今日は午後からみどり教室。その前に明日、棟梁とりょうさんに頼んでいる亀有大道芸祭り、手作りリサイクルマーケットの荷物を棟梁の家に・・・って事からスタート。ただその日は亀有カルチャーの日なんで、終わり次第合流って事になるので、なるべくコンパクトに・・・と考えていたのだけれど、
棟梁が大丈夫だから・・・何とかなるって・・・って事で、更にはりょうさんの旦那さんが運んでくれるって事で、りょうさんの家に運ぶ事になり、そこでも、これだけ?・・・もっとあったでしょ?って。何んとも有難い話なのね。って事なんだけれど、逆に足りないものが出て、また晩に来る事になり・・
いずれにせよ、戻ってみどり教室。3週間振り位らしく、そう聞くと久し振りなのね。そんな中、もう終盤でこれからは扉が開いた光の部分なんだけれど、そんな中、こんな話をしたのね。例えば昔はネットなんてものが無かった時代は、個人の努力だけでは情報を得る事は難しかったと思うのね。
勿論、ここはいつもの想像ではあるのだけれど、ユーミンとかがブリテッシュな音楽がベースにある・・・なんて話を聞いたりすると、育って来た環境が裕福だったりして、一般的では無い状況では、見る事聞く事が一般的に普通な事とは違う基準の普通がそこにあって、だからこそそれがお洒落に繋がり、
一般的に中々味わえない事が新鮮に聴こえたりしたと思うのね。また、宮崎監督のように登場人物に鳥の名前なんかが出て来たり、千と千尋やポニョ、トトロなんかの背景なんてものの知識は、子供の図鑑では調べられるようなものでは無く、余程の専門知識や、実際に現地に行かないと判らない、緻密な
情報の元に制作されていると思うのね。つまり人が凄い・・・と感じる事をしたいのなら、そもそもの段階で既に差があると言う事の裏付けを感じるのね。なのに、なのになのね。そんなに凄い人達がそれだけの情報ありきでスタートしていると感じるのに、今の時代はみんなに平等なのね。
本気でググれば相当な細かい情報を得られる。つまり素人ながらしっかり調べれば、その当時程の差は感じられないと思うのね。更に例えば、テレビとネットを比べても同じで、その当時はテレビでしか情報を得られない位、一般との情報には差があって、そこには憧れが詰まっていたと思うのね。
しかし今はテレビが制作するまでの時間の間よりも、ネットの情報は早くニュースですら、一般情報に頼る位だから、流行りすたりのスピードも、あっと言う間に広がり、あっという間に飽きられたりもする。ただ、それはお気軽簡単なものだったりするからであって、きちんと手間暇を惜しまずやれば、
こうして素人であっても、お母さんってくくりであっても、そう簡単に流されてしまわない作品を作れる・・・って見本であるのね。そんな見本になるべき弟子の作品なら、こんな感じかな?・・・みたいな適当な感に頼る作り方をするべきでは無いのね。そもそもみどり程度の情報では知れているのね。
つまりググって情報を増やす事なのね。もっと最高の作品にするのなら、最後のひとひねり・・・それが自分には無い情報を増やし、思い込みでは作らない事だと思うのね。所が良い事と悪い事は背中合わせ。つまり今までは良い事で悪い事は、ググるには自分の探したい事を文字にしないとならないのね。
これが感の場合は、例えば中古レコード屋さんや古本屋さんのお買い物と新品を買うような違いがあって、中古や古本の場合、知らない情報を得る時に過去の情報を得る感じなのね。何せ古本なんだから。ただね、それがもし世界遺産だったり、今でも価値があり今でも衰退していないものなら、その情報は
今の本の情報と左程変わらなかったりする。そんな感じの場所へ感で何と無く、フラッと入った場所で出会う情報があったりする。しかもアナログだから、何も考える事無く、取り出せば本なら中身を確認して買えば良いが、レコードはジャケ買いなんて冒険があったりしたのね。
要するに何と無く引く・・・そんな出会いがあったのね。それを情報が新品って言うのが、町の本屋さんやレコード屋さんであって、マニアックな場合は、タワーレコードだったり、洋書を置いてあるような大型書店だったりすると、それがさっきのユーミンやら宮崎監督のような差だったりして・・・
