katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

かぐやと新モンゴル日馬富士学園の額制作

2020-03-07 07:23:35 | モザイク作家
今日はかぐやと新モンゴル日馬富士学園の額制作。そうね、正直かぐやにモザイクって言う事をいちいち教える事は無いと思うのね。でももし教える事があるのなら、一緒に作るって言う事は、1人で作るのとは意味が違うと言う事で、意志の疎通ってものが必要になり、その中にも個性を出せる場所と、一切出してはいけない、

そんな場所がある。そんな心持ちのような事なのね。例えば一人で作る作品なら、何をどうしようと自由なのね・・・良くも悪くも。ではそれを料理だとする。今日、昨日、一昨日、そして明日・・・毎日味付けが違っても何にも問題は無いのね。でも、病院なら別に良いでしょ?って訳には行かない。全て決まりがあると思うのね。

この極端な例の間あたりが、レシピ通り作ったんだけれど、何かなぁ・・このニュアンスが分量を大体で作った感じの表現だったり、一定の味付けにならない場合は、ベテランが図らずにその都度、雰囲気や慣れでこんなもんだろう・・・と作った場合で、帳尻を合わせた感じであり、病院は決まりの通り・・そんな違いすがあって

それが結果に反映されたと思うのね。そして常に一定って言う基本がプロの第一歩だったりすると思うのね。これが音楽なら、初見の楽譜をすんなり引く。こんな感じの話。ここまでは普通の話で、一応ここまでは技術や几帳面なんて言葉で到達しそうな事なんだけれど、その先はちょいと違って来ると思うのね。例えば野球。

フライが上がって落とさず取れればアウトに出来る。そうね、取るだけのワンプレー。つまり自分1人で完結する。しかし、もしゴロなら、同じ取ったとしても、取って投げないとならない。自分だけでツープレー。更にその球を取る人がいて、スリープレー。それがまとまった時にアウトになる。しかも携わる人がいる・・・。

これがバレーなら、レシーブして、トスが上がって、スパイクをする。3人揃わないと、誰かが、あっ・・・って言ったら、そこで完成度の確立が下がる。人数が増えれば増える程、いかにバスの伝達ゲームのように、短い時間で伝わるか?伝えるか?そして失敗した時に立て直せるか?立て直すか?みたいな事が必要で、2人の場合、

ダブルスのようなものになる。そこ頼むね・・・みたいな。でもね、そこ任せて何がしたいの?自分は?そして次のプレーは何に繋げて、どう決めるの?がお互いに判っていないと、やらされている気分にもなるし、ただこなされても、次何するの?みたいに作業になる。この言葉はただこなしているだけで、考えていないセリフであり

考えるって行為は、常に責任を負う事になる。何せこれは仕事なんでね・・・当然、俺が責任者である事は当たり前なんだけれど、ではかぐやは何?となった時もし手伝い・・・と言うのなら、今までの話は一切いらないと思うのね。でももし仕事にしたい・・・と思うのなら、との程度?って事になる。手伝いなら、良く出来た。

そんな程度でお駄賃みたいな話。それがパートとかバイトとかになり、社員なんてくくりがあったりすると思うのね。普通ね・・・でも、もし職人なら修業なんてものがあって、それで得た技術を持って職人になって、そのまま何処かに勤めるも良し、独立するも良しなんて事にもなったりする。どれも普通な話なのね。何故なら

全てがきちんとした道が出来ている所を歩いて行く話だから。何もかも保証があって、明日の糧になる。けれど、何の保証も無く、単に成功を夢見てやっているような事への参加なんて、一体その先に何があるのか?の保証なんて何も無いのね・・・まぁ難しくなる話だから、これ以上は膨らませないけれど、いずれにせよ、

何を習いたいか?どうしたいのか?みたいな話であって、かぐや位になった時には、誰も教えてはくれない・・・ただ簡単な話で言うのなら、自分の立ち位置を低くすれば、楽になり、自分の立ち位置を高くすれば、責任を負う事になる・・・しかも道が無いって言うのは開拓みたいなもので、正解がある事では無いのね。

探す行為って言うのは果てしないもので・・・きっとそれが何か?・・・を感じる時間になるんだろうと思うのね。

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