核燃料サイクル政策の曖昧さ露呈 「高速炉は維持」に疑問の声も
夢の再利用エネルギーはついに夢に終わってしまった模様です。
以前にも触れましたが、ナトリウム漏れや部品落下事故以来、稼動はおろか修復すらもできない状況が続いており、既に長年ただの金食い虫になっていたわけです。しかしどうしてさっさと廃炉なり方針転換なりできなかったかというと、この技術自体が原子炉を動かした後にできる核のゴミを何とかしてくれるはずだという希望、というか幻想があったからです。つまり、もんじゅがダメならやはり核のゴミは最終処分しなければならないということになりますから、その処分地のババ抜き合戦が全国で起こってしまうことになるからです。プルトニウムなんて半減期が何万年とありますから、そんなもの誰だって面倒を見たいわけがありません。また将来的に軍事兵器に転用を・・・という発想もなくはないでしょう。それらを考えないようにするために、とりあえずプランを立ち上げ、「もんじゅが何とかしてくれるから中間貯蔵施設を作らせてくれ」と誤魔化して青森に作り、その後事故があっても今日までずっと頬かむりを続けていたわけです。これ、福島原発事故の後の「凍土の壁ができるから安全ですよ」とアピールしまくっていて結局凍らなかったアレと構図が全く一緒ですよね。こういうのをまさに泥縄と呼ぶのです。
豊洲の問題にも通じると思いますが、日本はどうも理論家と実践家というか、頭で考えてプランを立てる人間(官僚)と、それを実際に作る人間(技術者)の意思疎通がしっかり図れていないのではないでしょうか。途中で方針転換があったとしてもそれが十分に伝わらなかったり、説明を怠ったりして結局双方の思惑とは程遠い結果になってしまうということが多すぎる気がします。これは教育現場でも一緒で、教員にゆとりを・・・とか言いつつ「ノー残業デー」という形式だけを強いることで、他の日にとんでもないしわ寄せが来てしまうことをプランナーは気づいていないでしょう。余計な愚痴になってしまいましたが(笑)もんじゅは相当の国費をつぎ込み、関連して働いている人も多いわけですし、開発を止めるなら止めるでまた今後色んな問題が出てくるのは間違いありません。「起こりえる最悪の事態」までしっかりと考えた上で、泥縄にならないよう決断すべきは決断しなければいけませんな。
夢の再利用エネルギーはついに夢に終わってしまった模様です。
以前にも触れましたが、ナトリウム漏れや部品落下事故以来、稼動はおろか修復すらもできない状況が続いており、既に長年ただの金食い虫になっていたわけです。しかしどうしてさっさと廃炉なり方針転換なりできなかったかというと、この技術自体が原子炉を動かした後にできる核のゴミを何とかしてくれるはずだという希望、というか幻想があったからです。つまり、もんじゅがダメならやはり核のゴミは最終処分しなければならないということになりますから、その処分地のババ抜き合戦が全国で起こってしまうことになるからです。プルトニウムなんて半減期が何万年とありますから、そんなもの誰だって面倒を見たいわけがありません。また将来的に軍事兵器に転用を・・・という発想もなくはないでしょう。それらを考えないようにするために、とりあえずプランを立ち上げ、「もんじゅが何とかしてくれるから中間貯蔵施設を作らせてくれ」と誤魔化して青森に作り、その後事故があっても今日までずっと頬かむりを続けていたわけです。これ、福島原発事故の後の「凍土の壁ができるから安全ですよ」とアピールしまくっていて結局凍らなかったアレと構図が全く一緒ですよね。こういうのをまさに泥縄と呼ぶのです。
豊洲の問題にも通じると思いますが、日本はどうも理論家と実践家というか、頭で考えてプランを立てる人間(官僚)と、それを実際に作る人間(技術者)の意思疎通がしっかり図れていないのではないでしょうか。途中で方針転換があったとしてもそれが十分に伝わらなかったり、説明を怠ったりして結局双方の思惑とは程遠い結果になってしまうということが多すぎる気がします。これは教育現場でも一緒で、教員にゆとりを・・・とか言いつつ「ノー残業デー」という形式だけを強いることで、他の日にとんでもないしわ寄せが来てしまうことをプランナーは気づいていないでしょう。余計な愚痴になってしまいましたが(笑)もんじゅは相当の国費をつぎ込み、関連して働いている人も多いわけですし、開発を止めるなら止めるでまた今後色んな問題が出てくるのは間違いありません。「起こりえる最悪の事態」までしっかりと考えた上で、泥縄にならないよう決断すべきは決断しなければいけませんな。