いずれの場合もそんな感みたいな出会いが出来たのね。それがググるとなると、情報はみんな一緒なのに、そこには探したい言葉を入れないと動かないのね・・・アナログなら神田を歩けば見つかったのに。頭が良いのか?悪いのか?みたいな話なんだけれど、そうなると表現力みたいな事が要求される。
何しろ何を探していますか?・・・って聞かれているようなものだからね。だから常に短い言葉でいかに伝えるか?の練習になるのね。出川さんの外国人との会話みたいにね・・・間違っていても伝われば、Google先生がこれかい?って言ってくれた事をネットサーフィンすれば、たどり着く事もある。
けれどなにも入れられなければ、何処にもたどり着かないのね。それを探す事・・・って説明を永遠としていた感じだったのね。みどりはそこがあんまり上手く無いのね。それではいつまでも自分の欲しい情報が手に入らないし、そこに時間が掛かり過ぎては本末転倒になるのね。
ただこれもミイラ取りがミイラ的な事にならぬように・・・なのね。そもそも情報はモザイクをしたいが為の情報であって、調べる事でお腹一杯になっては、何の為の資料集めなのか?ただの資料好きでは意味が無いのね。いずれにせよ、一体どんな光が欲しいのか?であり、それがこの作品の一番大切な
部分でもあると思うのね・・・向こうの世界は光をわずかな量で良い事を予感させるような気持ちにさせ、しかし良い事と悪い事は背中合わせで、って事はこっちが悪かった・・・って見えてしまうのね。つまり親子で過ごした時間を悪く描きたいか?になってしまうのね。ばかちんが・・・。
つまり右側の扉が黒く悪い事に見えていても、それは光が差した左側に薄っすら扉の内容が同じなのに、良く見える雰囲気が作れれば、あっちが良くてこっちが悪い・・・・って単純な内容では無くて、あっちには無いもの・・・か見せられれば、こっちの良さを表現出来ると思うのね。
そんな光は何か?であって、単に光の好みを探しても安くなるだけなのね。しかも品と言うのなら、ゴッソリ見せるんでは無くて、ここまで見せると下品だけれど、ここまでなら・・・ってラインがあると思うのね。こんな話はアトリエに来ている人なら、ウンザリする位話していると思うのね。
常にそこを探せれば、自分らしいラインを見つける事になるのだけれど、人とは違うだけってあまのじゃく的な発想や、人と同じって右に同じみたいな安易な表現はしなくなると思うのね。必ずこの辺・・・って部分が共感も得られて、突飛な事にだけはならないと思うのね。
いずれにせよ、ある程度切る張るってモザイクとしての基本の技術を出来るようになったら、表現力って言うのはこんな事から始まると思うのね。それは同じ人物であっても、攻撃力と守備力みたいなもので、攻撃が上手いから守備も上手いとは限らないし、学科が通っても運転が上手いとは限らない。
みんな同じで、もっと言えば、仮にどちらかが100点だと、逆は恐ろしく見劣りする可能性があると言う事。それがそこそこなら、それ程見劣りはしないのね。つまり全て同じで、切る事張る事が上手く見えるのなら、その見えた分だけ内容が必要になる。しかしペラペラだと、切る張るが上手いだけ。
そうならない為にもいかに見劣りしない内容が必要になるか?なのね。しかも、切る張る技術とは全く関係が無いから、大人だろうが子供だろうが、条件は一緒・・・だから、上手いって言われれば言われる程、見劣りスタートになる。逆に仮に見事な表現力であっても、技術が無いと稚拙な出来栄えに
なる。折角のここまでの出来栄えなのだから、最後の最後まで気を抜かず自分の体表作になるように・・・そんな気持ちで作れば、必ず結果は後から付いて来るものなのね。それを感だけではいくら技術があっても、そこまで止まりになるだろうね。ってそんなお教室の後は、また棟梁の家へ・・・。
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そうそうそんな中、下地は後はフック付けのみ。これで何とか逃げ切った感じにはなったのね。