katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

そしてローマ、最後の晩餐

2015-02-15 08:52:39 | モザイク作家
今日は、いよいよイタリア最終日。どうやら、バチカンに連れて行って貰えるらしく、ただ、昨日の天気予報だと、お昼から雨が降るらしく若干心配ではあったが、ひとまず大丈夫。

そんな中、電車で一時間弱で到着。言われるがまま着いて行くと、そこは美術館。
と言う訳で観賞が始まるんだけれど、絵画に詳しくないし、宗教画だし、そもそもが、

俺のモザイクのベースが、ここから始まったような話で、格式のようなものが無くて、見て分かりやすく、出来れば楽しいモザイク作ろう。そんなのだった気がする。

何しろ昔イタリアに来た時に、こうしたものを見続けてへこんで、自分らしさを問われた気持ちになっての答えが、方や、戦争の中、生きるだけが幸せの時代の中でのモザイクは、

生きる希望ヘ導くものでもあるような気がして、逆にあるようなものが、主義主張を持たない模様の繰り返しのスタイルがあって、この両極端がこの美術館での地獄絵図になる。

それらに属さないもの、それが俺のベースとなった。では何が地獄なのか?それは、いくら綺麗事を並べた所で、事実は幾何学模様のモザイクは、絵画の部屋の床にあり、

気が付く人は少なく、あくまでもメインは絵画。では見せるモザイクとしても、大理石の柱に囲まれて、圧倒するような大きさならば、絵画に見劣りする事も無く人が立ち止まる。

作り手ならば、この歴然とした差は、見る人が使った時間が全てであり、知ろうが知るまいが、人は凄いものや、素晴らしいものの前には時間を惜しまないと言う事。

更に言えば、これも素晴らしいのになぁと思うような1mにも満たないモザイクでは、迫力も無く、可愛らしさも無く、技術すらも判って貰えないそんな扱いとなる。

何しろ全てのモザイクのスタイルが、フレスコ画にあり、ドットであり、大きさ問わずにやり方はが一緒。それでは今の時代に何一つ、合い交わる事が無い。今は、楽しみなんてものや、趣味なのだから、いかにその人の持ち時間の中で、最高な出来栄えになるように。

そんな事が教室には問われ、作家としては、オリジナルでの力量が大きさ問わずに求められる。当然、切る技術が問われる事になるのね。

こんな事を前回に学んだ上での今回は?そうね、正直昔違って、へこまずに最後まで問題無く見られた。それを持ってしてのバチカン。そうね、やきもき焼いたかな。

表現するなら、チェって感じ。見終わって、日高氏にこの中で俺達は他のどの人よりも技術が解るよな?そうだな。切る、張る、組み立てる、解るよな?

タイル屋とモザイクの人なんだから。それを踏まえて。

じゃ聞く。何か1つでも出来る事あったか?って聞くと、無理だって。まるで昔の俺だわっ。俺はこのバチカンのモザイクに、1つでもあっと言わせたいんだよね。

ただ、大きさと格式は、かなわないと判ったんで、また新たなkatsu探しになる。
そんな気持ちで見た全てのモザイクは、他の誰よりも本気で、うもるような事が無いように

お疲れ様でした、見せてくれて有難うって気持ちで挨拶して来た。少なくとも、途中で心が折れた昔と違って、きちんとね。あんた達には簡単には、負けられないって、

敬意を持って、爪の1つも剥がせるようなそんなモザイクが作りたい。それが本心。あなた達には進歩は無い。俺にはまだ延びしろがある。また来るから、待ってて。

いつかみんなとここに来て、クスッて笑って見たいのね。だからさ、その時までね。
いつか作務衣に雪駄で真ん中歩きたい、それも夢としよう。

タブレットで入れにくいから、ここまで。

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