橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #403≪どっちもどっち≫

2020年10月30日 | EHAGAKI

COVID-19については様々な情報が錯綜していますが
まだまだ、油断ならない、ということは間違いありません
皆様におかれましてもくれぐれもご用心下さい

世の中は変化し続けておりますが
デジタル化が進むにつれ、0か1か、黒か白か、善か悪か
敵か味方か
理解してるか否か
そんな議論が蔓延しています

そんな簡単なコトではありませんよね
現実は

私たちは、自分の体の中で何がおこっているか?
知らないなりに、先人の知恵を頼りに生きている訳であります

そして新しい発見なり知見が世に出て
頭の中をゆっくりと
おそらく50年単位ぐらいではないでしょうか
アップグレード出来るのは

さて、今回のお題は、前回の続き
「と」という大切な「間」
そして
「縁起」という言葉
「細胞」という自分

あっちとこっち
「両方肯定していこう」というお話です

【参考図書】

「虫とゴリラ」
養老 孟司、山極 寿一(著)
毎日新聞出版2020/6/2   

「福岡伸一、西田哲学を読む」
生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一
池田善昭、福岡伸一(著)
明石書店 (2017/7/7)
https://amzn.to/31k06ck


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



時間は空間に包まれながら
実は逆に空間を包んでもいる

間の論理とは
湯川秀樹の「中間子」にまで行き着く
これは西洋の論理にない
西洋の論理には
「A」 か「A ではないB」の、どちらかしかない

「と」の論理は
日本人の哲学の中に、非常に微妙に人り込んでいる考え方

我々は意識しないが、そういう「間」に「と」を置いて
「あなたと私」と言った時
あなたと私が同一である、ということではなく
「と」 という中にいったんクッションを置く

別の言い方をすると、関係性に主体を置いて
主体と考えているものを「両端」だと考えればいい
仏教でいうと「縁起」に近い

「縁起」とは
「すべての存在は無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている」
という、仏教の基本思想を表す重要な用語

私が先に存在しているのではなく
無量無数の因縁が私となっている
無量無数の因縁によって私が成り立っているという意味であるから
福も内、鬼も内である

福と鬼が私となっているという意味

それがいつの間にか
縁起が吉凶の前兆を意味する自分の都合を願う言葉になっいている
とすれば
仏教の大切な教えすらも
自分に都合よく理解しようとする人間の本質が見えてくる

「両方肯定していこう」という話

日本語ではその間に介在する「と」によって
その二つが
同じ価値を持って、見えてくる世界が出来上がる
相互が了解し合える「橋」が架かる

例えば縁側というのは、内でもあり外でもある場所
あるいはどちらでもない場所
そういう領域が我々の思想の中にある

日本の自然にも里山があって、これはハレでもケでもない
動物もいれば人間も使う

そういう場所が必ずある
そこに相互が了解し合える「橋」が架かる

※そんな橋については↓
EHAGAKI #398≪日本の橋その2≫


時間は空間に包まれながら
実は逆に空間を包んでもいる

福岡先生は細胞の内部と外部のあいだに
膜というものを考えておられますが?

