まだ先が見えないCOVID-19であります
新しい生活、そんな簡単なモノではありませんが
古い生活を知ることは出来ます
そこには「新しい生活」のヒントがあるのではないか
などと愚考している今日この頃であります
最近読んだ本、何年も手元に置いている本
そこから知った古い本
今回はそんな本から「橋」
橋長の「橋」についての話題
ですが、それは次回
今回は(私にとっては)その手前の話であります
参考図書)
◆言葉が暴走する時代の処世術
山極寿一著、太田光著(集英社新書)
◆未来のルーシー
中沢新一著、山極寿一著(青土社)
◆増補改訂 アースダイバー
中沢新一著、大森克己著(講談社)
◆日本の橋
保田與重郎著
このあたりの本を読んで思い浮かんだのは
ネイティブ・アメリカンの格言です
はじめ知恵と知識は獣たちのものであった
天におわす神ティラワは人間にじかに語りかけはしなかった
神は人間のもとに獣たちをつかわし獣たちに神を見よと伝えた
獣たちから学べと、星々から、太陽から、月から
神ティラワの教えをすべて学べと伝えた(ポニー族酋長イーグル)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
◆ジャポニズム
今「 第二のジャポニズム」ともいうべき波か来ている
ジャポニズム:19世紀にヨーロッパで流行した日本趣味
今、注目されているのは漫画、アニメ、小説、和食など
日本独自の大衆文化
そうした文化に大切なことが隠されていないか?
村上春樹の小説が世界中で読まれているのはなぜか
既存の世界と虚構の世界の境界
例えば死者の世界と生者の生者の世界
獣の世界と人間の世界をと飛ひ越えてるから?
ヨーロッパにはない発想
キリスト教、イスラム教も人間が動物にされてしまうことはあるが
動物が人間に成ることなどありえない
ところが日本を含むアニミズム的な世界では
動物か人間になるのはごく当たり前
日本の昔話では動物と人間が結婚して子どもを生んだりする
欧米人にはとんでもない感覚
ところが今
日本的な世界観が欧米の人たちが馴染み始めているのでは
なぜなら
彼らは死後の世界と現世をはっきりと境界づけていた
キリスト教やイスラム教の世界観では
今の世の中が生きづらくなってしまった
そこに資本主義が絡んでいる
資本主義もキリスト教も個人主義
資本主義では個人の欲求をいかに実現させるかがテーマ
キリスト教も個人のあの世での救済が目標
これに対して
人と人の境界が曖昧
生者と死者の境界さえも曖味
そんな日本文化では、個人は埋没しがち
もっと個性を際立たせろ
と教育をされてきたが
むしろこちらに欧米の人たちは魅力を感じている?
欧米人的な世界観からすれば理解し難いようなカオスを
日本文化は抱え込んでいるように見える
そこに魅力を感じているのではないか
19世紀のジャポニズムきっかけは
アジアの小国の民衆が日常的に使っていた扇子と団扇
そこに描かれていた浮世絵が
西洋の遠近法や明暗法を無視したとんでもない描き方だった
びっくりした
ドガやマネ、ゴーギャン、ゴッホたちが浮世絵に注目
それを取り入れた絵画・その芸術の形式が
やがて客観的な見方を中心におく彼らの哲学を変えていった
19世紀ヨーロッパの知識人に一大ショックを与えた
第一のジャポニズムと違い
今の日本人は、欧米に影響を与えていることを自覚している
だから
第二のジャポニズムを
我々は自覚すべきで大いに利用すべき
一方では日本では若い連中に対し
個性的であれという強迫観念がある
イエス・ノーをはっきりさせろ
そうじゃなきや世界ではやってけないぞ
こうした
あやふやさを否定する考え方が強くある一方で
世界からは逆に
その曖味さのある日本文化が魅力的だ
と思われている
◆神のいる場所
日本人のケの世界は、海と山に挟まれている
日本では海も山も、神が住む世界
キリスト教においては海も山も悪魔の巣
そして人間は神のいる天につながる
日本人にとって神は「奥」にいる
「奥」というのは海の向こう、山の彼方
そこに至るあいだに境界性をもった場所がある
それを都市に移し替えたのが神社やお寺
そこでは天につながっていくわけではなく
「奥」へとつながっていく
だから社寺には森が必要で、池が必要
そこで「見立て」が起こって
それがその土地でありながら同時に別の土地の風景にもなる
砂が海で、石が水の流れだったりする
別の風景を思い浮かべることができる
こういうものは西洋にはない
それは日本人の心性に
いま見ているものと別の場所をつなぐ領域があるから
それが、日本人の情緒ではないか
それが生まれるためには
自然のなかに自分が包まれているのだ
という感覚がないといけない
自分が見ている現実が
そのまま対象物であるという二元論を
日本の精神性は持たなかった
◆日本の神には、二つのタイプがある
ひとつは折ロ信夫が考えた「まれびと」
それは向こうからやって来る神
橋を越えて来たり、森の中から人間の世界に現れる
もうひとつは柳田国男が考えた「祖霊」
先祖霊は、人間の住む里の裏山に居る
祖霊はだんだんと山へ昇っていき
長い時間をかけて浄化されていく
そして子孫の生活が、幸福であるようにと
温かく見守っている
この二つの神の考え方が、日本人の中にはある
らしい
「祖霊」は、先祖が子孫を見守り
子孫が先祖につながっていることで安寧を得ている
という点で、人間が中心
ところが
「まれびと」の考え方は、人間中心ではない
外の世界からやってくるものが祖霊かというと
祖霊とも言い難い
何か怖ろしい仮面を付け
じゃらじゃらと音を立てたり藁で体を覆ったりしている
たとえば「なまはげ」
なまはげは子どものために
あえて怖い格好をして現れている
外の力を、子どもを介して村の中に入れている
祖霊とは違うカか働いている
そのような複論理的なせめぎ合い、合体として日本の神はある
民俗学において
折ロ信夫と柳田国男が
二つの神の考え方をはっきり出してくれたおかげで
日本人の神のかたちの複雑さが見える
一方に
山という高い地点から人間を見下ろしている神がいる
もう一方に
海や山という周縁につながっている場所
里山(インターフェイス)を通って
やって来る、何ものか異形のものがいる
◆大事なものは中間にある
里山だったり、縁側だったり
常にあちらとこちらをフィルターしてくれるものがある
両方の世界を支える何かがある
それこそが実は主体なのではないか
そこに通底するのは「あいだの思想」
たとえば鳥獣戯画
きわめて人間的な部分と
兎にしても猿にしてもきわめて動物的な部分が同居
マンガはまさにそういう世界
その世界に没入することもできるし
元の世界に戻ることもできる
これは日本人の感性
里山は人間と間が混在している場所
向こう側から人間の世界に何かが立ち現れてくる
その通路となる「橋」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ということでした
頑丈な橋で二つの世界をつないでいる西洋
ところが
日本の橋は、向こう岸に「確かな有」があるわけではない
次回は「橋」についてであります
厳しい時は続きます
心の栄養補給は怠らない様、ご自愛下さい
ではまた