため、軍隊を黄金寺院へ突入させ、数百人の死者がでる(ブルースター作戦)。 その後、シク教を冒涜したとして、インディラ・ガンディーは暗殺される。
パンジャーブ州の過激派反政府運動家たちは、現代も活動を続けており、30年の節目を迎える追悼の式典では、シク教徒同士の衝突が起こった。そうした歴史に翻弄されながらも、無料で食事は提供されていた。
■10万食をささえるもの
どの宗教の人でも食べてもらえるよう、基本的には野菜を中心とした献立がメイン。
黄金寺院内には、共同食堂の他、無料で泊まれる宿泊施設がある。それらの運営は、巡礼者からの寄付の他、インド国内および世界中に移り住んでいるシク教徒から毎年収められるお布施によって支えられている。お金がない人は労働力を提供している。
この黄金寺院はとてもオープンば場所で、異教徒はもちろん外国人旅行者でさえも参拝できる。巡礼者や心の平安を求めて訪れる人も大勢いるが、中には事情があってこの寺院に来なくてはならない人もいる。
例えば、結婚で問題を抱え居場所を失った女性が駆け込み寺のように身をよせたり、金銭的に非常に困っている家族が、一時的に食べるものと眠る場所を求めて黄金寺院を訪れたりもしている。
寺院は、さまざまな事情を抱えた人々のシェルター的な役割を持っている反面、犯罪者が身を隠すために利用したりすることもある。

■フィリップ・ウィチュス監督のことば
食事と言えば、皿の上にどんなものが載っているか、私たちはいつもそればかり気にしています。
でも私は、食べることを通して得られる充足感だけではなく、それ以外の部分を考えていました。
それは、食べることに対する姿勢、そのために使う調理道具、一緒に料理を食べる人たち、食事をする場所についてのことです。
16世紀に建てられ、いかなる権威にも束縛されていないハリマンディル・サーヒブ( 黄金寺院)のキッチンは、極めてシンプルに「共に生き、尊敬し合う」という根本原理を貫いています。
そしてきっちりと確立した衛生管理や、「食べる」事の基本であるにも関わらず、つい見過ごされがちな” お互いに与え合う” という行為においても、しっかりと反映されています。
この映画には、不要な調理道具や、見栄えだけはいい調理の様子、いったいどこで手に入れたの?という珍奇な食材や、SF映画に出てくるようなキッチン用具などは一切登場しません。ただ水と火とフライパン、大地から採れる食材と、それを調理する男女が登場するだけです。
私たちは、いまこそ千年前の教えに立ち返り、そこに息づき受け継がれてきた知恵や教えに目を向けるべきなのだと思います。
そうした日々の行いが、何世紀もの長い年月を越えて、そこで積み重ねられてきた知識を実践する場となり、こうした形で花開いているのです。
そうでなければ、貧しき人々に10万食の食事をランガルとして、無料で与えることができるような食文化がうまれたでしょうか?
あらゆる年齢の、何千人もの人々と一緒に足を組んで座り、ひとつの食卓を共にするという体験は、緊張を伴いました。
しかし同時に、いかに自分が毎日幾度となく行われる食事という儀式をおざなりにしてきたかを思い知らされました。
グローバリゼーションという常套句や、規格化された食品、お持ち帰りといったコンセプトが当たり前となった今だからこそ、このキッチンが時代を越えてシェアしようとしてきたものを、世界の人に見せる時なのだと思います。
それが、私がこの映画を通じて、美味しい物が溢れていても、どこか満ち足りない思い(空腹)を感じている現代人に届けたいことなのです。
■シク教徒がグルドワラ(礼拝の場所)で唱える祈りの言葉
「ランガルの鉄板がずっと使い続けられますように」
LOH LANGAR TAPDE RAHIN
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ということでした
65分のドキュメンタリーでほぼ説明もなく映像のみ
綺麗な映像ばかりで私は吸い寄せられて観ていましたが、お勧め!という映画ではありませんので 念のため
ちなみに日本語のファーストフード 注文してすぐでてくるので fast food と名づけられたものがカタカナ語になった際「迅速」のファストではなく「一番」になってしまったそうです
何か訳があるんでしょうかねぇ
ではまた