その膜というのは内部でも外部でもないが
そこにおいて内部と外部がつながっている
言わば
「包まれつつ包む」仕方で一つになっている

外部は内部を包みながら
逆に外部は内部の中に包まれている(包まれつつ包む)
それは細胞膜において、すでになされている

しかも膜自身も、絶え間なく流動している

膜自身は琵琶湖や多摩川と同じように絶えず流動し
細胞の中で作られては
ベルトコンべヤのようにして送り出されていく

一応、細胞を外側と内側に分けてはいますが
その境界というのは実はある意味で曖昧
川が流れているのと同じ

川って何ですか?、というと
水の流れであって、水がなくなった窪地は川ではない

同様に膜も「状態」としか定義できないもの

それが細胞膜という言葉で表現されると
かっちりした輪郭線を想像してしまう

けれども
実はそうじゃない
むしろその流れの中に命のやりとり、営みがある

そういったことも
実は最近になって人間が気がついたこと

細胞自身が「作ることよりも壊すこと」を一生懸命に行っている
ということも
ここ10年、 20年のあいだにわかってきたこと

細胞の中で何かが作り出される
DNAが作られ、タンバク質が作られる

20世紀の科学者たちはこぞって
細胞のこの精妙な仕組みの究明に取り組み成果を出してきた

細胞の中でものを作る仕組みは、たった1通りしかなかった

DNAを作る方法も
タンバク質を作る方法も1通りしかない

ところが
細胞が細胞の中のものを壊す方法は何十通りもある

その方法はまだ全然解明できていない
とにかく
細胞というか命というのは、壊すことに一生懸命

なぜか?

壊さないと、エントロピーを捨てられない
壊さないと、次が作れないから

だから
壊すことが唯一、時間を前に進める方法

分解と合成が同時に進行する?

そうです

分解と合成が同時に進行するということは
そのことによって内と外との区別がつくられる
ということですね?

はい

だから
細胞膜で起きていることは
「包む・包まれる」と同じだ、と言ったのはそのことです

そういう意味で 
 「あいだ」を思考する、という思考の仕方は
従来の西洋科学にも西洋哲学にもなかった

それが西田によって初めて、まさに自覚的になされたわけです

「逆限定」とか「絶対矛盾的自己同一」とか
そういう言葉になって表された

ですから
教養として、西洋哲学や西洋科学を学んできた人に
西田哲学が理解できないというのは、ある意味では当たり前です


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

ということでした

「理性」で組み立てられた様式
大切なことです
しかし、それが暴走する悲劇を私たちは知っています

世界を支えている様式は「自然」です
まだまだ解からないコトばかり

対立ではなく、「両方肯定する」

解からなくてもいい
「どっちもどっち」ぐらいに考え続けるコトが大切
と、愚考する次第です

さてさて、油断ならない時は続きます
心の栄養補給は怠らない様、ご自愛下さい


ではまた


EHAGAKI #402≪本人というノイズ≫

2020年10月23日 | EHAGAKI

秋らしい気候になって来ました
油断ならないCOVID-19には、くれぐれもご用心下さい

近頃、何かと話題の「日本学術会議」
その前会長、京都大学前総長の山極寿一氏

「私がきちんと交渉すべき問題だった」と言っておられますが
ま、その話は脇へ

ここ1年ほど、山極寿一氏の本をよく読んでます
それも対談本
対談本は、入門書の様に物事を解かり易く語り
それを編集しているので理解しやすい訳です

山極
「縁側」というのに、ちょっと似た話が「西田哲学」 にもある
西田幾多郎は大乗仏教から学んで
西洋の論理とは違うものを考え出した

「それを引き継いだ西谷啓治(1905~1990)という
西田幾多郎のいちばん弟子がいるんだけど彼は
【「と」の論理】というものを言い出した
と、西谷の弟子の池田善昭さんが語っています
(福岡伸一・池田善昭著『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)



ということで、その対談本も読んでみました

今回のお題、元ネタは

「虫とゴリラ」
養老 孟司、山極 寿一(著)

毎日新聞出版(2020/6/2)
https://amzn.to/37gsK1O

「福岡伸一、西田哲学を読む」
生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一
池田善昭、福岡伸一(著)
明石書店 (2017/7/7)
https://amzn.to/31k06ck

であります

今回は「本人というノイズ」

そして次回は
「包まれつつ包む」
~壊すことが唯一、時間を前に進める~
なんてコトを予定しております


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

対談本ですが発言者は省略しています(メモがあやふやだったので)


まず、データを見る

それを最初にやったのは「医学」です
もう三十年前には、東大医学部はそれになっていた

患者さんを把握するのは「検査の結果」 であって
「患者本人」ではない

血圧だってカルテの中
目の前にいる患者の血圧はもう変わっているはずが
そんなこと、誰も意識しない

「あ、これ、高いですね」

年寄りが文句を言い始めて

「先生に診てもらっても、 顔を見てくれないんです」と

私(養老先生)のところに文句を言いに来ていた
銀行で手続きしようと思ったら

「養老先生、本人確認の書類をお持ちですか」

「私、免許を持ってないので」

「保険証でもいいんですけど」

「ここ、病院じゃねえだろ、 保険証なんて、持ってこないよ」
と言うと、銀行員がなんて言ったか

「困りましたねえ、わかってるんですけど」と言った

本人だと「わかってる」けど、本人確認の書類が要る
本人がいても、本人確認の書類が要る?
本人とは何だろう?

それからしばらく悩んだ
すると、窓口の奥で、課長ぐらいのやつが
「新入社員がメールで報告してきやがる」
とか、話している

「あいつら、同じ部屋で働いているのに
同僚同士もメールでやってるらしい」

それで気がついた
つまり本人に会いたくない
情報に会いたいわけだ

本人に会うと、本人の「定義」ができない
本人をどう定義すればいいか

本人は「ノイズ」です
本人はシステムの中に入ってないから

患者の匂い、声の調子
そういうのはカルテには入ってない
現物を見ると、それを入れなくてはならない
するとそれが判断に影響する
それが嫌なんです

切り取りやすい情報で定義されたものが「本人」です
現物は違う
だから今やシステム化された情報世界の中に入っているのが本人

現物の本人は何か?



ノイズです
システムからは扱えないから
完全に人間が取り残される時代になった

自分の心臓、 肝臓なのに、他人のデータと照合されて
カルテに収まって治療台に上る
もはや自分の心臓じゃない

すべてを情報化してしまうと、全部、情報の断片になる
その情報の使われ方だけが経験値になって、そこから答えが出てく
すると人間という実体は?

「私がしたこと」によって評価されるのではなく
「他の人がしたこと」によって自分が評価されることになる

かつて日本では縁側だったり、里山だったり
常にあちらとこちらをフィルターしてくれるものがあった
両方の世界を支える「何か」がある
それこそが実は主体なのではないか

縁側というのに似た話が「西田哲学」 にもある
西田幾多郎は大乗仏教から学んで
西洋の論理とは違うものを考え出した

それを引き継いだ西谷啓治(1905~1990)という
西田幾多郎の一番弟子がいる
彼は「と」の論理、というものを言い出した
と西谷の弟子の池田善昭さんが語っています
(福岡伸一・池田善昭著『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)

「と」の論理、とは何か?

A and Bこれを日本語では、「A と B 」と言う
すると、この「と」が
and という、違うものを並列する概念とは一変し
相互に関連を持つ
「A でもB でもある」
「A でもB でもない」という論理になる

西田の思想は「間の論理」と言われる
この「と」も間の論理です

西谷啓治先生があるとき

「池田君、考えなければならないのは『と』ということ
『と』ということを考えなさい」

と言われて、何のことだか?

存在「と」無
内部「と」外部
時間「と」空間

「君、時間も空間も問題じゃない。
 問題は『と』にあるんですよ」

と言われて、さっばりわからない

「『時間と空間』というときの『と』というのは
時間でも空間でもない、時間と空間の『あいだ』、
『と』というものを考えてみなさい」

と西谷先生は言われる

時間と空間というのは、相反するもの
要するに
時間と空間というのは
「次々に起こる存在の秩序」というもの
と同時に
「存在する秩序」のこと

※橋長注:何が要するにやねん!

このことを説明するために
僕(池田)は

「包む・包まれる」
あるいは
「包まれつつ包む」

という表現をしばしば用いる




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

ということでした

意味不明な世界に向かいながら今回は終えます

次回は「包まれつつ包む」
小さな世界で起こっている
「壊すことが唯一、時間を前に進める」
という現実についてであります

さて、油断ならない時は続きます
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様、ご自愛下さい


ではまた